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2009年長崎UBF Ten Step 10thメッセージ --> 問題紙

新しい人生

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカ5:27-32
要 節:ルカ5:27「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。」

今日の御言葉にはイエス様が取税人レビを御呼びする場面です。イエス様はレビに言われました。「私についてきなさい。」このお誘いはどんな意味が含まれているのでしょうか。イエス様は三十八年間、病気にかかっていた人に、「よくなりたいか」と言われました。しかし、取税人レビには「私についてきなさい」と言われます。このお言葉の意味が何でしょうか。今日の御言葉を通して、イエス様の御言葉の意味を学びますよう祈ります。

Ⅰ.わたしについてきなさい(27)

27節をご覧ください。この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めておられました。その後とは、イエス様がペテロやアンデレといった漁師出身の弟子たちを御呼びになり、らい病、中風の病気を癒された後のことを指しています。イエス様は純粋で、素直な漁師出身の弟子たちを好んでいたように思えるとき、取税所に座っているレビという取税人に目をとめられました。

当時の取税所と取税人とはどんなところであり、どんな人だったのでしょうか。取税とは、税金を取り立てるところとして、当時、ローマの支配を受けていた植民地のイスラエルとユダヤ地方は、様々な税金が課せられていました。このようなローマ時代の税金制度は極めて過酷でした。その一つは、ローマ帝国へ税金で、ローマに属している民として、ひとりひとり、収入の10%を納めなければいけませんでした。また、穀物税と言い、農民は収穫の10%を税金としてローマに収めていました。また、神殿税といい、エルサレムの神殿に納める税金がありました。他にも相続税、独身税など様々税金があり、民は苦しんでいました。特に、人頭税といい、収入とは関係なく、ひとりひとりの頭の数分の税金がすべての人々にかかっていました。これらの税金のおかげで、ローマの国は大変豊かになり、「レンガの町が大理石の街になり、非常に美しい『永遠の都ローマ』」と言われるようになりました。植民地の人々にとってこのような事実は大変怒り心頭になるようなものでした。植民地の人々は食べるものがなく、乞食が多く、病気に苦しむ人々が多いのに、ローマの国は豊かな生活ぶりをしていること自体が腹立ちました。まあ、それは支配者の原理で、ローマの人々のエゴだとしても、このような支配者にくっつき同じく豪華な生活をしている人々がいました。それはなんと、同族であり苦しむ立場にあるユダヤ人であった当時の取税人たちでした。同族の取税人たちは税金を取り立ててはローマに収めましたが、その一部は自分のポケットに入れることができました。このように正規のルートからも金があふれているのに、税金を幾分安くしてもらうためにも、彼らにはやみ献金が入りました。彼らのポケットにはお金がたまるばかりでした。彼らは金馬車に乗り、週末を楽しみました。お金でできることは何でもできました。人々は苦しんでいても彼らは全く困りませんでした。人々は食べ物がなくても、彼らにはいつも豪華なものが有り余っていました。

ユダヤの人々はこのような取税人を罪人扱いしていました。彼らは税金を納める以外には取税所に近づきませんでした。取税所に座っている取税人たちとは話もしたくありませんでした。もし、飲み会席上に取税人が参加するとしたら、人々はその飲み会には参加しませんでした。ユダヤ人の間には「取税人のような人間」といえば、人間として扱いたくない動物や図鑑にない昆虫のように扱われました。ユダヤ人の間には、取税人が最低人間として、罪人扱いされていました。

取税人レビは今日も、取税所に座っていました。誰も近づかない取税所に座り、無味乾燥な税金を取り立てる仕事に取り掛かっていました。ぶすっとした顔つきでお金を払う人々、顔も見ずに話をする人々の中で税金を取り立てていました。免許更新の時に、交通安全協会に払うお金を出すときに、私はいつもぶすっとした顔で、払っていますが、受け取る人は「ありがとうございました」と大きな声で叫んでいます。しかし、とても気持ち悪く聞こえる場合があります。なんでこんなにもお金を払わないといけないのか、ぶつぶつ言いたくなります。ユダヤの人々は酒税所に来て、みんなぶすっとした顔をして、税金を支払っていたに違いありません。毎日のように、そのような扱いされる取税所で働くことは辛いことだったでしょう。

レビはなぜ、このような取税人になったのでしょうか。たぶん、レビは取税人になりたいと思っていたことでしょう。レビはお金が必要でした。お金があれば、何でもできる場面に何度も出会っていました。金がなくて困った、涙を流した経験が数多くありました。彼はお金持ちになる道が一番の成功だと思いました。彼は取税人になることについて真剣に考えました。取税人になる道も険しいでしたが、取税人になったのちのことも険しい道でした。彼はこのような選択肢の中で取税人を選んでいました。彼は取税人になった時の損失を考えましたが、やはり取税人になることを心に決め、税務試験に挑みました。そして、ついに夢の税務官、取税人になりました。レビは執念深い人でした。人がなんと言おうが関係なく、自分の考えを貫く精神力がありました。取税人としての特権や権利を手にしましたが、何かと心の寂しさを拭えませんでした。お金を追及してやってきた人生が本当に良かったのか、思えるようになりました。

このごろ、人々はイエス様のうわさでわくわくした生活をしていました。イエス様の講演会に参加しては、ライ病人がいやされたとか、中風の病気がいやされたとかの話で盛り上がっていました。近所のペテロさんやアンデレさんは、イエス様と一緒に大漁の経験をしたのだとのうわさが広がっていました。町中は神様のお言葉を聞いて満足する人々に賑わっていました。しかしながら、レビは彼らの中に入り込む余地がありませんでした。人々もレビにそのような講演会に招待することはありませんでした。イエス様の講演会に取税人が招待されたとしたら、その講演会は人々が集まるはずがありませんでした。

27節の御言葉をもう一度、ご覧ください。この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留められました。目をとめたとは、見つめたことを意味します。このようなレビの姿に注目されたことを意味します。レビの悲しみ、レビのさびしさ、レビの苦しみ、レビのむなしさに関心を持たれたことを意味します。そして、レビに言われました。「わたしについて来なさい。」この御言葉の意味が何でしょうか。

第一に、イエス様についていく生活をしなさい、という意味です。

レビは今まで、お金についていく生活をしていました。お金から来る権力、特権、裕福についていく生活をしました。しかし、彼には満足がありませんでした。真の喜びがありませんでした。確かに、裕福になりましたし、夢のような金持ちにはなりましたが、なんだかむなしい心を抑えることができませんでした。イエス様はこのレビに言われました。「私についてきなさい」イエス様はレビがお金に執念を燃やしたように、イエス様に執念を燃やすことを願いました。権力やお金、裕福を求めて走ってきたように、同じように、イエス様についていく生活を求められました。イエス様はその執念深さが彼に新しい人生の道が開かれることを確信しておられました。彼に満足のいく人生の道が開かれることを信じておられました。イエス様はレビに言われました。「私についてきなさい」

第二に、信仰生活を始めるように、という意味です。

信仰生活とはイエス様についていく生活を意味します。聖書勉強とはイエス様の生活がどうであったのか、イエス様の生活ぶりがどうであったのか、イエス様の教えがどんなものなのかを学ぶことですが、信仰生活とはこのようなイエス様の弟子になることを意味します。教会に通うことが信仰生活の一つですが、事実、信仰生活とはそのようなものではありません。信仰生活とはイエス様についていく生活のことを指します。その意味で、教会に通わなくても、もちろん信仰生活はスタートできます。イエス様はレビが、このような信仰生活をスタートするように、と誘っています。すべての生活にイエス様とともに歩む生活を始めるように誘っています。これが信仰生活です。私たちの心にイエス様が生きている時、私たちはすでに信仰生活をスタートしています。イエス様はレビがこのような信仰生活をスタートするようにと、言われたのです。「私についてきなさい」

第三に、目に見えるものより見えないもののために生きる、という意味です。

レビは見えることが大事でした。目に現れることが大事でした。手で触れるもの、目で確認できるもののために働いてきました。レビの人生目標はお金であったり、職場であったり、実績であったり、業績であったりしました。しかし、イエス様はこのようなレビが、これからは目に見えるものよりも、見えないもののために人生をスタートするようにと誘っています。これは人生の根本問題に真剣にぶつかる生活を始めるように、という言葉です。私たちには見えることが大事ですが、見えないことのために人生を真剣に取り組むべきです。その人生に真の満足と幸せが用意されているからです。イエス様についていく生活をするとは、見える生活をしばらく休み、さらに豊かにする「イエス様についてゆく生活」を始めるように誘う言葉です。これが人生を幸せにする秘訣なのです。

わたしたちは人生の幸せが、見えるものにあると考えます。しかし、イエス様は人生の幸せが見えるものではなく、見えないものにあることを教えています。イエス様はこの時間も、私たちを見えない世界に誘っています。そして、言われます。「わたしについてきなさい」

Ⅱ.罪人を招いて、悔い改めさせるために(28-32)

このようなイエス様の誘いに、レビの反応がどうですか。28節をご覧ください。「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」レビは迷いませんでした。レビは周りの人々のことを気にしませんでした。レビは何もかも捨てて、立ち上がって、イエスに従いました。レビはイエス様の誘いに答えました。誰も、声もかけないレビに、「わたしについてきなさい」とされるイエス様の声に、答えました。これはレビの感謝の気持ちの表れでした。レビのイエス様への感謝の気持ちが、何もかも捨てて、立ち上がって従うことのできる力となりました。レビは執念深く、自分の目標を貫く人でしたが、素直な感謝ができる人でした。29節をご覧ください。「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。」とあります。レビの感謝の気持ちは、イエス様に従うだけでは抑えきれないほどでした。レビはイエス様のために宴会を催しました。仲間や取税人、多くの友人を誘いました。

すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言いました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」イエス様がそのような取税人の宴会に参加してはいけないと、反発していました。少なくとも、イエス様のような預言者、神様のしもべは、罪人や取税人と一緒に飲み会に参加すべきではないと批判していました。31節ご覧ください。そこで、イエスは彼らに答えて言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

ローマ人への手紙3章は、私たち人間について次のように言っています。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」人間は誰でも、お医者さんを必要としています。この世の中には義人だと思う罪人と、罪人だと思う義人が存在ます。罪人は悔い改めて、神に認められるからです。

この時間、イエスは私たちに言われます。「私についてきなさい。」わたしたちが感謝の気持ちを持ってイエス様についていくことができますように祈ります。何もかも捨てて、イエスに従ったレビから、感謝の気持ちを学びますように祈ります。私たち一人一人がイエス様の弟子として生まれ変わりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23