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9th Step of Bible Study --> 問題紙

御言葉:ヨハネの福音書5章1-9節  要節:ヨハネの福音書5章6節


1. イエス様は、いつ、どこに行かれましたか(1,2)。そこにどんな人々がいましたか(3)。彼らはどんな機会を待っていましたか。その機会をねらう病人達の間にどんな問題が発生したと思われますか。

5:1-3 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。5:4 [本節欠如]

KJV 5:3b-5:4 waiting for the moving of the water. For an angel went down at a certain season into the pool, and troubled the water: whosoever then first after the troubling of the water stepped in was made whole of whatsoever disease he had.

개역한글 5:3b-5:4물의 동함을 기다리니 이는 천사가 가끔 못에 내려와 물을 동하게 하는데 동한 후에 먼저 들어가는 자는 어떤 병에 걸렸든지 낫게 됨이러라

5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

ユダヤの祭りがあって、イエスはエルサレムに上られました。エルサレムには羊の門の近くにへブル語でベテスダと呼ばれる池がありました。BC20年からAD70年までのエルサレム地図を見ると、頑丈なエルサレム城の中には城壁がありたくさんの門が設けられていました。ホルタの門、美し門、ダビデの門、柱の門などがそれです。エルサレム城の中には、東側にヘロデの神殿がありますが、その神殿から北側に城壁があり、それに通じる門として羊の門がありました。その門を通るとベテスダと呼ばれる池があって、そこに五つの回廊が設けられていました。池の周りに五つのベランダが用意されていました。

3節を見ると、その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。私たちが参考にしている新改訳の聖書にはその具体的な説明が省かれておりますが、アメリカのKJVの聖書を見ると、その中にいた病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者たちは水がかき回されることを待っていました。それは御使いがたまにこの池に降りてきて、水をかき回すのですが、その水がかき回されてから一番初めに水の中に入る人は、どんな病気にかかっている人であってもその病気から治ったのでした。

これを見ると、ここに集まっている人々は絶望的な病気にかかっている人々でした。当時の医術では治れない、治る希望を置くことができない、しかし諦めることができない、どうにかしてでも治る道を探したい、そのような気持ちを持ってやってきた人々でした。彼らは皆、絶望的な病状に悩まされている人々でした。

彼らはみんな同じく、池がかき回されることをもあっていました。彼らは池が回される前までは仲良く過ごしていましたが、池がかき回される時になると、みんな敵に回されました。一人だけが治るという、厳しい現実を前にして、彼らは絶望していました。重い病気に絶望し、希望を持ってここまで来ているにもかかわらず、ここでまた、彼らは絶望的な現実に悩まされていました。

2. イエス様が特に注目された病人は誰でしたか。イエス様は彼がどんな状態であることをご存知でしたか(5,6a)。また、どんな質問をされましたか(6b)。なぜ当たり前とも言えることを聞かれたのでしょうか。彼の前にいるイエス様はどんな方ですか(ルカ5:17)。

5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

その病人の中には、三十年もの間、病気にかかっている人がいました。韓国のことわざには、「十年も過ぎれば山も川も変わる」といい、10年とは変わるはずのない山も、川も変わるほどの、長い年月であることを表現しています。しかし、本文の中に出ている病人は、変わらないはずの山や川が4回も変わるほどの期間、病気に掛っていたことを記録しています。彼は38年間、このような厳しい病気と闘い、厳しい現実にさいなまれていました。ベテスダの池に来たのはいつからなのかわかりませんが、彼はここにきて、最も厳しい現実にさいなまれていました。

イエスは彼にどんな質問をしましたか。6節をご覧ください。イエスは彼が伏せっているのを見ました。そして、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われました。「よくなりたいか。」この質問はどんな意味を持っていますか。
第一に、良くなりたい気持ちを持ち続けるべきだ、という意味です。

「よくなりたいか」これは確かめる言葉です。確認する言葉です。良くなりたい気持ちがあるのか、問いかける言葉です。

第二に、わたしにはっきりと意思表明をしなさい、という意味です。

「よくなりたいか」イエスさまは良くなりたい気持ちを、その口ではっきりと表すことをお聞きしたいのです。それを求めています。はっきりした意見を要求しています。

3. 彼は自分の病気が治らない理由について何と言いましたか(7)。彼はどんなことに望みをかけていたのでしょうか。

5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

彼の望みはどこにありましたか。彼はどんなことに望みを置いていたのでしょうか。

彼の望みは水がかき回される時に、池の中に自分を入れてくれる人でした。

彼の望みは人でした。彼のぞの実は自分を池の中に入れてくれる人でした。彼の望みは人にならざるを得ませんでした。なぜなら、彼は三十八年もの間、病気にかかっていました。彼は長い間、人の助けを必要としていました。行きかけようと気持ちはあっても、体がついてくれませんでした。誰かの助けが必要でした。彼は人にお世話になっていました。人々はやさしく相手してくれました。困った時には手足になってくれる友人がいました。しかし、この池の中で水がかき回される時、一人だけが治る現実の中では友人も友たちもありませんでした。みんなが自分のことで精いっぱいでした。彼は人々への感謝がありました。人々への恩返しを常に考えていました。しかし、彼の心には人々への恨みも一緒にありました。行きかけると、もう他の人が降りていく体験を、何度も体験しました。

4. どのように彼の病が治り、起きて歩けるようになりましたか(8,9)。イエス様の御言葉にはどんな力があると思いますか。イエス様はどんな点で本当のベデスダ(=あわれみの家)になりますか(参照:コリント人への手紙第Ⅱ1:4-5)。

5:8-95:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

コリントII 1:4-5 1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23