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2009年長崎UBF Ten Step 9thメッセージ --> 問題紙

よくなりたいか

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネ5:1-9
要 節:ヨハネ5:6「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」

今日の御言葉には三十八年間、病気にかかってい人が登場します。三十八年はかなり長い期間です。もしある人が生まれて高校を卒業し、会社に入社して会社生活をしはじめたとしたら、20年間、会社生活をした後の中年の年齢に達したぐらいの期間です。生まれて中年の男性になるまで、この人は病気にかかりっきりの生活をしていたのです。イエスは彼を見るやすぐ、彼が長い間、病気にかかっていたことをすぐわかりました。もう、治る可能性を失った病気であることを悟りました。イエス様はその人に言われました。「よくなりたいか」当たり前の話を聞いているかのように聞こえますが、この質問には深い意味が込められています。今日の御言葉を通して、「よくなりたいか」と質問しておられるイエス様の声を、私たちに与える主のことばとして受け止めることができますように祈ります。

Ⅰ.よくなりたいか(1-7)

1節をご覧ください。ユダヤの祭りがあって、イエスはエルサレムに上られました。エルサレムとは日本でいえば熊本城、大阪城のようなお城を指すもので、BC20年からAD70年までのエルサレム地図を見ると、頑丈なエルサレム城の中には城壁があり、城壁を通りぬくたくさんの門が設けられていました。ホルタの門、美し門、ダビデの門、柱の門などがそれですが、エルサレム城の中には、東側にヘロデの神殿がありますして、その神殿から北側に城壁があり、それにつながる門として羊の門がありました。その門を通るとベテスダと呼ばれる池があって、そこに五つの回廊が設けられていました。池の周りに五つのテントが用意されていました。

3節を見ると、その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。私たちが参考にしている新改訳の聖書にはその具体的な説明が省かれておりますが、アメリカのKJVの聖書を見ると、その中にいた病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者たちは水がかき回されることを待っていました。それは御使いがたまにこの池に降りてきて、水をかき回すのですが、その水がかき回されてから一番初めに水の中に入る人は、どんな病気にかかっている人であってもその病気から治っていたからでした。これは伝説ではなく事実であったので、人々はそこにテントを設け、たくさんの病人を連れてきました。ベテスダの池の周りには病人だらけでした。

しかも、聖書にはベテスダの池がかき回される時に、最初に池の中に入る人はどんな病気にかかっていても治ったと書かれているので、もう、当時の医術では治すことができない絶望的な病気にかかっている人々ばかりが希望をもってこちに集まっていました。当時の医術では治れない、治る希望を置くことができない、しかし諦めることができない、どうにかしてでも治る道を探したい、そのような気持ちを持ってやってきた人々がずらりと並んでいました。彼らは皆、絶望的な病状に悩まされている人々でした。

彼らはみんな同じく、池がかき回されることを待っていました。彼らの池の周りの生活は、池がかき回される前までは仲良く過ごしていました。お互いに慰めあい、同情しあいました。がしかし、池がかき回される時になると、みんなが敵に回されました。どんな病気にかかっても一人だけがしっかり治るという、厳しい現実を前にして、彼らは厳しい表情に姿を変えざるを得ませんでした。昨日までも仲良くしていた友人が水がかき回される時になると敵に回されました。譲れませんでした。譲れるものではありませんでした。彼らはこのような現実を前にして絶望していました。重い病気に絶望し、希望を持ってここまで来ているにもかかわらず、ここでまた、彼らは絶望的な現実に悩まされていました。

これは現代を生きている人々の現実です。勝ち組、負け組に称している社会の隔離と分断は時間がたてばたつほど広がっています。決まっている少数の勝ち組に入るために人々はしれつな戦いに挑んでいます。しかしながら、勝ち組になるメンバーは数人に限る現実の前で、彼らは絶望し、敗北感を味わいながら生きています。一人だけが選ばれるベテスダの池の周りはどこの社会よりも厳しい現実が彼らを重く苦しめていたのです。

5節をご覧ください。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいました。彼は病気をしてもう40年になろうとしていました。6節を見ると彼は伏せていました。横たわっていました。彼はまともに座って歩くことができない状態でした。彼は長い間、このような生活に強いられていました。水がかき回される時、彼は伏せていた体を必死に動かしました。横になっていた体を動かしました。しかし、彼の周りには水がかき回される時に、すぐ池の中に入れる病人がいっぱいいました。水がかき回された時、彼は水の中に入ろうと必死に努力しましたが、もう別の人が入ってしまいました。彼は三十八年間、このような絶望的な現実に何度も出会いました。苦しまれました。彼はもう、ベテスダの池の周りに座っていても夢や希望を失っていました。一人しか治れない現実の中で、自分はだめだ、と思っていたのかもしれません。6節をご覧ください。イエスは彼が伏せっているのを見ました。そして、それがもう長い間のことなのを知りました。彼にはもう、良くなりたい気持ちが薄れていて、もう心の中になくなっていることを悟りました。その彼にイエス様は言われました。「よくなりたいか。」

ここで、「よくなりたいか」とはどんな意味でしょう。

第一に、良くなりたい気持ちを持ち続けるべきだ、という意味です。

病気を持っている人にとって、良くなりたい気持ちを持つことはよくなることの始まりです。良くなりたい気持ちを失ってしまえば、もうおしまいです。名医は患者さんによくなりたい気持ちを持ち続けさせる人を指します。良くなりたい気持ちがあれば、お医者さんは病気と一緒に戦っていくことができますが、良くなりたい気持ちがなければ、どんなに立派な名医でも病気を癒すことはできないのです。ですから、良くなりたいか、という質問の中には、良くなりたい気持ちを持ち続けるべきだ、という強い要求が含まれています。

第二に、神様の前にはっきりと意思表示をしなさい、という意味です。

「よくなりたいか」イエスさまは良くなりたい気持ちを持ち続けると同時に、その口ではっきりと良くなりたい気持ちを神様の前に立って表すことを願っています。それを求めています。はっきりした意見をお聞きしたいと要求しています。これは、神様の前にしっかり立って、「主よ。私が良くなりたいです。」と告白をし、意思表明をする人に神様は働き始めるからです。これはその直してくださる対象を神様に固定し、天と地を創造されました神様に要求をすることを意味します。その人に神様は働き始めるからです。

わたしたちは「よくなりたいか」と質問するイエス様のお話に、「あたりまえじゃないか」と思いがちです。病人が良くなりたい気持ちを持つのは当たり前のように思います。しかし、イエス様からしてみれば彼はよくなりたい気持ちがありませんでした。また、彼は全能な神様にしっかりと意思表明をしていませんでした。この人は今まで、神様に望みをかけることはありませんでした。この人は今まで、良くなりたい気持ちよりも、不平不満の気持がもっと強いものでした。7節をご覧ください。イエス様の「よくなりたいか」という質問に病人は答えましたた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

ここで、私たちは彼の答えに注目することができます。彼の望みは「池の中に自分を入れてくれる人」に望みをかけていました。全能な神様にではなく、人に望みをかけていました。しかしながら、望みをかけると同時に、彼は人への恨みも同時に持っていました。彼は望みをかける対象を人から神様に変えるべきでした。望みをかけることのできない人間から、望みをかけることのできる神様に、望みの対象を変えるべきでした。彼の望みが人間になっていたがために、彼は人間への不信感がもっと強くなっていきました。人間は望みの対象ではありません。人間は愛の対象です。望みと希望の対象は神様です。イエス・キリストです。

考えてみると今まで、彼の望みは人にならざるを得ませんでした。なぜなら、彼は三十八年もの間、病気にかかっていました。彼は長い間、人の助けを必要としていました。人に頼っていました。人に勧められてこの池にたどり着いたのかも知れません。しかし、ベテスダの池がかき回された時に、行きかけようとする気持ちはあっても、体がついてくれませんでした。誰かの助けが必要でした。彼は長い間、人にお世話になっていました。人々はやさしく相手してくれました。困った時には手足になってくれる友人がいました。しかし、この池の中で水がかき回される時、一人だけが治る現実の中では友人も友たちもありませんでした。みんなが自分のことで精いっぱいでした。彼は人々への感謝がありました。人々への恩返しを常に考えていました。しかし、彼の心には人々への恨みも一緒に大きくなっていきました。行きかけると、もう他の人が降りていく体験を、何度も体験しました。人への望みは人への恨みにもなりました。

ルカ5章17節 「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」とあります。イエス様は彼が主の力によって病気から治ることを願っておられました。病気が治ったのは主の御力によるものだったからでした。主の御力により、病気がいやされるのです。

コリント人への手紙第II、1:4-5節は次のように言っています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」病気からのいやしも、慰めも、イエス・キリストの中にあります。

イエス様は三十八年間病気にかかっている人が、かき回される池の中ではなく、イエス・キリストの中に入り込むことを願っています。「よくなりたいか」と質問しているイエス様は、しっかりと良くなりたい気持ちを、イエス様に告白することを願っています。人にではなく、人間にではなく、神様の前に立って、しっかりと「よくなりたい」という気持ちを持ち続けることを願っています。また、しっかりと神様の前に立って、良くなりたいと、イエス様の前で告白することを待っています。その人を主がしっかりと直してくださるからです。人は頼る対象ではありません。頼りは神様であり、イエス・キリストです。私たちに本当の頼り所を教えてくださいました神様を感謝賛美いたします。

Ⅱ.起きてとこを取り上げて、歩きなさい(8-9)

8節と9節の御言葉をご覧ください。イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。38年間、病気にかかっていた人がイエス様の一言で、すぐに治りました。とこを取り上げて歩き出しました。イエス様のことばが彼に働いたとき、彼はもう病人ではありませんでした。彼は健常者でした。

「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」イエス様は人が、神様に頼りしっかりと起き上がることを願っています。しっかり、神様が助けてくださることを確信して、とこを取り上げて歩くことを願っておられます。神様の御言葉に頼り、起き上がり、床を取り上げることを、そして歩くことを願っておられます。彼はイエス・キリストの御言葉をつかみ、確信を持ち、起きました。すると、体が起き上がりました。彼はことばに従順し、とこを取り上げました。すると、彼の体からはとこを取り上げる力が生じました。彼は床をもって、イエス様の言葉を信頼し、歩き出しました。すると、彼は歩き出しました。38年間、病気にかかっていた人がイエス様の一言で、すぐに治りました。

わたしたちには様々な病気があります。しかし、わたしたちが神様を頼り、神様の御言葉に従って、起き上がるとき、とこを取り上げるとき、歩くとき、言葉の不思議を体験します。不思議を体験していくもの、これが信仰人です。私たちがイエス様のことばに頼り、病気を克服することができますように、言葉の力を体験することができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23