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2009年長崎UBF Ten Step 7thメッセージ --> 問題紙

あなたはキリストです

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ8:27-38
要 節:マルコ8:29「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」

今日の御言葉はTenStepの中でも最も大事な「信仰告白」についてです。信仰告白については三つの福音書の中に示されたもので、共通として、イエス様は弟子たちや群衆に信仰告白を求められたことを示しています。マタイの福音書を見ると、ペテロが「主は生ける神の子・キリストです」と告白した時に、イエス様はその信仰告白の上に教会をたてると約束されました。立派な教会は立派な建物の上にあるのではなく、イエス様への信仰告白の上に成り立つものなのです。信者になるためにはこの信仰告白があって初めて信者といえるのです。TenStepの勉強の中に、今日の内容はその意味で、なくてなならないとても大事なステップと言えます。わたしたちもこの時間、イエス様は信仰告白することができますように祈ります。

Ⅰ.あなた方は私を誰だと言いますか(27-33)

イエス様はベツサイダで盲人の目をいやしてから、弟子たちと一緒にピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられました。ピリポ・カイザリヤはガリラヤの湖の北40kmの所にある町で、ヨルダン川の水源近く、ヘルモン山の南に位置する異邦人の地で有名なところでした。異邦の地とはユダヤ人たちとは生活習慣や考え方が異なるところを意味します。それで、ピリポ・カイザリヤにはローマの神パンの礼拝所がありました。その町に弟子たちと一緒に訪れた時、イエスは弟子たちに尋ねて言われました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

当時の人々はイエス様のことを誰と思っていたのでしょうか。弟子たちの答えは次の通りでした。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」マルコの福音書の文脈からして、バプテスマのヨハネはすでに死んでいました。しかし、死んでいるバプテスマのヨハネだといわれているのは、死んだヨハネが生き返ったのだといううわさが広がっていたからでした。イエス様は、かつては力があり、当時の王にも苦言を呈することのできる、力のある霊的・政治的指導者としてバプテスマのヨハネが生き返った人だと、多くの人々のよって見なされていました。もう一つはエリヤだとしている人々もいました。エリヤはイスラエルの初期の預言者でした。エリヤは当時の自然宗教であるバアル教の預言者400人と戦い、本当の神様は唯一のユダヤ人の神様であることを明らかに証明した人物でした。旧約聖書の中でも死を味あわなかった人物としてエノクとともに知られ、死んだ人を生き返らせたのもエリヤが初めてでした。そのエリヤが生き返ることを人々は夢見ていて、バプテスマのヨハネが現れた時に、人々はヨハネのことを生き返ったエリヤと考えていました。そのヨハネがまた生き返った人物として、イエス様を人々は評価していました。人々はイエス様が預言者の一人で、生き返ったエリヤ、またも生き返ったバプテスマのヨハネだと思っていました。

今でも人々はイエス様のことを様々な角度から語っていますが、立派な神様のしもべ、預言者として認めています。知識人の中には知恵のある人物であるとか、お医者さんの中では偉大なお医者さんであるとか、社会学を勉強する学者の中では立派な社会学者であるとかも言っています。自然科学者たちの間では、立派な科学者であるとも言われています。イエス様のお話やお答え、その生き方を勉強すればするほど、そのお姿に感動を覚えます。しかし、すべての見解に共通するものとしては神のしもべ、預言者であることです。エリヤも、バプテスマのヨハネも、昔の預言者も、同様な見解です。今でも人々は同様な反応を示しています。人々の反応をお聞きしたイエス様は何と言われましたか。

29節の御言葉をご覧ください。「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」イエス様は弟子たちに向って、人々の反応をお聞きした上で、質問されました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」この質問の意図が何でしょうか。

第一に、弟子たち個人の見解を求められたのです。

イエス様は弟子たちが個人的に、イエス様のことを分析して、自分なりに理解しておくことを求められたのです。イエス様は弟子たちが人々の反応に従って、人々の見解に従ってイエス様のことを判断するのではなく、自分の見解を持つことを願っていたのです。イエス様は今も、私たちに対して同じことをお求めになります。私たちはイエス様のことを、本で、あるいは友人を通して、あるいは知人を通して紹介されていたのかもしれません。あるいは偶然に、イエス様のことに出会ったのかもしれません。しかし、イエス様はそのような人々の見解を超えて、個人的に理解する見解を持つことを願っておられます。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

第二に、弟子たちに信仰告白を求めています。

「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という質問の中では、弟子たちに何かの答えを求めています。弟子たちがイエス様に対して答えを出すことを、求めています。弟子たちの口からイエス様に向って何かを示すことを求めています。口で告白すること、これは特に、信仰につながるものなら、救いと直結します。ローマ人への手紙10章10節を見ると、次のように書かれています。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」口で告白すると、その人の救いが保証されるとしています。つまり、イエス様を主として、キリストとして告白するとき、私たちは救いを得るのです。その意味で、告白はとても大事なものであることがわかります。マタイの福音書を見ると、イエス様はこのペテロの告白の上に、教会を建てられました。教会は信仰告白する人々の集まりなのです。ですから、教会の中に信仰告白がないなら、それはもはや教会ではありません。

友たち関係も、告白をした友人関係とそうでない友人関係とは根本が違います。男女関係においては特にそうです。告白がある男女関係は告白のない男女関係とは大きな違いがあります。男女関係の中で告白があると結婚を考えた付き合いをし始めます。その意味で告白は真剣で、重いものです。慎重なものです。イエス様は弟子たちにこのような真剣で重く、慎重な付き合いを求められたのです。男女関係もそうですが、イエス様との関係はもっとも慎重で重く、真剣なものです。それは私が義と認められることや、私が救われることにつながる大事なものだからです。それで、イエス様は弟子たちに言われました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

わたしはUBFの牧者の紹介で結婚をしましたので、わたしの女房に「告白」らしきものをせずに幸せな結婚をしました。結婚してからもあまり「愛の告白」をせずに20年を過ごしてきましたことは、一方的な神様の御恵みのお陰でした。メッセージを書きながら、これからは愛の告白をしながら、残りの結婚生活をしなければいけないことを悟るようになりました。告白と言えば、私は25歳の時に、UBFの修養会で「主はキリスト」と告白をしました。一緒に参加していた先輩が、「絶対、これだけはしなさい」と要求していたので、今考えれば、その先輩である彼を憐れんでしょうがなくしましが、わたしは告白してから不思議な体験をしました。体験的に救いを経験しました。私は救いとられるという不思議な感じを体験しました。はじめて、見えない霊的な世界を感じ取るようになりました。「主はキリスト」と口で告白して、現れる魂の救いの形を体験しました。心に不思議な世界や宝石を保つようになりました。その後ずっと、私には聖霊が伴う人生を生きる祝福されたものとなりました。

イエス様の質問にペテロが答えて言いました。「あなたは、キリストです。」ペテロは信仰告白をしました。ペテロはイエス様がキリストであると告白しました。キリストとは神様のしもべ、救い主、油注がれた者、という意味があります。ペテロは自分の人生の主人として、イエス様を迎え入れていました。するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められました。それはこれからのイエス様の任務があるからでした。これからのイエス様の使命があるからでした。その使命と任務が何でしょうか。

31節の御言葉をご覧ください。「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」とあります。イエス様はご自分がキリストであることを認める意味で、キリストとしての任務、キリストとしての使命を弟子たちに紹介されました。32節を見ると、「しかも、はっきりとこの事がらを話された。」とあります。これは英語で見ると、「はっきり聞こえるようにしっかりと話された」ことを意味します。弟子たちがこのことをしっかり聞いておくことを願っていましたし、信仰告白したペテロには特に、キリストの任務をお知らせたいと強く願っていたことがわかります。これは信仰告白したものが必ず理解しておくべき避けて通れない真理の事柄であるからでした。

キリストであるイエス様は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないのです。それを通して、キリストは救いを完成させなければいけないのです。このキリストを主と告白するものに、完全な救いが訪れるのは、イエス様が受けられた「多くの苦しみと、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられたこと、殺されたこと、三日の後によみがえらたことに基づくのです。ですから、十字架がなければ救いはないのです。苦しみがなければ救いはないのです。復活がなければ、救いはないのです。救いは、苦しみと悲しみ、捨てられ、殺され、三日間の闇の中の死亡を、信仰により耐え忍んだ人に訪れる、復活の喜びであり、勝利の宣言なのです。救いはこのようなキリストの苦しみにより得られる恵みであり、神様のプレゼントなのです。

するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めました。ペテロはイエス様がキリストであることは告白しているものの、キリストになるための使命や任務を拒みました。むしろ、その使命と任務を全うしようとするイエス様をわきにお連れして、いさめ始めました。ペテロは十字架なしの栄光を求めていました。苦しみなしの救いを求めていました。悲しみなしの幸せを手にしようとしました。イエス様はそのペテロに向けて、また、同じことを考えている弟子たちを振り向いて、彼らを見ながら、ペテロをしかって言われました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

これを見ると、サタンは神のことを思わない隙間に漂着することを悟ります。サタンは人のことをもっぱら思う心に漂着してくるのです。サタンはイエスさまの首弟子であろうともそうでない人も、神のことを思わないところに漂着します。人のことをもっぱら思っているところにサタンが働きます。キリストとしての神様の使命を考える場合、ペテロはイエス様をいさめることはしなかったはずです。神様の御心が分かっていたとすれば、イエスさまをわきにお連れすることはしなかったはずです。しかし、ペテロは自分の師匠としてのイエス様、自分の人生のカギを握っているであろうイエス様のことをもっぱら考えていたがために、イエス様のお話を素直に受け入れることができなかったのです。強い反発がわき起こったのです。

以上から、イエス様を主として、神として、主人として告白することも大事ですが、主に告白がすんだ人々にとっては神の御心を探ることが最も大事であることがわかります。告白が先ですが、人のことを思うより、神のことを思うことがサタンの仕業から救い出す、近道なのです。信者として幸せを手にする秘訣は神のことを思う心です。

Ⅱ.自分の十字架を負い(34-38)

それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われました。群衆とは当時、12名の弟子とは違って常にイエスさまに付き添っていたとされる70名程度の群れを指していると言われていますが、イエスさまはこの群衆と弟子たちに同じメッセージを伝えたいと思われたのでした。その内容が何でしょうか。34-35節をご覧ください。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

これは弟子たちに、また群衆たちの中でもイエスさまについてきたいと願っている人々に求めるイエス様の声です。それが何でしょうか。ひとつは、自分を捨てること、でした。自分を捨てるとは自分の計画、自分の考え、自分のスケジュール等を捨てることを意味します。これは逆にいえば、神様の自分に対する計画を考えることであり、神様の私への考えやスケジュール等を考えることを意味します。イエスさまは私たちよりも神様の私への計画や考え、スケジュールがあることを教えています。私たちは自分のものより、神様のものを優先しなければ、イエスさまの弟子にはなれないのです。二つ目は、自分の十字架を負うこと、です。つまり、神様が私たちに下さった十字架のことを追うことです。それが何でしょうか。私であれば、家族ですし、教会ですし、世の仕事です。この中でひとつもないがしろにせずに、与えられたことを逃げずに、真剣に取り組むこと、これが弟子として必要な姿勢です。何一つ、神様が与えられてない十字架はありません。目の前に現れるすべての十字架、負うべきものを、しっかり負うこと、これが弟子としての正しい姿勢です。すべての目の前の十字架を前向きにぶつかること、逃げようとしないこと、軽くしようと考えないこと、が十字架を負う姿です。そして、最後に、この二つのことがまっとうできてから、イエスさまについていかねばならないのです。自分を捨てること、十字架を負わすに、イエスさまについていく人は真の弟子にはなりません。イエスさまは言われます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

神様を優先し、神様の十字架をしっかり負う人、その人は救いを得ます。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23