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2009年長崎UBF Ten Step 4thメッセージ --> 問題紙

人間の罪と神様の愛

Messenger:MSN.David

御言葉:創世記3:1-24
要節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

先週は神様が人間のために作って下さいましたエデンの園について学びました。しかしながら、本日はその園を失う事件について学びます。エデンの園が楽園のパラダイスであれば、今日の話は失楽園について語っています。楽園とか失楽園とかは決して神話や昔話ではありません。人間が処している現実であり、実情です。人間は失楽園し、楽園を失った人間は果てしのない苦しみの中に生きていき、ついには一つのつぼに収まる程度の土に戻ってしまいます。神様がそんなにも喜び、感動していた人間が、また、エデンの園を設け、その主人公として立てられた人間が、なぜ、あんなにも悲惨な存在に転落してしまったのでしょうか。

人間はどのようにして楽園であるエデンを喪失してしまったのでしょうか。その楽園を回復する道はないのでしょうか。今日の御言葉を通して人間の実存について、また、神様の中にある希望について学ぶことができますように祈ります。

第一に、惑わす誘惑者サタンの存在。

1節の御言葉をご覧ください。さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾でありました。黙示録の12:9節を見ると、「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」と説明され、全世界を惑わすサタンを指すものです。惑わすもの、蛇が狡猾な姿をもって女に近づきました。そして言いました「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

この御言葉は創世記2章16と17節の言葉を引用しています。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」神様はエデンの園にある木の実について、どんな木からでも思いのまま食べてよいと許可されました。しかし、ひとつだけ、善悪の知識の木から採って食べることを禁じされました。それはそれこそ、神様との関係性を守る、最高の幸せを与える戒めでした。アダムとエバは園の中央にあり、いつでもすぐに目につく善悪の知識の木を見るたびごと、神様を思い出すことができましたし、神様の戒めを思い出すことで、自分は神様により造られたものとして、また、神様の戒めを守ることで命を維持することができる、いのちの戒めを頂いた存在であることを悟りました。また、被造物である自分自身の本当の姿を失うことがありませんでした。神様は人間のためにすべての木の実を与えただけでなく、園の中央には善悪の知識の木を置かれ、神様の存在と自分自身を失うことのない最高の環境を作られました。

しかし、蛇は神様の戒めを歪曲させました。蛇の話はこうです。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女はこの話を聞いて、「全然、とんでもない。神様は中央にある善悪の知識の木だけを除いて、園のどの木からでも思いのまま食べてよいといわれたのです。リンゴ、パイナップル、ブドウ、パパイヤ、マンゴ、バナナ、キウイ、クリ、ナシ、カキ、ミカン、レモンなど数え切れないほどあるあのおいしい果実を私たちは食べるのです。一緒に数えてみようか?」と答えるべきでした。

しかし、女はどのように答えましたか。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」女は神様が、あなたがたはそれを食べてはならない、それに触れてもいけないといわれたのだと話しています。「触れてもいけない」という話は神様から出たものではありませんでしたが、蛇・サタンの話を聞いていると、また、少し会話をしてみると、神様がそのように話したような気がしました。神様が食べてはいけない、触れてもいけない、近づいてもいけないと言われた気がしました。神様のことばが勝手に禁じているように思えて、なにげなく反発感が生じてきました。また、神様は必ず死ぬと厳しく言われたのですが、女は「死ぬといけないからだ」と適当に説明しました。あの神様が死なせることはないでしょう、ただ厳しく言っただけじゃない、と適当に考えました。その瞬間をサタンは見逃しませんでした。サタンは女を攻撃し始めました。

第二に、攻撃者サタンの存在。

4節と5節をご覧ください。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

神様が園の中央に善悪の知識の木を置かれたのは、人間と神様との間のしっかりした秩序を置かれるためでした。しかしながら、サタンは神様の本来の目的と人格を歪曲させました。サタンがそのようにしたのははっきりした目的がありました。人間を高慢にさせ、どんな状況でも神様を捨て、自分自身が神様の位置に座ろうとする考えを持たせることでした。

人間は限界のある存在であることを忘れてはいけません。人間が神の形に作られていても、万物の霊長としてその姿が優れていても、神様により造られた被造物に過ぎない自分自身を忘れてはいけません。人間が高慢になり、取ってはいけないものを自分のものにする時、罪の勢力が動き出されるのです。それで箴言の16章18節にはこう記録されています。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」聖アウグスティヌスも高慢を指し、罪の根こそぎであると定義しています。私たちがサタンの誘惑を勝ち得る道は一つあります。それは私たちが被造物であること、また、私たちは神様を頼るべき存在であること、を謙遜に認めることです。その時私たちは、攻撃者サタンから自分を守ることができるのです。

第三に、人間の堕落。

しかし、女はサタンの話を聞いて、自分が神様のようになろうとしました。神様のお言葉に基づく判断よりも自分の理性的な判断を優先しました。すると、どんなことが起こりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」とあります。女が心を高ぶり、蛇の話を受け入れると、園の中央にある善悪の知識の木が神様になろうとする観点から見え始めました。食べるのに良いもの、目にしわ指しく、賢くするような木の実に見えました。以前は、善悪の知識の木を見るたびごと、つまり、神様のお言葉に基づいてみた時、神様の存在と神様の愛と、神様の命令と尊厳について考えていました。神様を賛美し、心の中から讃美歌がわき出ていました。しかし、今、高慢になった女の心には貪欲と情欲とに満ちてきました。自分の貪欲と情欲に基づいて、園の中央の木の実、善悪の知識の木を判断するようになりました。すると、彼女の善悪の知識の木についての判断が瞬時に変わりました。何を基にしてみるかによって、善悪の知識の木が別のものに見えました。彼女は人間の理性や判断力が、その都度変わるものであることを知りませんでした。すると、彼女は自分自身が被造物であることを忘れてしまいました。女は神のようになろうとする欲望に燃え始めました。手を伸ばし、その実を採って食べました。そして自分も食べ、一緒にいた夫にも与えて食べさせました。その目的は、神のようになろうとすることでした。彼女は神のようになりましたでしょうか。

彼女は、羞恥心と恐れにさいなまれる存在となりました。

ある母親が娘に、肉体の純潔はとても大事であること、肉体の純潔を守らなければ心も壊れてしまうことを説明し、どんなことがあっても、体の純潔は絶対守るべきだと教えていました。しかし、娘は母親の教えが時代遅れの退屈な話だと思いました。娘は自由奔放に生き、肉体の純潔を捨ててしまいました。しかし、ある瞬間、彼女は体の純潔を守らないのが心の純潔も守れない、しかも、体も心もめちゃくちゃになることを経験的に悟るようになりました。荒れ果てた自分の心をコントロールすることができず、薬に頼らざるを得ない状況に処せられました。彼女はすでに体も心も荒れ果ててしまいましたが、純潔を守ることへの大事さを手にしたとして、その知識がどんなに有益でしょうか。

アダムとエバが得た知識は、まるで娘が得たような知識でした。羞恥心と恥ずかしさにまみれた毎日を迎えるようになりました。荒れ果てた心と体のために死にたくなるほど苦しみに包まれました。エバが禁じられた木の実を取って食べて得た知識はこのようなものでした。人類を苦しみに落とされてから得た知識でした。

戦争から得た戦争の被害への知識、環境を破壊してから得られた後悔する環境破壊の知識でした。それが神のようになろうとしてチャレンジした結果で得られた人間の知識なのです。これらの知識は高慢な人間によって現れたチャレンジの弊害でした。しかしながら、これらの知識さえも生かさずに生きているのが人間の姿です。それで、箴言の記者は真の知識について、1章7節で次のように語っています。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」人間は神様の御言葉に聴き従い、善悪の知識を神様に任せて、神様に頼り、そのお言葉から知識の根本を求めるべきです。

人間は神様と、また人間互いの関係性を失いました。

11節から13節を見ると、神様が彼らのしたことを問い詰めると、アダムは女のせいにしました。女は蛇のせいにしました。だれも、私の過ちですと、告白しませんでした。アダムとエバはこれ以上愛する関係にならず、お互いに不信感に満ちた関係、お互いのせいにする関係に転落してしまいました。これ以降、この世の中は人にせいにする世界になってしまいました。みんなが、父と母のせいで、夫のせいで、妻のせいで、子供のせいで、日本のせいで、北朝鮮のせいで、核のせいで、ヘッジファンドのせいで、アソのせいで、と叫ぶ世界になってしまいました。これが私たちの実存であり、隠せきれない本当の姿です。私たちは失楽園の世界に住んでいるのです。

しかしながら、このようなアダムとエバを探してこられた神様はアダムに言われました。「あなたは、どこにいるのか。」この言葉にはどんな意味がありますか。

第四に、あなた方は、どこにいるのか。

アダムがいるべき場所は、神様の前でした。神様の前に出て神様とお話をし、神様が与えて下さった使命を果たすべきでした。神様が与えて下さった仕事に専念すべきでした。神様を賛美し、仕事をしてはぐっすり休み、お腹がすいたらおいしい果実を自由に取って食べることができました。しかし、アダムは今、神様の前から逃げていました。隠れていました。神様から離れていました。恐れの人、心配の人、神様を知らぬ人、神様に反発する人の立場に座っていました。そのようなアダムに神様は言われました。「あなたは、どこにいるのか。」この問いかけはどんな意味でしょうか。

どんな姿であっても、素顔で神様の前に出てきなさい、という意味です。

出てきたら赦してあげようとする神様の御心が込められています。イザヤ書はその神様の御心を次のように記録しています。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。(55章1-3節)」

以上のように、アダム以降、人間はサタンの支配を受ける存在となりました。失楽園をした人間は知識の根本である神様とそのお言葉を失い、罪の勢力の中にさまよう存在になりました。神様との関係が崩れて、人間同士の関係性も崩れてしまいました。にもかかわらず、人間はすべての問題を自分から探そうとせず、人から探し、人のせいにする存在となりました。この状態を覆す道から離れて、悩み泣き叫ぶ存在となりました。

しかしながら、神様はお約束をもって、このような状況からの救いを用意されました。15節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これは、神様がサタンの頭を踏み砕くとのお約束です。救い主を送ってくださるとの約束です。救い主、イエス・キリストへの約束の言葉です。しかし、その過程で女の子孫である救い主、イエス様もかかとにかみつかれる苦しみにあわれることを予言しています。イエス様はこのような罪の問題を解決するために、その身に苦しみをお受けになりました。イエス様は十字架の上で、私の罪、私の体に染みついた罪を背負うために、苦しまれました。十字架の苦しみは罪の代価でした。しかしながら、イエス様は十字架の死後、復活をもってサタンの頭を踏み砕きました。これをもって、人間を罪から、死亡から、完璧に解放して下さいました。イエス・キリストの十字架の下で、人間は本来の姿に戻されました。イエス・キリストの中で、私たちは本来の楽園、本来のパラダイスを回復するようになりました。サタンの言葉を聞いているところに失楽園が存在したように、イエス・キリストのことばを受け入れるところに、パラダイスを回復して下さいました。イエス・キリストの十字架の恵みを賛美します。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23