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2009年長崎UBF Ten Step 3rdメッセージ --> 問題紙


エデンの園、神様が与えられた楽園

Messenger:MSN.David

御言葉:創世記2:4-25
要節:創世記2:8「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」

今日の聖書の本文にはエデンについての記録されています。エデンとはパラダイスともいう、楽園の代名詞です。楽園は言葉通り、楽しい園です。沖縄に行ってみると、様々な観光地がありますが、ほぼすべてにこの「園」という名前が付けられています。パイナップルの園、フルーツの園、マンゴの園、みかんの園、海の園、亜熱帯植物の園、その数は数え切れないほどです。エデンの園をイメージした名前です。このエデンの園、ラテン語ではパラディースス、ギリシャ語では、パラデイソスというんだそうです。私たちはそのエデンの発音とか、意味とかを探るより、神様がなぜ、エデンの記録を聖書に残されたのか、聖書の中になぜ、こんなにも素晴らしい町や場所が記録されているのか、なぜ、もーセはこの楽園、エデンの記録を詳細に記述しておいたのか、その裏側のストーリを探ってみたいと思っています。

第一に、天と地を神様がお造りになりました。

最初造られた天と地は形がなく、何もありませんでした。ガスに満ちた天と地は原子と分子の世界でした。形もなければ様子もない、目には見えない姿でした。神様は言葉で、これらの分子と原子の世界が分かち合うようにして、形を作られました。光ができ、陸が現れ、空が広がりました。太陽や星が作られ、今のような形が出来上がりました。しかし、全能な神様がこの地と天を作られた時、地には, まだ 一本の灌木もありませんでした。灌木とは低木、人間とかかわりを持つ木を意味します。人間がいない世界に、人間の生活にかかわらない樹木は必要でありませんでした。もちろん、まだ 人間が食べれる一本のおいしい野の 草も 芽を 出してない状態でした。神様が作られた天と地の状態は、ただ, 霧が 地から 立ち 上り, 土地の 全面を 潤していました。

北海道の釧路湿原を行ったことがありますが、まるで、この説明がそれにふさわしいものでした。霧が湿原の下から立ち上がり、湿原の全面をうるおしている、釧路湿原は、湿地ですが、すべての生物や動物が過ごしやすい栄養豊かな自然環境を作り上げていました。神様が作られた地上の世界は、世界自然遺産として指定された鹿児島の屋久島のようなところを想像したら少しはイメージできるかもしれません。命のパラダイスが展開されていたのでした。

第二に、神様が魂の存在人間をお造りになりました。

完璧な環境が用意されました中で、神様は創造の最後の作品、人間を形造られました。土地の塵を材料に、造られた人間は、土に戻る成分で、かたち造られました。動物も同じ日に造られたので、同じような形で作られました。しかし、聖書は人間とのかかわりの中に高記録しています。「その 後, 神である 主は, 土地のちりで 人を 形造り, その 鼻にいのちの 息を 吹き込まれた. そこで, 人は, 生きものとなった.」動物も生き物ですし、私たちが食べる食材も生き物と言っています。生きているとした時、新鮮なイメージがあります。生きている時、食材はおいしいし、まだ生きている時の魚を口にするのは幸せを感じさるほど、うまいです。イセエビを隣で身を掘り出して、まだ動いている身を醤油につけて口にすると、感動の味が口の中を潤います。まだ、生きているイカを食べたことがありますが、吸盤が口の中にくっつく気持ち悪さもありますが、がしかし、その実から出てくる肉汁のジューシな甘みはなんとも説明できないおいしさがあります。生きているのはおいしいものです。

話がそれてしまいましたが、その生き物について、人間のことを説明するなかでも、聖書には「そこで, 人は, 生きものとなった.」と記録されています。しかし、人間の生き物としての説明ではほかの動物とは違った説明を加えています。それが、「神である 主は, 土地のちりで 人を 形造り, その 鼻にいのちの 息を 吹き込まれた.」という言葉です。人間が生きているとは神様がその鼻に吹き込まれた息が存在するときのことを指すのです。ヨハネの福音書3章6節を見ると、「肉によって 生まれた 者は 肉です. 御霊によって 生まれた 者は霊です.」とあります。人間は霊によって生まれた生き物なのです。神様の息によって生き物として存在するようになった、特別な存在です。動物の生き物とは違った、生き物なのです。

おいしい食べ物を口にしたとき、私たちは思わず、幸せーと叫びたくなります。一生懸命仕事をして、疲れた体をお風呂に暖めて、ベットに入った瞬間、私たちは思わず、幸せーという言葉が出てきます。運動などで体を動かして、熟睡するときの気持は、幸せそのものです。サラ宣教師と一緒に夕方散歩をして、一時間ほど歩いて帰ってきてから、シャワーを浴びてから布団の中に入った時の気持は幸せーです。故障したテレビの頭をたたきながら見えない画面を静かに見るより、画面サイズの大きい液晶テレビを楽しむのは幸せでしょう。広々とした一軒家で、過ごすのも幸せでしょう。全く足りないことのない生活をしていたイスラエルの王、ダビデの子・ソロモンによって記録されているとされる、旧約の伝道者の書には、人間の幸せの結論として、「空の 空. すべては 空. 日の 下で, どんなに 労苦しても, それが 人に 何の 益になろう. 空の空。すべては空。」と記録しています。幸せは食べる、休む、良いものできる、住むことではないことを教えているものです。「肉によって 生まれた 者は 肉です. 御霊によって 生まれた 者は霊です.」人間は神様の息があるとき、生き物としての正しい姿が現れるのです。どんなに動物のような幸せを求めても、結局は、空の空、すべては空、と告白するのです。それは、「神である 主が, 土地のちりで 人を 形造り, その 鼻にいのちの 息を 吹き込まれた.」からです。

神様の息、御霊による霊の喜び、これが動物とは違った人間としての生き物の姿なのです。神様は魂の存在、人間のために東の 方 エデン に 園を 設け, そこに 主の 形造った 人を 置かれました。神様は魂の存在、人間のために園を設けられました。土地の状態を見ると、「見るからに 好ましく 食べるのに 良いすべての 木」を 生えさせました。見る喜び食べる喜びが満ち溢れていました。また、園の 中央には, いのちの 木, それから 善惡の 知識の 木があり、いつでもいのちの木を食べていのちの喜びを自分のものとし、善と悪の知識から守られ、幸せを維持する環境を受け取っていました。水が豊富な川がこのこの園からスタートしており、園の全面を潤していました。しかも、この園には良質の金があり、宝石で包まれていました。銀河鉄道を子どもたちと一緒に見たことがあるのですが、宝石と美しい虹色に包まれた世界はまさしく、エデンを夢見て描いているかのようなものでした。

第三に、エデンの園にも幸せの条件を備えられました。

神様はエデンの園がもっとも幸せになるために、幸せを維持する条件として、こう言われました。「あなたは, 園のどの 木からでも 思いのまま 食べてよい.しかし, 善惡の 知識の 木からは 取って 食べてはならない. それを 取って 食べるその 時, あなたは 必ず 死ぬ. 」 これは彼らが幸せを維持できるものとして、善悪の知識の木を見るたびごと思い出される、主人・神様を忘れないことでした。聖書は人間の幸せの条件として、神様があること、神様の知識が幸せの根源に流れていることを、エデンの園の条件から教えているのです。神様を知らないとき、主人である神様を忘れて生活するとき、人間には真の幸せがないことを、エデンの園の条件から聖書は教えています。

幸せの条件を、神様はエデンの園で終わらせていません。18節を見ると、神である人間の主人は 仰せられたのです. 「人が, ひとりでいるのは 良くない. わたしは 彼のために, 彼にふさわしい 助け 手を 造ろう. 」 神様は一人としての人間より、男と女としての人間の幸せを、創造されました。人は男と女で、一緒になるとき、幸せがあります。私はサラ宣教師と一緒になった時の、初日を、いまでもわすれられません。幸せーの絶頂でした。わたしがその後、心が高ぶり、神様の幸せを維持することができず、乱暴にサラ宣教師を扱っていたことを、悔い改めます。わたしの神である主人が与えて下さった幸せーを、いつまでも守っていきたいと思います。神様が足りない私を憐れんで下さり、神様の与えて下さった幸せを守る力を下さいますように祈ります。

しかし、神様は男と女の幸せを、いつ、与えられたのでしょうか。それは神様が与えられた仕事をする時の幸せを感じ取る時でした。19節、「神である 主が, 土からあらゆる 野の獣と, あらゆる 空の 鳥を 形造られたとき, それにどんな 名を 彼がつけるかを 見るために, 人のところに 連れて 來られた.」神様は人間が神様が与えられた仕事を、する幸せを感じるようにされました。その仕事の幸せにぐっすり眠った時、神様はあばら骨を取り、女を作り上げたのでした。神様は仕事を、また、女と男の幸せを、人間のために与えられました。人間は、その幸せを歌いました。 「これこそ, 今や, 私の 骨からの 骨, 私の 肉からの 肉. これを 女と 名づけよう. これは 男から 取られたのだから. 」 それゆえ, 男はその 父母を 離れ, 妻と 結び 合い, ふたりは 一體となりました。そのとき, 人とその 妻は, ふたりとも 裸であったが, 互いに 恥ずかしいと 思いませんでした。むしろ、恥ずかしいことのない幸せが男と女の間に満ち溢れていました。これが夫婦の幸せなのでしょう。隠すことのない姿、すべてが見えても、短所が見えても、恥ずかしくないと思う、むしろ補っていこうとする夫婦の姿、これこそ幸せの絶頂です。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23