Counter: 574, today: 3, yesterday: 0

Bible Study Material for Special Lecture 003

キリスト・イエスのうちに見られるもの

Messenger:MSN.David

御言葉:ピリピ人への手紙 2:5~8
要 節:ピリピ人への手紙 2章5節「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」

今日はスペシャルレクチャーです。私は午前中、日ごとの糧を食べる(聖書の御言葉を読み、心の中に聖書の言葉を記録する行為)習慣づけをしようと努力しているのですが、この御言葉は先週の火曜日の朝、普段はUBFが発行している日ごとの糧の書籍に基づいて日ごとの糧を食べる時間を持ちますが、その日はふっと、この言葉が心の中から湧いてきました。検索サイトを利用して、この言葉を検索しては、幾つかの翻訳や英語の原文を見ながら、この言葉を黙想する時間を設けていました。そのことを思い出しながら、このメッセージを準備しました。

ピリピ人への手紙はパウロがピリピの人々に記録したものです。聖書の概要を解説しているホリーバイブルサイトでは、ピリピにはユダヤ人の会堂がなかったこと、それでパウロは海辺でお祈りをして開拓を始めたこと、そこから商売人の女性・ルデヤにであったこと、などを説明しています。そして、ピリピ人への手紙の主題が二つあって、一つは福音、一つは喜びであると指摘しています。福音とはイエス・キリストを指し、喜びとは福音により得られるものです。つまり、ピリピ人への手紙にパウロが伝えたかったのは、イエス・キリストです。

その中で、パウロは5節で次のように語りかけています。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」心構えとは物事に対処する心の準備のことを指します。覚悟とも言えます。パウロはピリピの信者たち、とくに、イエス・キリストを信じる人々の、物事に対処する心の準備や覚悟について、キリストイエスのうちにもみられていた心構えをしなさい、と命じています。イエス・キリストのうちに見られる心構えは何でしょうか。6~7節を見ると、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。つまり、神様なのに神様のスケジュールや計画や行動規範を主張せず、それらをすべてを捨てて、無にして、神様でありながらしもべになり、弟子たちや人々のスケジュールに合わせて生活したことを意味します。しかも、8節を見ると、キリストは神様なのに人としての性質をもって人間として現われ、自分を卑しくしただけでなく、神様が卑しい人間たちのために、代わりに死んでほしいと告げられた時、何故、私が死ななければいけないのか、と反発するより、願い、訪ね、神様の願いがはっきりしていることを確認した時、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

パウロはピリピの人々が、特に、ピリピに住んでいる人々の中でも、イエス・キリストを信じて、その教えに従って生きることを決心している人々に、生きるときの心構え、生活の規範、考え方のもっととなるベースに、イエス・キリストの中に見られるこのような心構えをもって生活するようにと勧めています。それは喜びの根源であり、幸せのもっとであり、神様の、人間に求める正しい姿の願いだからです。人間の不幸せと不幸はどこから来るのでしょうか。「不幸な日本人の幸福論」を発表した加賀乙彦さんの書籍には、不幸な日本人の一断面を、悪魔の声に従うことであると定義しています。悪魔は神の声に従わないように誘惑します。悪魔は神様の声よりも、理性と知性を使った、自分の判断に基づいて行動するように誘惑します。しかし、その過程は賢く見えても、結末は死です。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。悪魔には真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

私たちの人生が幸せになるためには、真理の声に従って生きることです。悪魔の誘い、感情の誘い、感覚の誘い、自分の声の誘い、私の計画と誘いに従うのは、破滅にいたりします。


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23