Counter: 953, today: 1, yesterday: 0

Bible Study Material for Special Lecture 001 -->聖書勉強

もしあなたが信じるなら

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:ヨハネの福音書11:1-45
要 節:ヨハネの福音書11:40「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

例年より桜の開花時期が早く、今ちょうど満開になっています。みなさんの住んでいる周りにも桜が咲いていますか。わずか1、2週間前までも桜の木はさびしい枝だけの姿でしたが、このように綺麗な花が咲くなんて不思議なものです。人のよみがえりもこのように不思議な業です。よみがえり、すなわち復活は英語で「resurrection」と言い、復活祭はイースターと呼ばれます。欧米ではイースターがクリスマス以上の大きなイベントになっています。実はイースター礼拝は再来週ですが、長崎では少し早めに恵みを頂きたいと思います。今日の本文で、イエス様は愛する人たちの信仰を助け、彼らに「神の栄光」を表してくださいます。この時間、聖霊様が私たちの信仰も助けてくださるように祈ります。よみがえりであり、いのちであるイエス様を信じる信仰によって神の栄光を見ることができますように祈ります。 

1、2節をご覧ください。今日の本文にはラザロとマリヤ、それからマルタが登場しています。ラザロはお兄さんで家長として家の色んな仕事をしていました。マリヤとマルタの姉妹たちは仲良しでこの3人の兄弟はイエス様からも愛され、人柄がよくて村の人々からも愛されていました。

ところがある日、家の大黒柱であるラザロが病気になってしまいました。その病気は死に至る致命的なものでした。そこで、マルタとマリヤはイエス様のところに使いを送って言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」使いの話からすると、マルタとマリヤは「あなたが愛しておられる者」を強調するように言ったかもしれません。少しでも早くイエス様に来てもらいたかったからです。イエス様ならきっとすぐに駆けつけて、兄の病気を直してくださるという信仰がありました。マルタとマリヤもイエス様が、ラザロのことを聞いたら、どんなことがあってもすぐに来てくださると信じていました。しかし、イエス様はラザロのことを聞いて何と言われましたか。

4節をごらんください。「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」マルタとマリヤはラザロが死ぬ前にイエス様の力によって助かることを心から願っていました。一方、イエス様はラザロの病気が死に至る重い病気であることを知っておられました。しかし、イエス様は彼の病気が死で終わるだけのものではなく、それが神様の栄光を表せる良いチャンスであることを信じておられました。イエス様はラザロ兄弟を本当に愛しておられたためにマルタとマリヤに、より強い信仰をプレゼントしようとされたのです。

5、6節をご覧ください。「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられたところになお二日とどまられた」とあります。イエス様は彼女たちを愛しておられたわけで、そのおられた所になお二日とどまられまたのです。一般的に愛している人が病気だと聞いたら、どうするでしょうか。特に死にかかっていると聞いたらどうするでしょうか。すばやく愛する人のところに駆けつけるでしょう。

私は数年前、長男のカレブがどこから落ちて頭を打って病院に行くという家からの連絡を受けました。仕事の途中でしたが、原付にのってすぐに病院へ向かいました。息子を愛していたので、仕事よりも息子のことを優先して早く安否を確認しようとしたのです。途中スピード違反で初めて警察に捕まり悔しかったのですが、子供が無事であることがわかって安心しました。

しかし、イエス様はマルタたちを愛しておられたわけで、すぐに行かれなかったのです。なかなか理解できない部分ですが、イエス様の愛は私たち人間の常識をはるかに超えていることが分かります。

人々は「愛するなら、金持ちにしてちょうだい。」「愛しているなら、合格させてください。」「愛するなら、早く病気を治してください。」というふうに言います。私達は神様によく祈ります。しかし、時には切なる心で神様に求めてもなかなか答えられない場合があります。それは私達が自分の情欲のために間違ったものを求めているか、そうでなければ神様の栄光を表すために、その答えが遅れていることです。自分の情欲のための祈りでなければ、忍耐をもって祈り続け神様の栄光を見るべきです。

イエス様は、私達に必要などんな小さいことでも祈りに答えてくださいますが、究極的には私たちが永遠の命を得るための信仰を持つことを願っておられます。もしラザロの病気が治ったとしても、いつかは結局死ななければいけません。今すぐよくなったとしても命であるイエス様に対する信仰がなければ神の国へ入ることも永遠の命を得ることもできません。そこで、イエス様は彼らに信仰を教えるために、その中でも復活信仰を教えるために、二日もそのおられたところに留まられたのです。それでは、イエス様は愛するマルタたちの信仰をどのように助けてくださいますか。

17-20節をご覧ください。イエス様が、ベタニヤにおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていました。大勢のユダヤ人たちがマルタとマリヤのところに来ていました。すでに葬式が終わり、ラザロの死体は墓の中に入れられていました。人々はマルタとマリヤを慰めていました。彼らがマルタとマリヤのためにやってあげられることは、一緒に悲しみ泣くことだけでした。マルタは、イエス様が来られたと聞いて迎えに行きました。マリヤは泣き崩れてその余裕もありませんでした。二人ともイエス様がこんなに遅く来られるとは思いませんでした。いつも食事会の時には弟子たちを連れてすぐに来ていたのに、一番大事な場面に姿を現さなかったイエス様を、なかなか受け入れることができませんでした。マルタはイエス様に向かって言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」32節を見るとマリヤも全く同じ事を言っています。彼女たちの言葉にはイエス様に対する不平が表れています。イエス様をあんなに愛していただけに不平不満、失望も大きかったと思います。しかし、彼女にはそのような悲しみ、失望、不満足の中でもイエス様に対する基本的な信仰がありました。

22節をご覧ください。「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」とあります。マルタにとって愛する兄弟の死は何とも無念であったに違いありません。しかし、彼女はラザロが死んでしまった今でも神様はイエス様の祈りを聞いてくださるという信仰を持っていました。23節をご覧ください。するとイエス様は、マルタに言われました。「あなたの兄弟はよみがえります。」彼女はイエス様に言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」彼女は信者の復活を信じていました。信者が世の終わりに復活するという信仰を持っていたのです。私達も毎週の礼拝の時、使徒信条で信仰告白をしています。「~聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず。アーメン」しかし、将来のよみがえりだけを信じることは、イエス様が願っておられる信仰のレベルではありませんでした。

25、26節をごらんください。「イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」「わたしはよみがえりです」「わたしはいのちです」この御言葉はみな現在形です。「Jesus said to her, "I am the resurrection and the life. He who believes in me will live, even though he dies and whoever lives and believes in me will never die. Do you believe this?"」イエス様は現在よみがえりであり、いのちです。信仰とは過去や未来ではなく、今どんな信仰を持っているかが大切です。マルタたちはイエス様を愛し、イエス様に愛されていました。過去、彼らは愛と信仰、望みを持っていたのです。ですから、彼らはラザロが病んでいた時、イエス様をお願いしました。イエス様の愛を確信し、イエス様の力も信じていたからでしょう。しかし、今はその信仰が弱くなってしまいました。どうしてでしょうか。ラザロが死んだからです。もうおしまいだと思ったからです。少しの可能性もないことが分かったからです。ラザロが死んでからイエス様に対する期待もあきらめていました。将来、神の国でよみがえることを唯一の望みとして慰めを受けようとしました。

イエス様はこのような彼女に信仰し続けること求められました。イエス様はマルタの姉妹マリヤにも会うことを望んでおられました。マイヤは泣き続け、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いていました。それをご覧になったイエス様は霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。そしてイエス様も涙を流されました。これは単なる同情の涙ではありません。「もう少し早く来て直してあげればよっかた」という後悔の涙でもありません。イエス様が泣かれたのは、死の勢力に人間を閉じ込めているサタンに対して霊の憤りを覚えられたからです。ユダヤ人たちは言いました。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいました。そこでイエス様は、またも彼らの不信に憤りを覚えられました。  

墓に来られたイエス様は石を取りのけるように命じられました。当時、墓は崖や岩に穴を掘って造り、入り口には大きな石を置く形になっていました。イエス様は、「その石を取りのけなさい。」と言われたのです。それはイエス様が墓の中に入るためではなく、ラザロを墓から外に出させるためでした。しかし、誰もイエス様がどうしてそんなことを命令するのか分かりませんでした。それで、マルタは言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」これは常識的な答えです。「完全に死んで匂っているから遺体を見てもむだです。気持ちは分かるけど、いくらイエス様でももう遅いです」とも言いたかったでしょう。しかし、イエス様は彼女をどのように助けられますか。

40節をご一緒に読んでみましょう。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」ここで、イエス様は「神の栄光」、神様の大いなるわざを見るためには、神様を信じなければならないことを教えておられます。私達は、神の栄光を見せてくれれば信じますと言います。しかし、イエス様は信じるなら、神の栄光を見ると言われます。特に信じ続けることです。神様に信頼しつづけ、求めつづけるならば、神様は大いなるみわざを現し、神様の素晴らしい栄光を現してくださるのです。

イエス様は愛するマルタたちに、この素晴らしい恵みと特権を与えるために彼らの信仰を助けてくださいました。愛するラザロが病んでいることを聞かれても二日留まり、死んでから四日も経って墓に到着されたのは彼らをいじわるためではなく彼らの信仰を助けるためだったのです。よみがえりであり、いのちであられるイエス様そのものをプレゼントしようとされたのです。

イエス様の御言葉を聞いた人々は石を取りのけました。奇跡は石をとりのけることから始まります。この石は私達の心にある不信仰です。疑いであり、絶望であり、後ろ向きの考えです。この石をとりのけるのは私達の仕事です。このようにイエス様が働かれる環境を作る必要があります。イエス様は目をあげてご自分の願いを聞いてくださった神様に感謝の祈りをささげました。ご自分の願いとはそこにいる人々がイエス様を信じるようになることでした。その願いのとおりに人々がイエス様の御言葉を信じて石を取りのけたことを感謝しました。そして、イエス様は大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、信じられない光景が目の前に現れました。死んで4日もたっているあのラザロが体を布でまかれたままの状態で出てきました。死んだ人が生き返って来たのです。死んで間もない人が何とかの衝撃でたまたま蘇ったのではなく、完全に死んで腐っていた者が自分の足で出てくる奇跡が起こりました。現代医学では説明できないことが起こり、人々は神様の力を認めるようになりました。だれも彼がお化けだとか幽霊だとか言う人はいませんでした。悲しみ泣いていた人々の心は驚きと感動に変わりました。イエス様を非難していた人も、元々信仰がなかった人も、このできことを通して多くのユダヤ人たちがイエスを信じるようになりました。何よりもマルタとマリヤは、言葉で言い尽くせない感動に包まれ、復活信仰を持つようになりました。

私は2年前に今日の御言葉をもって杉山研究室に入りました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」自分の人間条件を考えると論文においても生活の面においても不安ばかりでした。しかし、信仰によって神様の栄光を見るようにという祈りの課題をもってスタートしました。神様は2年間私と共に歩んでくださり、神様の栄光を表してくださいました。しかし、学位はあるものの新しい就職先が決まりませんでした。数ヶ月前から10数箇所に出した書類は殆ど不採用になりました。書類作成だけでも相当の時間がかかるものでしたが、神様がどこに導いてくださるか楽しみにしていました。

しかし、なかなか決まらないまま3月になると少しずつ信仰が弱まりました。1週間前からはどこでも良いから早く決まって欲しいという気持ちだけでした。自分の業績や年齢、さらに外国人という出身成分を考えると、ハードルはあまりにも高く見えました。それでも3月中になんとかしないといけない気持ちで主に祈り続けました。ところが、数日前、最後の3箇所からすべて不採用という連絡が来ました。3箇所同時に採用されたらどこを選ぼうとも考えていただけに3連打を受けて力が抜けてしまいました。わずかに持っていた期待と希望が消えてしまいました。早く進路が決まれば、論文をもって韓国の両親にも挨拶をし、お世話になっていた方々にお礼をし、4月からはこれまでに苦労させた同労者の妻に恩返しをしようという計画がありました。しかし、あれだけ祈ったのにイエス様は私の祈りにすぐ答えてくださいませんでした。神様のために生きようとしているのに、どうして私はついていないだろう。私の信仰生活はどこかまちがっているのだろうか。神様は私を愛しているはずなのに、どうして私を苦しめておられるだろうと色んな考えで頭が複雑になりました。韓国に戻ろうとしても航空券を購入するお金がないし、家に帰ると子どもたちを見る体面もありませんでした。カレブの誕生日に、父として何もしてあげられない、家長として役に立たず粗大ごみになっているような自分に気が付いて悲しくなりました。同じ立場の天野さんには信仰を持つように強く言いましたが、私も弱い人間で、現実を考えると涙が出ました。カレブはこのような私の心境が分からず、自分の誕生日に涙の祈りをする私が大好きと言いました。私は初めてマルタとマリヤの心境がよく分かるようになりました。同労者は「カレブ将軍のように信仰が弱くならないように、信仰しつづけるように」と私のために祈ってくれました。そして神様はヨハネ福音書11章の御言葉をくださいました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

私は今日の御言葉を通して二つを学びました。一つ目は、イエス様は私をとても愛しておられるということです。イエス様は私を愛しておられるがために、より強い信仰、より純粋な信仰、どんなときでも変わらない信仰を教えようとされました。二つ目は、自分としても、周りの人でも、どうしょうもない環境を作ってくださり、その中で神様の栄光を表そうとされるということです。自分の力や人の助けによるものではなく、主は私に神様のプレゼントをくださる計画をもっておられることを信じるようになりました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」私があきらめずに信仰し続けるとき、神様は必ず私の祈りを聞いてくださり、必要なすべてのものを満たしてくださることを信じます。死なないと復活の体験ができません。絶望的な状況こそ神様の力を体験するチャンスになります。悪い状況の中でも神様の愛を疑わず信じ続ける信仰こそ本当の信仰です。神様が私を愛してくださり、信仰という宝をくださるために祈りの答えを保留しておられるのを感謝します。私が神様の訓練をすなおに受け入れ、主の栄光を見ることができますように祈ります。神様が私を日本宣教の御業に用いてくださいますように祈ります。また、ベストの道へと導いてくださいますように祈ります。

長い冬が終わり、春になりました。桜も綺麗に咲いて、緑の新芽が顔を出しています。植物も動物も春が来たのをよろこんでいます。私は毎年春になり、すべてが新しくなる中で復活の喜びを感じます。イエス様はラザロを蘇れらせることによって、将来私達の復活についても暗示してくださいました。人間の一番深刻な問題は、罪と死の問題です。恐れと悲しみと絶望と空しさは死の勢力からくるものです。死の勢力は私達を苦しめ不幸にさせます。イエス様だけがこの罪と死の問題を解決してくださる方です。イエス様の中に永遠の命があります。このイエス様を信じる人は決してやみの中を歩むことなく、命の光をもつのです。私達がこの春、復活信仰を持って、私達を苦しめている死の勢力と戦うことができますように祈ります。また、信仰により神様の栄光を体験することができるように祈ります。

はれるや

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23