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序論

"キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。" エペソ4:14

わたしはエペソ人への手紙、聖書勉強を通して、教会の意味について霊的な目が覚めるようになりました。わたしは教会に対する神の偉大な計画に圧倒されました。わたしは「教会とは何か?」「UBFのアイデンティティは何か?」「UBFは果たして教会としての確実なアイデンティティを持っているのか?」「UBFが教会であることをどのように理解できるのか?」のような質問をしていました。多くの聖書学者たちが「UBFは信仰と道徳的な姿、それから物質に対する透明な態度など、確かに健康な面があるが、聖書的な教会観が弱い」とコメントしています。

わたしはなぜ、彼らがUBFの聖書的な教会観に疑問を投げかけているのかに興味がありました。過去、確かにUBFは教会としての確かなアイデンティティがなかったことは事実です。UBFはCCCやIVF、Navigatorsのような宣教団体としてのアイデンティティを持っていました。それから自ら「パラチャーチ」だとしていました。今はもちろん、UBFは教会としての確かなアイデンティティがあります。しかしながら、ある方たちは「家庭教会を中心とするのが果たして教会なのか?」との疑問を持ちかけます。しかし、家庭教会は確かに教会なのです。イスラム諸国に一つの家庭が宣教師として派遣されたとすれば、その家庭は教会ではないのでしょうか。イエス様は「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20)」と言われました。多くの家庭教会が神の御言葉を伝え、祈りをし、礼拝を定期的に捧げています。彼らは神の言葉に従順し、他の人たちと御言葉を交わしています。家庭教会としての御業が実を結ぶとすれば、当然ながら教会としての役割を担っていると言えます。長い期間、実を結ばないこともあるでしょう。しかしながら、そのような家庭教会も同じく教会なのです。しかし、教会としての十分な役割を果たすことは難しいのです。その場合、わたしたちは祈りながら他の神の教会と協力することについて、神からの導きを求めるべきです。また、ある人たちはUBFが一般の教会のようになってはいけないと主張しながら、教会に対する否定的な意見を露わにしたりもしています。特に、若い人たちの中には「わたしはイエスは愛しているが教会は嫌だ」としながら、教会に対する良くない感情を表したりします。興味深いことに、もし彼らが教会を嫌っているのなら、イエスの体をも嫌っていることになります。わたしたちは彼らが教会に対する良くない経験から教会に否定的な意見があることを知っています。しなしながら、わたしたちは聖書が語る正しい教会観を持つべきです。

わたしはエペソ人への手紙を勉強しながら、私自身も教会に対する否定的な意見があったことを悟りました。過去、わたしは聖書が教える教会観への理解が浅かったため「教会の言葉」を批判的に使ったことがあります。例えば、ある人が神の訓練をないがしろにしていると「いいよ。教会にでも行きなさい。」と言った覚えがあります。これはUBFが地域教会よりも優位に立っているとの言葉で、それは私の高ぶりの原因でした。わたしはこれを深く悔い改めました。わたしはどのような場合でも教会に対する否定的な意見をもってはいけないことを悟りました。むしろ、教会は神が立てられた機関であり、キリストの新婦であるため、教会に対してはもっとも好意的な意見を持つべきであると思うようになりました。そのため、わたしは教会の聖書的な意味について知りたいと切に願うようになりました。わたしは多くの教会に関連する本を読みこなしました。教会とはとても複雑で膨大な主題なのです。わたしはこの資料でこの主題をすべて扱うことはできません。わたしはただ、教会に対する正しい聖書的な見解を持つことを願っています。

21世紀において一番影響力のある教会の指導者といえば、John Stottを例に挙げることができます。彼は次のように教会を定義しています。

「わたしたちはキリストの人であり、教会の一員でもあります。わたしたちはキリストに献身している人であり、なおかつキリストの体(教会)にも献身しているのです。教会は神様の永遠な目的の一番中心部に置かれています。教会は神様が後から必要に応じて作られたわけでもなく、歴史の中から偶然に生まれたものでもありません。むしろ、教会は神様の新しい共同体なのです。」また、聖書学者Kiperは次のように言っています。「教会はもっと良いもののために臨時的に当てたものではなく、神様の永遠な計画のただ中心部にあるのです。*1

わたしはこのような問題意識をもって、エペソ人への手紙に基づいて「どのように健康な教会を建てることができるか」という主題の内容を整理したいと思います。この資料には、第一に、エペソ教会から現れた教会に対する隠喩表現、第二に、教会の特長、第三に、福音中心の教会、第四に、エペソ人への手紙の概要、第五に、どのように健康な教会を建てることができるか、について話したいと思います。

エペソ人への手紙に現れる教会の隠喩的な表現

聖書の中で、教会は、複数の隠喩表現を介して描写されています。ところが、エペソ人への手紙には「家」、「建物」、そして「体」と呼ばれる3つの比喩表現が出てきます(1:23; 2:19-20; 4:12,15-16)。 「家」という隠喩はテモテ3:15、「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」という言葉でより明確に発展させて記述しています。パウロはここで、教会の真実性を強調しています。しかし、エペソ人への手紙でパウロは、私たちをイエス・キリストによって、ご自分の息子ととして認めた神の大きな愛を強調しています(1:5)。神は私たちの父であり、我々は神の子どもです。私たちは、神を「父」と呼び、神との親密な愛の関係を結びました。同時に、私たちは、天の国で栄光ある企業を所有していました(1:14,18)。ここでは、差別や階級が存在しません。私たちは、すべての神の家のメンバーなのです(2:19)。

パウロはまた、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と言い、建物という隠喩表現を使っています(2:20)。建物のための隠喩表現はペテロ第2の2:4-7でも使用されています。イエスは生ける石(the living Stone)でり、私たちクリスチャンは、同じく生ける石(living stones)であるとしています。神は生ける石を飾り物として思いません。むしろ神は生ける石を、巨大な精神的な建物を建てるのに用いるのです。イエスは、その建物の基盤となる、建物の重要な礎石となります。その上に建物全体がキリストの中で、建物ごとに相互に接続され、主にあっての神殿になっていくのです(2:21)。私たちは、聖霊の中で、神がお住まいになるための教会を、キリスト・イエスにあって共に建てられていきます(2:22)。   エペソでパウロは体という隠喩表現を主に使用します。 「体」という言葉は、13回繰り返されています。その中で10回が「彼の体」(1:23; 5:23,30)、「一体」(2:16; 3:6; 4:4)、「キリストの体」(4:12)、「彼の成熟した体」(4:15)と表現され、イエス様の体について言及しています。私たちは一つの体であるため、パウロは、私たちに平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保つよう勧めします(4:3)。この連合の基礎は、父である神であります(4:4-6)。この連合は、画一性を言うのではなく、神の民がキリストから受けた才能を介して奉仕の仕事をすることで表現されるのです。その目的は、神の体である教会を建てることです(4:7-12)。キリストは神の体の頭です(1:22-23; 5:23)。神は私たちがキリストの成長した分量にまで育つようにするために、神の体のメンバーを治め維持されます(4:13)。キリストから全身が各関節を介して支援を受けて接続され、結合され、各肢体の分量にまで働いて神の体を成長させ、愛の中で自ら立てられます(4:16)。このように、体は神の計画とビジョンを達成するために、成熟し強くなって元気を保つのです。頭であるキリストがなければ、神の体のすべての肢体は何もありません。各体はキリストに服従します。キリストは、信仰によって、私たちの心の中におられます(3:17)。私たちは、キリストの多次元的な愛の中で根が張られ基盤が固まっていく必要があります(3:17b-18)。

教会の本質を考える場合、一つ明らかな事実は、教会は生きていて、ダイナミックな状態であるということです。教会は、固定された組織ではなく、人間の体のように、自ら立てられ育つ生き物のような存在です。人間の体は、様々な種類の細胞で構成されているが、その数はなんと37兆2千億個と推定されています。人間の体には、宇宙の銀河よりも多くの細胞があります。その細胞は大きさと表面積との形態においても、皮膚、血液、臓器などの種類においても様々です。これらの細胞は継続的に再生産されて育って発展します。そうでなければ彼らはすべて死ぬことになるでしょう。このように、教会は絶えず育って発展します。これはキリストが生きておられ、私たちの頭となりますので可能なことです。各肢体が彼に服従して、そこから栄養が供給されるとき、体は成長し、健康な体として強くなります。

今まで、私たちはエペソ人への手紙に示された教会の隠喩表現について説明しました。これからは教会の特徴という観点から、教会が歴史的にどのように理解されてきたのかを考えてみる必要があります。

教会の特長

教会は、古代ニケア会議*2を通じて1)一つ、2)聖、3)普遍性、4)使徒たちの教えというの中心言葉によって定義されてきました。これらの4つの特徴は、教会について聖書の教えを要約するために使用されてきました。教会は、神の特性を反映しています。教会は一つであり、神聖な場所で、普遍的であり、使徒的なものです。特にこれは神の連合性、神聖、広大さ、永遠、真実性を反映することにもつながります。これらの特徴のそれぞれの意味は何ですか?

一つ(one)

教会は一つです。教会が一つであることは、本質的な統一性を意味します。教会は事実上、イエス・キリストによって建てられたた、唯一の、真の教会だけが存在します。使徒パウロは、エペソ人への手紙の4:4-6で、教会がなぜ一つであるべきか説明しています。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」パウロはガラテヤ人への手紙の3:28でも、民族や社会的地位や性別に関係なく、キリストの中ですべてが一つであることを言っています。パウロの教えは、私たちはすべて一人の良い羊飼いイエスの中で群がる一群、というイエスの教えをも反映しています(ヨハネ10:16)。イエスは自分を信じている人が一つになることを祈りました。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」(ヨハネ17:20-21a)。

教会の単一性は、信仰と神の子を知っていることの一体感を指します(エペソ4:13)。真理の福音のために共通の献身により、人々が一緒に集まる一体なのです。このような一体感は、組織のレベルでは見えません。教会は聖霊の中で真実に信じる者が共有している信徒の交わりで構成されている精神的な実在なのです。教会は、信者が同じ洗礼を受け主の聖餐式に参加し、天の御国を一緒に味わうことを期待するとき、はじめて見えるようになります。地上の教会は、聖書に示されているように、その肢体がキリストの真理の中で統合される場合にのみ、このような一体感を経験することになります。

聖(holy)

教会は聖なるところです。私たちは「聖なる」という言葉を聞くと、ほとんどは純潔や道徳的な完全体について考えます。聖書がこのように、その言葉を使用することは確かです。しかし、聖(holy)の本来の意味は、「分離された(separate)」、「他と区別された(different or set apart)」という意味です。「教会」というギリシャ語の用語は、「エクレシア」です。これは接頭辞「〜から(from、out of)」という意味の「エク(ek)」という言葉と、「呼ぶ」という意味の「カレヨ(kaleo)」という言葉の合成語です。教会は、神がこの世から区別して呼ばれた人々の集まった所という意味です。神は私たちをこの世から区別して呼ばれた後、聖なる生活をしていくことを求めます。神の聖への召しは敬虔、すなわちこの世のことを模範にしない他の模型、他の基準、または他の方法での生き方への招きです(ローマ12:1-2)。ペテロは「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」と言いました(Iペテロ1:15)。神聖な生活をすることは、私たちに向けた神の御心です(テサロニケ4:3-4;エペソ5:3)。

また、神はすべてのものにおいて超越し、私たちの理解をはるかに超えている方です。神はお高い方で、偉大なる方で、威厳をお持ち、敬愛できる方です。驚くべきことに聖なる神は区別されたものを神聖なものとされるということです。 「...あなたがたを聖別する主、わたしが聖である」(レビ20:8; 21:8,15,23; 22:9,16,32)「聖なる」という言葉は、地上のもの、すなわち「聖なる地」(出3 :5)、「聖なる国民」(出19:6)、「聖なる都」(士師記48:2)、「聖なる器具(物)」(民4:15)などに適用されています。物が主に聖別されたとき、それらは神聖なものとなります。神だけが、他のものを聖なるものとすることができます。これは、私たちに大きな希望を与えます。私たちは聖ではないが、神が私たちを聖なるものとされます。

教会はそのメンバーが聖霊によって聖別される過程にあるため、聖いと呼ばれるものです(テトス3:5-6)。このような理由から、パウロは信者がたとえ聖い姿でない場合でも、聖いと呼ばれています。コリントの信者たちは人間的な面で見ると、さまざまな面で良い姿ではなかったのです。彼らは近親相姦の罪を黙認し、人間的なリーダーシップに基づいて分裂し、また、その他にもありました。彼らを聖いと呼ぶのは難しいことです。しかし、パウロは彼らを神の教会と呼び、キリストの中で神聖になった者であるとし、聖徒たちと呼びました(Iコリント1:2)。多くの人々は、教会が偽善に満ちていると非難しています。それにもかかわらず、信じる者は聖化されていく過程にあるため、聖徒と呼ばれます。聖書は、キリストを「新郎」として、教会を「キリストの花嫁」と述べています。花嫁の服を見ると汚れています。その服には傷と汚れがあり、ヨボヨボしています。しかし、キリストは彼の教会を聖別していきます。キリストはすべての傷やしわを除去し、最終的には花嫁として完全なる神聖の栄光の中に父の前に立てられるのです(エペソ5:26-27)。驚くことに!私たちは、将来美しくて栄光ある姿になるのです!

普遍性(Universal; Catholic)

教会は普遍的です。教会が普遍的な理由は、神が全地の主であり、すべての世代の王だからです。キリストの教会は全世界にあり、時代を超えてさまざまな言語や方言の国から来た人たちで構成されています(黙7:9)。

使徒性(apostolic)

教会は使徒的です。この言葉は、使徒たちを通して与えられた神の言葉に基づいているという意味です。これは教会の起源と信仰がイエスの使徒たちの生きていた伝統的な根元から下ろされ、持続してきたことを意味します。使徒パウロは、エペソの信者たちに、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と述べています(エペソ2:20)。教会は使徒たちの教えを介してのみ、「真理の柱また土台」となることができます(Iテモテ3:15)。

これらの4つの特徴は、教会の聖書の教えを表すときに使用されます。 Donald G. Bloeschは次のようにこれを要約しています。

教会はすでに一つだが、教派を超えて信仰と実行において一緒に、より近づこうとする教会メンバーの努力により、さらにもっと一つになって行かなければならない。教会は、すでにその源と基礎において聖いが、世にいてもっと神聖の実を結ぶように努力しなければならない。教会は、すでに一般的であるが、その普遍性の完全なところに至ることを追求しなければならない。教会は、すでに使徒の教えに基づいてますが、福音により教会を改革することで意識的に使徒の教えに忠実でなければならない。

教会のこのような特徴を考えると、教理的で、無味乾燥に感じられます。教会はそれ以上です。イエスの言葉によると「愛」は教会の特徴の一つです。実に愛が最も重要な特徴です。

愛(love)

この「愛」は、神の聖なる愛、つまり「アガペー」を指します。愛は無条件的であり、私が進んでやることであり、自己犠牲であり、自分の命を与えることであり、赦すことです。誰もキリストを知る前にはアガペーの愛を知りません。「愛」という言葉は、非常に人気がありますが、人々は肉体的な愛の「エロス」だけ知っています。せいぜい兄弟愛である「フィルレオ」を知っている程度です。人々は愛が感情であると言います。だから愛は、状況に応じて変わることがあると思ったりします。誰でも愛されたいし、他の人を愛することを望んでいます。しかし、「エロス」を追求するとき、我々は他人に傷付け、傷を受けることになります。私たちは、このような愛に決して満足することができません。むしろ私たちの罪の問題をより複雑にするだけです。人々は真の愛を熱望します。私たちは、キリストを通してのみ真の愛を体験することができます(Iヨハネ3:16a)。神は私たちを実に愛し、ひとり子を送って下さり、私たちの罪のために死なせました。私たちが神の愛を受け入れたときに、私たちは本当に満足して幸せになれるのです。

私たちにこのような愛が溢れる時、私たちは初めて、他の人を愛することができます。イエスは「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13:34-35)と言われました。イエスは、私たちがお互いに、また、すべての疎外された人々に向かって、神の愛を実践することを願っておられます(マタイ5:46)。神の愛は、イエスの教会だけが持つ区別された特徴であるべきです。

私たちは、真実で、生きていて、本当の教会の特徴を示す特性について考えてみました。教会をこのようにさせることは何でしょうか?単純に言えば、福音です。これについて、より詳しく考えてみたいと思います。

福音中心の教会

教会の福音中心的な性格は、教会の聖書の視点と伝統的なプロテスタントの両方の観点から発見されます。

聖書の視点

私たちは、このような観点を使徒の働き2:42節で発見することができます。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

  1. 使徒たちの教え:使徒たちの教えは聖書になりました(エペソ2:19-20)。だから「彼らは使徒たちの教えを...をしていた」という内容は、彼らが聖書を愛し、熱心に聖書を勉強したことを意味します。聖書研究は聖霊に満たされる生活の源泉であった。

  2. 交際:交際はギリシャ語でコイノニアであるが、これは私たち信者が行うクリスチャンの日常的な生活を表現する言葉です。また、コイノニアという言葉は、証人という意味をも含んでいます。コイノニアは私達が助けの必要な人々の世話をし、一緒に分かち合うことを意味します(2:44)。

  3. パンを取り祈り:「パンを取る」とは聖晩餐を意味するが、これは初代のクリスチャンが、定期的に守ってきたものです(使徒20:7;Iコリント11:20)。「祈り」とは、個人祈りではなく、礼拝の時にささげる公的な祈りを意味します。

  4. 伝道:使徒の働き2:47は次のように言っています。「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」この内容は、彼らが伝道に参加したことを意味します。実際に、初代教会は、積極的に伝道に参加しました。エルサレムにあった教会に対して大きな迫害が起きたとき、使徒のほかのすべての人々がユダヤとサマリヤに散らばっています。散らされた人々は巡って福音の言葉を伝えました(使徒8:1,4)。このようにしてアンテオケ教会が誕生しました(使徒11:19-21)。

ジョン・ストットは次のように要約しています。

第一に、彼らは使徒たちと関連していました。彼らは使徒たちの教えに専念していました。生きている教会は、使徒的だったのです。第二に、彼らはお互いに関連していました。彼らはお互いを愛していたのです。生きている教会は、互いに世話をし、分け与える教会なのです。第三に、彼らは神に関連していました。彼らは喜びと敬意をもってパンを取り祈り、神を礼拝していました。生きている教会は、礼拝する教会です。第四に、彼らは世界と関連していました。彼らは世に進んで主を証ししました。生きている教会は、福音を伝える教会です。

プロテスタントの観点

過去のローマカトリックでは「司教があるところに教会がある」と言っていました。しかし、プロテスタントでは教会について別の観点を持っています。第一に、福音を伝える教会が真の教会です。第二に、真の教会は聖晩餐が正しく行われるところです。第三に、真の教会は信頼できる力を発揮します。

  1. 福音を伝える:これは、教会の最も基本的な職務です。教会の肢体が定期的に集まるとき、それらの集まりの焦点は、聖書に出てくる福音のメッセージを宣言し、それに反応することが必要です。そのメッセージとは、聖書を信じることであり、キリストを中心にし、聖霊に満たさいる必要があります。これにより信者たちは、イエスを信じる信仰の中で成長し、主に似ていく必要があります。もしメッセージが聖書から離れ、哲学的または心理学的になれば、真の教会とは言えません。もし会の目的が事業であったり、知人を増やすことであったり、世の生活を向上させるためなら、真の教会とは言えません。使徒パウロはテモテに「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい」と言いました(Iテモテ4:13)。彼はまた厳しく命じます。「私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ4:1b-2a)。

  2. 聖礼(洗礼と聖晩餐):ローマカトリック教会は、7つの聖事があると述べています。それは洗礼、堅信、聖晩餐、告解、聖傳(病人と終焉を迎える人に油を塗ること)、叙階、結婚などを指します。しかし、プロテスタントでは洗礼と聖晩餐だけが聖書的な根拠を持つと考えています(マタイ28:19;ルカ22:19;Iコリント11:26)。私たちはキリストが制定し、信仰により受け入れられるこの二つの聖礼がキリストの完全な義と聖を得るに十分であることを信じています。聖礼は標識であり、神的行為であり、神的存在の手段です。これは福音を象徴し、福音が何なのかを権威を持って教えてくれます。これは言葉ではなく行動で、私たちを教えています。洗礼を受けるときに、私たちは罪洗い受けると聞き、なおかつ、劇的に表現されたそれを見て感じます。聖晩餐の時に、私たちのためのイエスの死について聞くだけではなく、私たちのために与えられた主の体を見、それを味わい、かぎ、触ることになります。洗礼式と聖晩餐を挙行することはキリストに対する従順を示すものです。これは音により伝えられる福音の、可視的な標識とシンボルで補完しようとします。また、これは信者をこの世から区別する外形的な標識もしくは可視的な領域なのです。聖礼は救いのために絶対に必要なものではないのです。なぜなら、救いは信仰のみで得ると聖書が教えているからです。しかし、聖礼を無くしてはならず、また蔑視してもいけません。これは、神の前で罪を犯すことになります。聖礼は、信仰を強化し、信者が一つになるようにし、信者が証人としてこの世と区別されるようにします。イエスは命じて「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と言われました(マタイ28:19)。「わたしを覚えてこれ(聖礼)を行ないなさい」とました(ルカ22:19b)。結局、私達はイエスの命令に従う必要があります。

  3. 教会の力(Church Discipline):プロテスタントはみんな教会の力が教会の特徴の一つであることに同意しません。なぜなら懲戒という名前で恐ろしいことが行われたからです。たとえば、スペイン異端審問と魔女狩りで権力を乱用したようなものです。しかし、これらの乱用が私たちの罪を治める聖書の明確な教えを実行することを防ぐことはできません。イエスは厳しく小さい者のひとりをもつまずかせることを禁じました(マタイ18:6-9)。ある人が罪を犯したときには、非常に慎重に取り扱っていくべきです。イエスはこれを取り扱うプロセスを言われましたが、その最終的な権限は教会であるとしました(マタイ18:15-17)。懲戒の目的は救いであり、回復させることです。それはただの罰を加えることではありません。

教会に対する上記の二つの見解を考えるとき、言葉と行動によって福音を伝えることが、教会の主な使命であることは明らかです。福音が伝わるとき、教会は立てられます。しかし、福音を伝えることを、伝わったそこで止めてはいけません。これは教会の主眼として継続的に行われなければいけません。そうなれば、教会は成長します。福音は停滞されず力動的に成長し、実を結ぶことです(コロサイ1:6)。福音はキリスト信仰の「abc」だけでなく、信仰の「xyz」です。福音は初心者だけのものはありません。すべての信者が成長して福音の信仰の中で成熟すべきです。信じる者たちを通して福音が実行されているところが教会です。

多くの人々は自分たちが地元の教会に属せずにも、クリスチャンとして生きていくことができると思っています。彼らは教会の中で起こる争いや問題を回避したいと思っています。教会の肢体になることは必ず必要ですが、仕方なくする、歓迎されていないことかもしれません。また、一般的に多くの若者たちは、どのような種類の献身も躊躇しています。その理由は、自分たちに失望を与えた団体や指導者を信頼することができないからです。私たちはこれを理解できます。それにもかかわらず、地元の教会に献身することはクリスチャンにとって選択する項目ではありません。カルタゴのキプリアヌスは次のように言いました。「教会を母として思わず、神を父にすることはない」と。これは、もし私たちが神を父と呼ぶならば、我々は地元の教会に属している必要があることを意味します。地元の教会の献身がなければどのような人でも成長することができません。私たちは、若者たちを地元の教会に献身するように助けて、彼らがイエスの中で信仰の成長を遂げるよう助ける必要があります。一人での信仰生活は聖者になれます。ところが、教会生活をすると、自分の弱さ、罪、罪の実際の姿が明らかにされます。そうなると、私たちは救いの必要性を認識し、イエスに来て変わる体験をするのです。これがクリスチャンの共同体である教会の必要とする理由です。私たちは、教会で福音の変化の能力を体験することができます。

教会のもう一つの重要な任務は、世界に福音を伝えることです。教会は宣教のための共同体になる必要があります。福音伝播は私たちを新たにした福音が自然に溢れ出ることです。事実、すべてのクリスチャンは宣教師なのです。神の家族の一員になるということは、罪と死からの救いという福音を私たちが他の人に伝えるために送られたことを意味します。私たちは福音を隣人に伝えるよう召されたのです。ある人たちは文化と国境線を越えて、イエスを知らない人に福音を伝えるように呼びかけられたのです。すべてのクリスチャンは、壊れた世界に福音を伝えるようにと、イエス様から遣わされました。イエスは「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました(ヨハネ20:21)。要約すると、教会は福音を伝え、福音の力を経験して、地の果てにまで福音を伝えなければいけません。

教会の特徴と福音中心的な性格を考えるとき、私たちは本当の意味で教会であることを確認することができます。ほとんどのUBF地域教会は福音伝播と聖礼を行なうのに強く焦点を当てています。しかし、いくつかの小さな家庭教会では聖餐式をしていないようです。教会として我々は、少なくとも一年に一度は聖餐式を行わなければいけません。これで私たちは神の救いの恵みを記憶することができ、私たちの信仰を強化しクリスチャンとして明確なアイデンティティを持つことができます。

今まで、私たちは教会の性格と目的について考えてみました。これからは、健康な教会をどのように立てることができるかについて考えてみたいと思います。まず、エペソ人への手紙を概観したいと思います。

エペソ人への手紙の概観

エペソ人への手紙は四つの言葉で要約することができます。「神の大きな計画」、「神の大きな愛」、「神の大きな知恵」、「神の偉大な力」がそれです。

神の大きな計画は、教会を建てることです。そしてこれにより、天にあること地にあることがキリストの中で統一されるようにすることです(1:10)。神の計画は、単に人々を救うことではなく、神の支配を回復し、天と地のすべての創造物に置かれた神の本来の目的を完成することです。キリストを通して神は世界を自分と和解させておられます(Iコリント15:25;IIコリント5:19)。これはどのような落ちもない完全な計画です。

この計画の動機は私たちのために注ぎだされる神の大きな愛です(1:4b、8)。私たちは私たちの罪と咎のため、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした(2:1,3)。しかし、私たちに向けた大きな愛のゆえ、神はご自分の大きな恵みを示され、私たちをキリストとともに生かしました(1:6b; 2:4-5a)。教会の命の源は神の大きな愛です(1:4b、6b、8; 2:4; 4:2)。ですから、私たちは、キリストの多次元的な愛の中に根を下ろして立てる必要があります。すべてのことは愛から出発すべきです。私たちは「愛をもって互いに忍び合う」べきであり(4:2)、「愛をもって真理を語り「(4:15)、「愛のうちに建てられる」べきで(4:16)、「キリストが私たちを愛してくださったのように、私たちも愛のうちに実行する」ことです(5:2)。「夫」はキリストが教会を愛し、自分をささげられたように妻を愛さなければならないのです(5:25)。

神は大きな知恵をもって、ご自分の計画を立てられ実行されます。神はすべての知恵と思慮深さにより、ご自分の喜びに基づいてキリストにあっての御心の奥義を私たちに伝えてくださいます(1:8b-9)。それは豊かな多様性として表現される「神の豊かな知恵」なのです(3:10)。教会を通して、天の支配者たちと権威に神の「豊かな知恵」が通知されます。

たとえ大きな計画と知恵と愛を持っていても、能力がなければ計画通りに進まないでしょう。神は大きな力を持っておられます。神は万物を創造された方です(3:9b)。神はすべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられ、すべてのものの父なる方です(4:6)。神はご自分の能力を示し、キリストを死者の中から蘇らせ、ご自分の右の座に座られました(1:20)。また、私たちをキリストとともによみがえらせ、キリスト · イエス において共に天の所にすわらせてくださいました(2:6)。神の力の威力は信じる私たちの上に働かれます(1:19)。神は私たちのうちに働く力によって、私たちは求めることや、神ご自身の満ち満ちたさまにまで私たちが満たされるのです(3:20)。神の力は悪魔の策略と要塞を破壊します(6:10-13)。それでは神が教会をお造りになられた目的は何ですか?それは、主の栄光を賛美するようにしようとするためです(1:6,12,14)。

どのように健康な教会を建てられるか?

1-3章では、神の大きな計画が教会を建てることであり、それを介して天と地にあるすべてのものをキリストの中で統一されるようにしようとすることを学びました(1:10)。神は私たちの平和であるキリストを通して新しい人類(教会)を創られました。 4-6章で、パウロは、このような大きなビジョンがどのように実現可能かを教えてくれます。パウロは、私たちが召されたことにふさわしく行うようにアドバイスします。パウロはすべての謙虚と柔和、寛容に愛をもって互いに容認し、平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保つ重要性を強調します(4:2-3)。まず言及された徳目は謙虚です。謙虚さは、すべての美徳の基礎であり、一つになるために最も重要なことです。すべての分裂と紛争の後ろには高慢があります。「謙虚」という言葉は、どのような条件や限定もなく、すべてのことについて謙虚な状態を意味します。また、一度だけではなく、常に謙虚であることを意味します。これはイエスの謙遜に習おうとする場合にのみ可能です(ピリポ2:6-8)。そのとき、キリストの体は立てられ育ち成熟に達するのです(4:13-16)。

体のたとえではキリストが頭であり、私たちそれぞれの肢体で体の一部分です。キリストは完全で、体が必要とするすべてのものを供給れます。主の神的な能力は、私たちが敬虔な生活をするのに必要なすべてのものを供給れます(IIペテロ1:3)。イエスは人生の源となり、私たちが良い実を結ぶようにれます(ヨハネ15:5)。イエスはすべての方法ですべてを満たして下さいます(エペソ1:22-23)。頭は決して問題を抱えていません。しかし、体は完全に向けて立てられなければならないです。私たちはキリストの体の肢体です(4:25b; 5:30)。各肢体は体を立てるのに責任があります。

それでは、肢体はなにをすべきですか?否定的な面から見ると、各自は旧習に従う自分との戦い、肉体と闘いをすることです(4:22)。特に、私たちは淫行やあらゆる汚れと貪欲をその名前さえも呼んではいけません(4:17-19; 5:3-5)。私たちは、嘘やだまし合うことをやめなければなりません(4:25)。私たちは盗みを止めなければなりません(4:28)。私たちは、すべての悪だくみと憤り、怒りと騒ぐこと、誹謗中傷することを、悪意とともに捨てなければならない(4:31)。私たちはまた、不従順な心を私たちから捨てるべきで、これは神の怒りが不従順な子らに臨むからです(5:18)。これらはまるで癌のような存在です。もし我々が小さい悪性腫瘍を発見した場合は、すぐに除去する必要があります。そうでない場合は伸び広がって体を破壊します。

肯定的な面から見ると、各自が新しい人を着ています。特に、私たちは、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けています(4:24)。神は聖なる方なので、私たちも聖い姿が必要です。私たちは愛の中で真実のことを言わなければならし(4:15,25)、懸命に働いて祝福の源にならなければならず(4:28b、29b)、お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてわたしたちを赦してくださったように、互いに赦し合う必要があります(4:32)。特に、私たちは愛されている子どもらしく、神をならう者になるべきであり、キリストが私たちのためにご自分を捨て、香ばしいいけにえの犠牲として神にささげたような愛のうちに歩むべきです(5:1-2)。主が私たちを召されたのは、暗闇の世界で光の子として生きるように(5:8-9)、主に喜ばれるのが何であるかを見分け(5:10)、賢く生きることです(5:16)。聖霊に満たされ詩と賛美と霊の歌を歌って神に感謝する(5:18-20)ようになることです。

健康な教会が立つためには、健康な家族、特に健康な結婚が必要です。家族は結婚の誓いにより作られます(創世記2:24;マラキ2:14)。家族構成員の間で、あるべき姿の親密感と一つなることは、神の前で誓った契約によって、夫と妻が結ばれることにより開始されます。健康な結婚を立てるには、夫がキリスト教会を愛しておられるように妻を愛することです。妻は、教会がキリストに服従して尊敬するように夫に服従して尊敬することです(5:22-33)。夫婦間の関係は、キリストと教会の関係を反映します。夫が妻を無条件的に愛することを学び、妻が夫を無条件的に尊敬する方法を学ぶとき、彼らは一つになり、実を結ん幸せになります。幸せな結婚を介して子どもたちは、親を主にあって従うことを学び(6:1-3)、親は子どもを怒らせず、主の教育と訓戒により育てられます(6:4)。

アンナ宣教師とわたしは1974年6月22日に結婚をしました。結婚式での祝辞をDr.Leeはエペソ人への手紙5章31-32節の言葉をもってされました。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」この言葉を聞いたときに、私は喜びましたがその意味についてはよくわかりませんでした。ただ、深い秘密ががあると思っていました。私は長い間、この言葉の意味がなんであるのかを理解しようとしました。二人が一体となるためには夫が妻を愛すべきで、妻は夫を尊敬すべきです。問題はわたしがやもめの一人息子として大変自己中心的であることでした。幸いなことに、アンナ宣教師はこのようなわたしを担えるほど成熟していました。Dr.Leeは祝辞の時に、アンナ宣教師に「夫を尊敬する意味で、子供のようにおんぶをしてください」と言っていました。アンナ宣教師はこのようなわたしの弱点を担い、いろんな意味で助けてくれようと努力しました。たまには霊的な成長のために私を正すこともありました。彼女がまた私を正そうとしていた時に、わたしは次のように言いました。「あなたが何度も繰り返し言わなくても、私は私の弱点を知っています。しかし、自ら矯正できないことをどうすればいいというのか?」アンナ宣教師はこの言葉にショックを受け、これ以上正そうとするよりは我慢と忍耐をもって祈ってくれました。このような彼女の祈りのおかげで、私は自己中心的な姿を克服し、妻を愛する方法を身に着けることができました。

わたしはアンナ宣教師があまりにも多くの雑用で苦労していることを知っていました。それで、私は妻をもっと理解するために私が食べたものは自分で皿洗い等を行う決心をしました。当時、伝統的な韓国の男はキッチンに絶対に入らないし、なおかつ皿洗いまですることは考えられない時でした。しかし、私がこのようにしてみると妻をより理解することができました。妻は理解されていることへの幸せを感じていました。彼女にとって理解されること自体が多くの意味を持ちました。このような方法でわたしは妻を愛することを学びました。2008年からアンナ宣教師はMother Berryに仕えるようになりました。その時から、世界各国からMother Berryの家にくる多くのお客さんに仕えるために熱心に働かなければいけなかったため、ストレスが積もり直ぐ疲れるようになりました。アンナ宣教師は運動が必要であると思いました。その後から、わたしはアンナ宣教師と散歩をすることに心掛けました。ある日、私はすでに運動が終わっていましたが、アンナ宣教師のために喜んでもう一度の散歩をしました。私たちは同じ心、同じスピリット、同じ目的をもってすべてを分かち合っています。多くの夫婦たちと、特に、結婚を予定している人や結婚したばかりの人たちとSkypeによる聖書勉強に仕えています。このようにして、孫たちを含む多くの人たちに仕えるようなりました。多くの神の民たちが祝福され、神の使命を担当する同労者となりました。彼らもまた、周りの助けが必要な人たちに仕える人となりました。

エペソ4-6章では、健康な教会を建てるための4つの徳目が重要なキーワードです。これは、「謙虚」、「聖」、「真理」、「愛」です。これは健康な教会を建てる四つの柱です。この言葉を聞くと、私たちは非常にプレッシャーを感じてしまいます。実際に私たちは、これを私たちの努力で実践することができません。これが私たちにおいて、イエスが必要な理由です。頭であるイエスは、私たちに必要なものをすべて満たしてくださいます。イエスに進むとき、主は謙遜と神聖と真実に私たちを助けてくださいます。イエスは、私たちがお互いに愛することができるようにし、特に、互いに許すことができるようにされます。

教会は様々な背景を持つ多種多様な人々で構成されています。そこでは争いが必然的に生まれます。他の民族で構成されているUBFのような教会では、このような紛争は非常に複雑になることがあります。同時に教会は霊的な成熟度が異なる様々な罪人で構成されています。これもまた、争いの主な理由です。どのようにして我々はあらゆる争いを解決することができますか?ただイエス様の十字架の中でのみ可能です。イエスは神と人との間の障壁と人々の間の障壁をなくしました。イエスは、私たちの平和なのです(2:14)。だから、私たちは、イエスの十字架に進む必要があります。私たち一人一人は、キリストと共に十字架につけられ、主が私たちを支配しますよう願う必要があります。私たちはお互いをイエスの十字架を通して見つめなければなりません。イエスの十字架は、教会の中心である必要があります。私たちは、完全に謙虚な姿で、愛の中で真理をいい、聖い生き方を取り、聖霊に満たされた生活を送り、お互いを赦すべきです。一言で言えば、私たちは私たち自身に対しては完全に死に、キリストが私たちの中に、私たちの中心軸として、私たちを介して高められる必要があります。健康な教会を建てる目的はただメンバーの幸せを大切にすることではありません。それは、福音の光を暗い世の中に映し出すことです。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(5:14)。

2006年3月、60歳になった私がアメリカの宣教師として派遣されました。その時から、私は様々な問題にぶつかりました。特に、言語や文化の壁に直面しました。言語は意思疎通の道具です。どのような道具であれ、私たちはその道具をどのように使えるのかを学ぶべきです。間違った単語を使ったり発音が正しくなければ問題が起こり誤解が発生します。例えば、聖書の神様を「死なない方、immortal」と表現します。しかし、その発音をアメリカ式の英語を使うため「t」を「r」で発音すれば、神は「不道徳な方、immoral」となります。これは神聖冒涜となります。現地の言語を正しく学ぶことは神の御業に仕えるため必須項目です。わたしは韓国でも熱心に英語勉強をしていました。韓国に来られるアメリカの主の僕たちと英語で聖書勉強をし、彼らに仕えていました。英語礼拝のためにメッセージを書き、伝えていました。それで私は英語がかなりできると思っていました。しかし、アメリカに来て私の英語はややおかしいことを学び、現地人の立場で英語を新しく勉強しなければなりませんでした。わたしは言語に対するストレスのため、この10年間、ずっと頭痛に悩まされました。まだ、この英語を学ぶことは山に登るかのような気がしています。今はアメリカ人が分かるほど、心の通った意思疎通が可能のようになりました。

文化の壁はまた、私が克服すべきもう一つの障害物でした。わたしは1984年からほぼ毎年、アメリカを訪問していたがためにアメリカ文化については良く知っていると思っていました。しかし、宣教地を暫く訪問することと、宣教の地で暮らすことは全く別物であることを悟りました。アメリカ人との実際的な生活に接したとき、わたしは文化的な衝撃の連続でした。例えば、アメリカ人は言論の自由を大事にし、公の場で討論することを楽しんでいます。彼らは自分たちの意見を自由のままに表現します。それに比べると、私が育った韓国は秩序や調和を重んじ、リーダーにより主導的に仕事を割り振ってもらえることを期待したりします。このようなことで、アメリカ人が自由に発言するとき、わたしは良く、彼らが心が高く、反発しているととらえていました。また、韓国の人々は縦文化があり年長者を重んじ、社会的な階級に順応します。しかし、アメリカは横文化で多くの人たちを同等に扱います。民主的です。彼らは社会的な地位や年、性別に関係なく格式から自由です。このような文化の差は誤解を招いたりします。若い人たちが私のことを、自分の友たちのように扱い、肩をたたいたり、頭をなでたりするのです。その瞬間、わたしは「なんと礼儀の無いものだ」と不愉快になります。その後、わたしは「彼らが私を友達と考えているのに、なぜ、私は不愉快に思うのだろうか」と思い始めています。彼らに過ちがあるのではなく、私に何かしらの問題があることを悟ったのです。わたしはただの文化の違いを、道徳的な判断を持ち出したのです。これらは関係性を遠ざけます。この問題を解決しなければ宣教の地で実を結ぶことは難しいし、生きていくことすら難しいと考えました。わたしはこの問題をとても深刻に受け止めていました。わたしはイエスの受肉について考えるようになりました。

韓国で私は多くの人たちから愛され、尊敬されていました。しかし、アメリカに来るとそれが何もないものでした。アメリカの人たちが自分のことを「あなたは誰だ?あなたの英語はおかしい!あなたは背が低いね」と思っているように受け止めました。事実、その通りです。しかし、それが何も問題ないことを悟りました。しかしながらも、私は年寄りの年長者としての待遇を受けたい心を捨てることができませんでした。わたしは長い間祈りをしながら、ピリピ人への手紙2章7節「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」という言葉をわたしの要節と取りました。一年間はほとんど変わりませんでした。しかし、5年間、この言葉に従順しようとしていました。これを克服することは不可能に近いと思うようになりました。しかし、御言葉をもって続けて闘争してみると、聖霊がわたしのことを憐れみ、助けてくださいました。わたしの年長者としての心や階級的な思考がなくなり、心の中に深い平和が訪れてきました。人々は直ぐ、この私の変化に気づいてくれました。この頃、多くの人たちが私に向けて「本当に恵み深くなりましたね」と言ってくれます。神様が助けてくださると、私の年や民族的な感情などは関係なく、わたしの孫を含めておおくの人たちと友達になるよう助けられました。その結果、アメリカの主の僕たちとも友人として一緒に仕事をすることができました。このようにして、私はイエス・キリストの中で死に、アメリカの健康な教会を建てるのに貢献することができています。

私たちはイエスの教会として世界の中にあるのであって、この世のものではありません。これはなぜ教会が歴史的に、神の敵から様々な方法で攻撃を受けて来たのかの理由になります。パウロはエペソで、特に悪魔のトリックを警告します。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:11-12)。私たちの教会が健康であっても、私たちは神の武具を身に着けて神の敵と戦う必要があります。このような点からすれば、教会は戦闘中です。しかしながら教会はまた、勝利に満ちた場所です。教会は前進する王国の標識なのです。教会は国と力と戦って勝つことができるが、これははキリストの復活と聖霊の満ち溢れで保証される、神の国の来るべき勝利への希望に満ちているから可能なのです。

教会の栄光は、私たちのためではなく、頭であるイエスのためです。健康で成熟した教会を立てて、キリストが私たちの中で、私たちを介して高められるようにしましょう。

REFERENCES

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  2. John R. W. Stott, The Living Church (Downers Grove, IL: IVP, 2007)
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  10. John M. Frame, The Doctrine of the Word of God (Philipsburg, NJ: P&R Publishing Company, 2010)

*1 R. B. Kuiper 2015: 24. "天啓的史觀"によれば教会は五旬節以前には存在せず、なおのこと神の子がこの世に来られた際にも存在してない。彼はお国を作るために来られたがユダヤ人たちは彼を王として受け入れずにいた時、彼はその再臨時にまでに王国を作ることを延期し、その中間期間に教会を建てることとした。これは「教会世代」を相対的に重要でない借り物のように見せる。しかし、教会はエデンから既に建てられ、世の終わりまで永遠に続くことが真理として受け入れられている。
*2 一般的に「ニケア・コンスタンチノープル信条」として知られ、AD 381年、コンスタンチノープルでの宗教的会議(公会議)により作られた。

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From 2008-12-6 Saturday, Last-modified: 2018-02-15 (木) 01:43:24 (582d)