古代文書であれ現代文書であれ、文書は解析されるべきである。聖書も当然のことながら解析されるべきである。問題は聖書が人による人間の文字ではなく、神様の啓示により記録された本であることだ。神様の特別な啓示である聖書を、正しく解析し歪曲されることなく教えることがこの地の使役者の使命と言えよう。パウロがテモテに書いた書信書で言及したように、聖書の解析者たちは「真理のみことばをまっすぐに説き明かす(テモテII, 2:15)*2」責務がある。また、「神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語る(コリントII, 2:17)*3」使命がある。
K. Feoehlichが言及したように「教会史は聖書解析史」であると言える*4。しかし、不幸にも中世時代には聖書が伝統教会の教理を補足するアクセサリーとして転落されていた*5。また、現代においてはポストモダニズムの影響により、解析者が処遇された実存的な状況により、いくらでも聖書解析は変えられるという主張が出回っている。しかし、このようになると神様の御言葉が時代状況と実存を代弁するための付添い人に転落する危険性がある*6。