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2013年、ガラテヤ人への手紙(その1)


福音に対するパウロの確信


御言葉:ガラテヤ人への手紙 1章1~10節
要節:ガラテヤ人への手紙 1章7節

「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

この部分はガラテヤ人への手紙の序論です。 ガラテヤ人への手紙の勉強を通して、わたしたちは信仰生活の総点検をすることができます。ガラテヤ人への手紙を繰り返し読んでみると、「福音」という言葉が浮かびあがります。ガラテヤ人への手紙を勉強しながら、私たちが受け入れた「福音」について学ぶことができますよう祈ります。

今日の本文は、1章1節~10節まで、要節は7節を取りました。

ガラテヤ人への手紙がパウロの初めての手紙であることを思い起こしてください。聖書には13冊のパウロの手紙が列挙されていますが、この手紙を筆頭として最後の遺言書に近い記録を残した「テモテ人への手紙II」があります。パウロは何にも、当時はこの手紙をバイブルとして集めてほしいとか、後世に残したい願いや、計画も無かったのは当たり前です。ただ、ガリラヤにいる信者たちへの切なる願いがあり、どうしよう、どのように彼らを助けよう、どうすれば彼らに正しい「福音」を知らせよう、という切なる願いが結集されたものです。シカゴで御業に仕えるPastor Abraham K.によればそのパウロの願いは「上からの注ぎ」があって、この手紙が誕生されたのです。この手紙は神からの啓示が含まれています。

1節をご覧ください。「使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです――」とあります。とても強い口調で始まっています。なぜかと言うと、当時、パウロは使徒ではないと人々から批判されていたのです。イエスの12名の弟子だけが使徒であり、他は使徒で無いと主張している人々が多く、彼らの説明にはある分、納得がいくものでした。パウロの使徒権を否定している人々、特に、ガラテヤ諸教会の人々の間に広がっているこの考え方に、パウロは強い口調でこの手紙を書いています。

マタイの福音書21章を見ると、イエスが宮で教えていると、ねたみに満ちた祭司長や長老たちが「何の権威だ。誰がその権威を与えたのか」と質問しています。イエスはその彼らに「バプテスマのヨハネの権威はどこからか」と質問しました。バプテスマのヨハネの権威は誰によるものでもありません。神様からの権威でした。

パウロも使徒と認めて下さったのは、人ではないとしています。人間でもなければ、組織でもない、団体でもない、イエス・キリストだとしています。パウロは自分の「使徒権」に対する確かな確信を、イエス・キリストからのものとして認識していたのです。もう一つは、このイエス・キリストを死者の中からよみがえらせた「父なる神」からだとしています。パウロは確信しています。パウロが使徒となったのは「イエス・キリストの十字架の事件」に繋がっていることです。そして、その十字架の事件を計画された「アバ・父・神」につながっていることです。パウロの使徒権はイエス・キリストからであり、アバ・父・神からのものです。ですから、誰が何と言っても、どんなに批判されても、譲れるものではありませんでした。

2節で、ガラテヤの諸教会へと手紙の相手をはっきりしています。そして、彼らへの願いがつづられています。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」この祈りから、パウロの信仰の根本に流れる基礎がうかがえます。パウロの信仰の根拠はまず、神様を父としていることです。信者は平気で、父なる神様を口にしています。父がいるのになぜ、神を父とするのかと反発する人々とは違って、平気で「父なる神様」と告白しています。パウロはこれが神様の関与であり、聖霊の働きによるものであると説明しています。

「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4章6節)

口で神様を、アバ・父と呼んでいる私たちには御子の聖霊が働いているのです。御子の聖霊が関与しているのです。御子の聖霊の関与がない人の口から、アバ・父の告白は無いのです。ですから、口で「アバ・父」と呼んでいる人々には既に、御子の御霊が内在しており、既に、私たちの人生に関与している証拠です。

もう一つ、パウロの信仰の基礎は「イエス・キリスト」です。パウロは次のように祈っています。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」父なる神と主イエス・キリストを同格にしています。同じ位立たせています。父なる神様とイエス・キリストを同じ位においています。父なる神様と御子・イエス・キリストが同格であることは、不思議です。人間の知識や話術では説明がつかない部分です。何故、それなら御子と呼ぶのか、なぜ、それなら父と呼ぶのか、不思議です。

この二位に御霊、または聖霊を加えて、三位と言っています。三位一体という言葉はそこから生まれたのです。神とイエス・キリストと聖霊は三位ですが、一体なのです。それでカトリックでは「父と子と聖霊の御名により祈る」のです。パウロの信仰の基礎におかれたものは三位一体です。

パウロは祈りの中で、この三位の特徴について説明しています。それが「恵みと平安」です。惠みとは私たちが何かをして受けるものではなく、何にもしてないのに与えられるプレゼントを指します。神様とイエス・キリストにはこの恵みが満ちています。

本来、私たちは神様と一緒に対面したりお話をしたり、握手をすることができませんでした。あまりにも罪深い様子をしていたためでした。私たちはどんなに努力しても、どんなに犠牲をしても、どんなに断食をしても、どんなに献身をしても、神様とお話しをし、握手ができる立場にない存在でした。しかし、神様は一人子・イエス・キリストを人間の姿にし、私たちと一緒に住まわせ、十字架につけられて、尊い御血を流されることにより、私たちと神様との関係修復を図ったのです。これも不思議の一つです。神様の人類の救いの計画の壮大なプロジェクトは御子の十字架での犠牲だったのです。その神様の計画を知らされたイエス・キリストは100%の従順により、その関係修復の作業を終わらせたのです。イエスの口から、It is finished.「完了した」(ヨハネ19章30節)と宣言したのです。そして、その十字架と復活を受け入れ、単純に信じる信仰の人々に「義人」の印鑑を押してくださったのです。信じる人は救われるようになったのです。信じる人々は聖霊と共に暮らす約束が実現されたのです。信じる人々は罪の重荷から自由となり、むしろ聖霊の実を結ぶ人生を生きるようになったのです。愛の世界に包まれるようになったのです。それが不思議であり「恵み」なのです。

私たちは何もせず、ただ、信じて受け入れただけなのに、私たちには罪の赦しと聖霊の助け船が付き添うようになったのです。人生の様々な場面で御霊の助けを手にした存在となったのです。この一方的な恵み、信仰により得られた全く不思議な重荷からの自由、これがパウロが伝えた「福音」です。しかも、そのような人々に包まれる心の特徴は「平安」です。心の奥底から湧き出る泉の平安です。しかもその平安の源は止まっているものではなく、湧き出る泉となるのです。(ヨハネ4章14節)それで、パウロはガリラヤの人々のためにこう祈ったのです。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と。

「このイエス・キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」これが4節の言葉ですが、ここで言う「今の悪の世界」とは私たちを誘惑する世界を指します。御霊に導かれて健全で、実りのある人生を行きたいと思う信者の心とは違って、私たち信者を誘惑する勢力が働くこの世界を指します。パウロはローマ人への手紙の中に、この世界のことについてつぎのように記録しています。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(Rom 7:19-20)

罪の勢力は私たち信者の心の中にいて、御霊と共存し、私たちを誘惑しているのです。しかし、私たちが信仰により十字架の事件を受け入れる時、不思議にも私たちは救いを体験するのです。罪の勢力を勝ち得る力がどんな律法の順守にもないのですが、十字架の信仰にはあり、私たちを悪の世界から救い出してくださるのです。「このイエス・キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」パウロはこの部分で思わず、神様を賛美しています。「どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

パウロは、このようなキリストの恵みをもって彼らを召してくださったその方を、急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いていました。しかし、断固たる発言を発しています。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

ここで、ガリラヤの人々がまどわされた他の福音はなんですか。律法の福音でした。信仰により救われましたが、割礼を受けるべきだ、信仰により救われましたが、安息日の律法を守るべきだ、週3回の祈りを、毎日5時の祈りをささげるべきだ、信仰により救われましたが、信仰を深めるために何か、信仰とは別のことをして行う努力をすべきだと教えていました。Dr. Mark Y.はシカゴの聖書勉強中で、「わたしも長い間、この気持ちをぬぐい去ることができませんでした」と告白していました。信仰により救われましたが、何か、よりよい信者として成長するためには何か、信仰とは別の努力が必要なのではないか、と思っていたのでした。私も、信者は少なくとも、聖書勉強、祈り、所感発表など、イエス・キリストを信じる信仰以外の別メニュがないといけない、と考えていました。信仰で救われても、やはり信仰を深めるための別の条件、別の律法が伴うべきだと思いました。しかし、そうではない。救いは信仰により完成しているのです。もう、これ以上律法の要求を求める必要はない。すると、私たちは「それじゃ、救われたので勝手に生活してもいいのか」と質問します。しかし、救われた人が勝手に罪の世界に足を突っ込み、楽しむことはあり得ない話です。先ほども言いましたように、信者は罪の勢力と共存する世界で生きているので誘惑はあるものの、その都度、私たちはイエス・キリストの十字架の事件を信仰によりつかむことが求められるのです。そして、その十字架をつかむことにより得られる恵みの世界、聖霊の導き、平安と喜びに包まれることが求められるのです。そのためのどのような律法の要求も無用なのです。Dr. Mark Y.は「救いも信仰により、信仰の成長も信仰によりです。信仰から始まっているのに、律法でまとめられる愚かさは無いのです」と断言しています。

誰かが律法の要求をするのは、彼らが信者たちを支配しようとするもので、パウロはそれが別の福音であるとしています。しかし、パウロは律法の要求をする彼らに向かって厳しく警告しています。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」それだけではありません。その口調の厳しさはますます強くなっています。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」

信仰により得られた救いをかき乱している人は呪われるべきだと断言しています。信仰だけではダメだ、信仰に深めるためには、信仰とは別のものが必要だとする人々はのろわれるべきです。

この言葉は当時の教会の雰囲気からして、殺されるに近い危ない発言でした。パウロの福音は既存の形、律法を否定するものでした。律法を守り、神様に捧げる真心を積み重ねることで神様の恵みを頂くのだ、とする既存の考え方を拒否するものでした。新しい葡萄酒は新しい革袋に、と言われたイエス様のお言葉が思い浮かべます。パウロの福音は規程概念をまったく新しい概念に取り換えたものでした。既存の既得権を無視した全く新しい概念でした。しかし、パウロはこの点では妥協を許しませんでした。パウロの福音はこうです。「救いは、イエス・キリストの十字架を受け入れる、信仰により得られる」と。

そして、自信を持って次のように言っています。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」これがパウロの福音に対する確信でした。


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From 2008-12-6 Saturday, Last-modified: 2016-05-28 (土) 00:56:46 (1210d)