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2012年長崎UBF Ten Step 10thメッセージ --> 問題紙

新しい人生

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカ5:27-32
要 節:ルカ5:27「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。」

今日の御言葉に登場する人物、取税人・レビはお金に人生をかけた人でした。彼の体にはお金の魂が組み込んでいるようでした。金の動きによって当日のスケジュールが決まり、金の動向によって一カ月、一年の計画が決まりました。金の動きは彼の人生の羅針盤のようなものでした。金が動くところに彼はいましたし、彼に聞けば、金の動きが分かりました。当時の取税人はローマ政府に納める税金を積算し、ローマ政府の代わりに植民地の住民から税金を取る職人でした。特に、ローマ政府により、植民地の人々の一人当たりいくら、と定めた人頭税はローマ市民権を得ている人々にはなかったらしく、植民地となった住民の生活を厳しく圧迫していました。ローマ政府と取税人の間に入札で決められたとされるローマへ支払う税金の金額は、事前にローマ政府と契約を結び、いくらの金額をローマ政府に納めればいいのかが決まっていました。しかし、大体、その金額以上に税金を取り、ローマ政府に納める金額より多い、あまり分を自分たちの腹を肥やすために使っていたそうなので、彼らは特に同族のユダヤ人たちから嫌われていました。自分たちの同じ同族の血を吸っているような吸血鬼と呼ばれ、ユダヤの人々はこの「取税人」を罪人と同じように扱い、しかも大嫌いでした。彼らはユダヤ人の間では公になった罪人以上の罪人でした。彼らは金持ちでしたし、裕福な生活をしていましたが、ユダヤ人からすれば品のない俗物でした。彼らには近づくこともなく、税金を払う時以外には見向きもしませんでした。

今日の御言葉はこのような取税人についてのお話しが主題となっています。

27節をご覧ください。この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めておられました。その後とは、イエス様がペテロやアンデレといった漁師出身の弟子たちを御呼びになり、らい病、中風の病気を癒された後のことを指しています。イエスの周りには純粋で素朴な漁師出身の弟子たちが集まっていましたが、イエスは意外にも、取税所に座っているレビという取税人に目をとめられました。

レビと呼ばれる取税人が今日も、取税所に座っていました。彼は今日も、忙しい計算を続けていました。お金が動く動向を把握するためでした。車の免許更新の時に、交通安全協会に払うお金を出すときに、私はいつもぶすっとした顔で、払っていますが、受け取る人はいつも「ありがとうございました」と大きな声で返します。しかし、とても気持ち悪く聞こえる場合があります。なんでこんなにもお金を払わないといけないのか、ぶつぶつ言いたくなります。ユダヤの人々は取税所に来て、みんなぶすっとした顔をして、税金を支払っていたに違いありません。毎日のように、そのような形で扱いされる取税所の取税人はつらかったことでしょう。

レビはなぜ、このような取税人を目指したのか分かりませんが、ともなく、彼の人生にはお金が一番でした。人々から冷ややかな態度で扱われるときには何となく方が重くなりましたが、金が入ってくる通帳の残高を見るたびごと、これらの悲しみや苦しみはすっきりしました。お金のことを考えると、まぁ、つらい取税人としての生活は我慢できました。この取税人レビに目をとめられました。

27節の御言葉をもう一度、ご覧ください。この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留められました。目をとめられたとは、見つめたことを意味します。このようなレビの姿に注目されたことを意味します。金に満足するレビよりも、何となく悲しみに包まれるレビ、さびしさ明け暮れるレビ、人々に指差される苦しみに包まれたレビに関心を寄せられたことを意味します。そして、レビに言われました。「わたしについて来なさい。」この御言葉の意味が何でしょうか。

レビは今まで、お金が人生の羅針盤でした。お金の動きに人生も動きました。お金の動きに心も動きました。喜びも悲しみもお金から生まれました。お金は彼のすべてでした。イエスはこのレビに言われました。「私についてきなさい」これはイエスを人生の羅針盤にしてみるようにする、誘いの言葉でした。イエスの動き、イエスの言葉に、人生の喜びと悲しみを感じ取る、そのような人になってみないか、という誘いでした。イエスの言葉が人生の方向を決め、イエスの言葉が今日のスケジュールを定め、イエスの言葉が将来の人生計画のもっととなる、そのような人になってみないか、という誘いでした。

私たちは誰でも、人生の羅針盤とするものがあります。人生を生きているうえで基準とするものがあります。小さいときにはそれが親だったり、幼稚園の先生だったり、小学校、中学校の担任だったりもします。本が好きな人は有名な小説家や思想家、哲学者などが人生の羅針盤になったりします。しかし、それ以前に、人生の羅針盤になっているのは自分自身の場合が多いです。その都度、気持ちの動きや動揺する感情、場の雰囲気にそって下した判断が、人生の羅針盤になったりします。しかし、自分自身が人生の羅針盤になるともっとも危険なのは所詮、人間の浅い判断や考えに人生の船を任せることになるのです。それよりは人生の先輩や人々から認められた小説家や思想家、哲学者がましです。このような人たちに照らせ合わせてみる目があると、自分を低く評価したり、自分を高く評価する過ちが少なくなるからです。しかし、もっとも良い判断ができるのは正しい判断力、優れた省察力、人生を見わたす知見と知識を持っている方を人生の羅針盤にすることです。そのような方ときめ細かな相談ができることです。私のしたことをすべて知っており、私に語りかける方、そのような方を人生の羅針盤にすべきです。この方こそが、人生の真の主人です。このような主人を熱望していたサマリヤの女に、イエスは言われました。「私がそれです。」と。ペテロも、一緒に生活をしてみて、その方に告白していいました。「主は生ける神の御子、キリストです。」

私たちが一人一人、自分の人生のキリストに出会うとき、神様を人生の主人として拝み、人生の相談ができるとき、私たちは完璧な人生の羅針盤を手にするのです。その人生にはもはや闇がありません。その人生には心の奥底から湧き出る喜びと律法や死の勢力を恐れない永遠の命が保障されるのです。私の主、私のキリスト、私の人生の羅針盤となられる主・イエスキリストを感謝賛美します。主は相談するすべてを120パーセント完璧にこたえてくださいます。祈り求めるときに、願いをなしてくださいます。愛の関係性が結ばれる中に答えを出してくださいます。主は今、私たちに言われます。「私についてきなさい」と。

このようなイエス様の誘いに、レビの反応がどうですか。28節をご覧ください。「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」レビは迷いませんでした。レビは周りの人々のことを気にしませんでした。レビは何もかも捨てて、立ち上がって、イエスに従いました。レビはイエス様の誘いに答えました。誰も、声もかけないレビに、「わたしについてきなさい」とされるイエス様の声に、愛を確信しました。その愛の声に、従順で答えました。イエスとレビは完璧な愛の関係性が成立しました。神様と愛の関係性が回復したレビには感激が止まりませんでした。29節をご覧ください。「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。」とあります。レビの神様との愛の回復は心の喜びを抑えきれないほと盛り上がりました。レビはお金を使って、イエス様のために宴会を催しました。仲間や取税人、多くの友人も誘いました。レビは儲けたお金を惜しまずに、使いました。神様と愛の関係性が結ばれたレビにとってお金は人々のために使うためのものでした。ここで私たちはレビの喜びの姿を垣間見ることができるのです。

心の奥底からの喜びはどこから来ますか。神様との愛の関係性が回復するときです。神様の声を聞き、その愛情の声に従順を持って回答するときです。心から神様を愛し、神様の願いに沿って生きる決心をするとき、私たちには抑えきれない喜びと賛美に包まれるのです。聖霊に包まれます。神を神として崇める信者の秘密はここにあります。いくら綿密に調べてもこの秘密は分かりません。しかし、聖霊による抑えきれない喜びは、神様を神として崇め、主を主として告白する人に訪れる神様からのプレゼントです。まるで別世界にいるような不思議な信仰の体験をするのです。レビの喜びはまるで、このような新しい人生を出発する信仰の世界を表しています。

すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言いました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」イエス様がそのような取税人の宴会に参加してはいけないと、反発していました。少なくとも、イエス様のような紳士は、罪人や取税人と一緒に飲み会に参加すべきではないと批判していました。31節ご覧ください。そこで、イエスは彼らに答えて言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

イエスさまは医者を必要としない人より、丈夫でない人、病人、脚なえ、やせ衰えた人々にお声をかけることを喜んでいます。丈夫な人はともなく、罪人たちに声をかけ、彼らが悔い改めることを願っています。不信仰を悔い改め、神を神として崇めなかったことを悔い改め、神様と愛の関係性を回復することを願っています。そして、その人たちの人生が神に愛されるものとなり、魂に幸いを得ることを願っています。魂に幸いを得た人はすべての点でも幸いを得るようになります。しかも、体の健康も祝福として与えられることが祈りとなり、聖書の約束として与えられています。

この時間、イエスは私たちに言われます。「私についてきなさい。」わたしたちが神様に愛の告白をすることができますように祈ります。何もかも捨てたレビの喜びが、神様の愛を確信したところから来たように、神様の愛を確信できますように祈ります。そして、私たちも進んで、神様に愛の告白をしますように祈ります。「主は私のキリストです。救い主です。私の主人です。私のすべてです。主を愛します。罪深いこの私を憐れんでください。私に道を開き、目を明かさせ、主の願いに速足で歩くことができますように祈ります。」との祈りがありますよう祈ります。私たちの主・イエス・キリストを感謝賛美いたします。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23