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2012年長崎UBF Ten Step 6thメッセージ --> 問題紙

イエス様との出会いと新しい出発

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネ4:3-30
要 節:ヨハネ4:13,14 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

人はだれでも二つの渇きを満たすために生きています。一つは、肉体の体が要求する水分などの栄養剤の欲求であり、人間の本能と呼ばれるものの要求がそれです。体の要求が肉の本能であれば、もう一つは精神的な本能の渇きを指します。今日の御言葉には精神的な本能の渇きに振り回された一人の女に正しい渇きの解決策を示すイエス・キリストの姿が現れます。今日の御言葉を通して人間の本能の渇きを解決する正しい道を学ぶことができますように祈ります。

Ⅰ.水を飲ませてください(3-9)

3、4節をご覧ください。イエスはユダヤを去って、またガリラヤへ行かれました。しかし、ガリラヤからユダヤへ行くためにはサマリヤを通って行かなければなりませんでした。しかし、当時のユダヤ人はサマリヤを通らずに、わざと2倍以上の時間をかけてヨルダン川の東側の道を通して行き来していました。この問題には彼らの精神的な問題がからんでいました。ユダヤ人は何を食べるかに関心を持つより、何を信じるかに関心が強い国民でした。しかし、サマリヤ人が信じることより、食べることに関心を寄せた時、南のユダヤ人たちから嫌われてしまいました。信じることを重視していた南と、食べることを重んじるようになった北のサマリヤには隔たりが生じました。彼らは敵対し、お互いに土を踏むこともしませんでした。

しかしながら、イエスはサマリヤを通ってガリラヤに行く道を選びました。その途中、イエスはヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られました。今は信仰心が薄れてしまったスカルという町は昔、信仰の先祖たちが生きていた遺跡がありました。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられました。時は六時ごろ、今の時間からいえば真昼の12時でした。そこにひとりのサマリヤの女が水をくみに来ていました。当時、水を汲みには涼しい朝や夕方に、三々五々村の人達がお喋りをしながらやってきていました。ところが、この女は人の目を避けて現れていました。彼女は人目を避けて水を汲みに行かなければならない事情がありました。18節を見ると、彼女には5人の夫がいましたし、現在も一人の男と同居していました。今でもバツ5はさすがに常識ではありませんが、当時の厳しい律法社会では考えられないことでした。彼女はなぜ、人々の目を意識しながら朝や夕方ではなく、誰も来ない昼に水を汲みに来なければなりませんでしたか。彼女は精神的な渇きを、夫から得ようとしていました。精神的なのどの渇きを男から得ようとしていました。しかし、その精神的なのどの渇きは夫が5人変わっても、6人目になっても依然として満足できませんでした。イエスはそのような彼女に注目されました。そして、彼女に声をかけられました。イエスは言われました。『わたしに水を飲ませてください』

イエスは丁寧に、そして謙遜に彼女に声を掛け、水を頼まれました。「わたしに水を飲ませてください。」イエスは彼女が水を飲ませることができるとみていました。そして、イエスは彼女と会話することを願いました。イエスは彼女に肉体が欲求する水を求めましたが彼女にイエスさまは精神的な渇きの水を与えたいと願っていました。彼女の反応はどうでしたか。9節「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」彼女は冷たい声で言い返しました。と言うのは、彼女は今まで一度もユダヤ人から何かを頼まれたことがありませんでした。実際に彼女は人々からうわさにされ、仲間からはずれていた女でした。当時ユダヤ人はサマリヤ人を無視し、サマリヤの男はサマリヤの女を無視しました。さらにサマリヤの女たちは、この女の不徳な行動を非難し、彼女を無視していました。律法を重視するユダヤ人の男性と遊女のような生き方をしているこの女の間には、どうしても一緒にすることのできない大きなギャップがありました。

しかし、イエスは彼女が精神的なのどの渇きを、男からではなく、イエス・キリストとの対話から来る水によって、また、神様から来る水によって解決できることを知っておられました。イエスは彼女に飲み水をお求めになると同時に、彼女には永遠に湧き出る水を与えたいと願っていました。そこで、イエスは彼女に声をかけました。「わたしに水を飲ませてください。」これはイエスさまにとっては、のどの渇きを解決する道であり、彼女からすれば精神的な渇きを解決する道でもありました。イエスの彼女への声かけは彼女の精神的な満足感を得る近道だからでした。イエス様の声かけによって、女は永遠の泉のような湧き出る水に出会うからです。

Ⅱ.永遠のいのちへの水(10-18)

10節をご覧ください。「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」」とあります。ここで、イエス様は彼女に神様の賜物をあげようとされることが分かります。神様の賜物とは永遠に渇くことのない生ける水、つまり彼女が今まで必死に捜し求めていた真の満足の根源となられるものです。もし、彼女が神様の賜物を知っていたなら、イエス様にその賜物を求めたはずでした。そして、イエスさまは彼女に生ける水を与えたはずでした。男とではなく、神様にのどの渇きを告白し、その解決策を求めるとき、彼女は生ける水を手にすることができるからでした。

11,12節を見ると女は言います。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」女は生ける水の意味が理解できませんでした。イエスは彼女に言われました。13節「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。』」と。1800年代中盤から1900年代の中盤まで実業家として活動していたアメリカのロック・フェラーという人がいます。彼は石油会社などを経営して当時9億ドルの資産を持っていた億万長者でした。ある日タイムズ紙の記者が彼に質問をしました。「あなたは現在持っている富に満足していますか」この質問に彼は「いいえ」と答えました。「それでは、あなたはいくらの金を稼いだら満足しますか」すると、ロック・フェラーは「もう少し」と答えたそうです。彼は人生の最後にはほとんどの資産を慈善事業に使いましたが、このように世の中では満たしても満たしても満足できないものがたくさんあります。お金だけではなく女性は奇麗になりたい渇きがあるようです。不況の中でも整形外科を訪ねる人は多く、奇麗になるために自分の体の一部を削ったり、付けたりします。その副作用でもっと醜くなることもあります。学問においても、学士を持っている人は修士が欲しくなり、修士を終えた人は博士の学位を求めます。しかし、博士になってもまだまだ分からないことがたくさんあります。研究をやればやるほどやるべきことがたくさん出てきます。旧約聖書にダビデの子供でソロモンという人がいます。彼は当時の王様で、世の中で得られるすべての栄華を満喫していました。彼は死ぬ前にこのように告白しました。「すべての事はものうい。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない」(伝1:8)また、こう言いました。「空の空。すべては空。日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう。」と(伝1:2,3)。

しかし、14節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエス様が与える水を一度だけでもリアルに体験する人は、決して渇くことがないとのこの宣言がどれだけ真実な宣言であるのかについて理解できます。ヤコブの井戸は人が掘り出したものであり、人が汲んで飲むものです。その水を飲むものはまた渇きます。しかし、イエス様が与える水は、神様が掘り出した井戸から飲むもので、渇くことがありません。それは神様が汲んで与える水だからです。神様が与える水は、その人のうちで泉となります。更に、永遠のいのちへの水がわき出ます。ヨハネの福音書7章37、38節でもイエスは大声で次のように言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」聖書が言っているようにとは、神様がお約束しているとおり、という意味です。そのお約束は神様の約束であり、その実行は真実です。

イエス・キリストは生ける水です。私達の心に神様が下さる聖霊の泉が作られると、そこから永遠に渇くことのない生ける水が湧き出るようになります。その時、私達は渇くことのない、疲れを感じない人生を送ることができます。喜びと真の満足を体験することができます。イエス・キリストは生ける水です。イエス・キリストは私たちの人生の渇きを満たす生ける水となります。イエスと会話し、神様に願いを込める人に、生ける水は湧き出るようになります。

15節をご覧ください。「女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」彼女から飲み水を求めるようになった時、イエスは生ける水を飲む秘訣を教えてくださいました。16節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」これは彼女の夫の問題でした。彼女の隠しておきたい罪の問題でした。イエスは彼女の隠しておいた罪の問題を明らかにし、告白しないままでは、生ける水飲む体験をすることができないことを知っておられました。イエスは永遠に乾くことのない生ける水を飲むことが、隠しておいた罪を告白して、初めて体験するものであることを知っておられました。彼女は抵抗しました。「私には夫はありません。」しかし、イエスは彼女の告白できない様子を助けられました。彼女が告白できる環境を作りました。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」彼女は自らの口では告白できませんでしたが、イエス・キリストと対話する中で、もうすでに告白したような形が作られました。いつも間にか罪の告白がなされました。その彼女には不思議な喜びと聖霊の働きに包まれました。罪の告白ができた彼女の中からは心の奥底から湧き出る生ける水に満たされました。満ち溢れる喜びに包まれました。

そこで女は言いました。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」彼女は預言者のイエスには出合いましたが、礼拝には問題があると指摘しました。しかし、イエスは彼女に言われました。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」すると彼女は「キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるときには一切のことをわたしたちに知らせてくださることでしょう。」とキリストを求めました。イエスは言われました。「あなたと話しているこの私がそれです」と。彼女は男を求めていましたが、キリストを求めるようになりましたし、キリストを求めていた彼女はキリストにばったり出会うようになりました。彼女の神様への願いは実現され、心には満ち溢れる喜びに包まれました。

キリストに出会った女はどう変わりましたか。28-29節をご覧ください。「女は自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来てみてください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなどでしょうか。』彼女はキリストと対話の中で、人生が変わりました。渇きの問題が解決しました。彼女の暗い表情は光り輝くようになりました。人を恐れ、人の目を意識していた彼女が町へ行き、人々にイエス様のことを言い伝えました。水を汲みに来た彼女が水がめを置いたまま町へ行きました。それは彼女がイエス・キリストのゆえに、心の奥底からいける水の川が流れでるようになったからです。イエス・キリストのゆえに満ち溢れる喜びに包まれたからでした。

イエス・キリストは生ける水です。イエス・キリストと対話する人は心の奥底から湧き出る生ける泉を体験します。人生の渇きの問題は男からも、女からも、名誉からもお金でも解決できません。しかし、イエス・キリストの中で解決されます。イエス・キリストは主です。私たちの間に、キリストの力が広く伝えられますように祈ります。多くの人々がイエス・キリストの力に包まれますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23