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2012年長崎UBF Ten Step 5thメッセージ --> 問題紙

新しく生まれるとは

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書3:1-16
要節:ヨハネの福音書3:6「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

聖書の創世記は私たち人間について、神様によって作られた存在であること、また、神様を神として崇めるべき存在であること、を教えています。人間は神様を崇め、自然万物を治める存在として作られた、特別な存在です。聖書によれば人間は動物と同じ日に作られたので、動物と非常に似たところが多いのですが、人間の人間としての特徴として、神様の息が吹き込まれたものとして、その体に神様の領域が存在することを取り上げています。人間は神様を神様として崇めながら、神様と交際できるのです。神様に祈りながら、神様と対話し、神様の願いと望みなどを悟ることができる存在です。人間にとっての幸せは、神様とのかかわりであり、神様の議に沿う生き方です。人間は神様によって生きるとき、神様とかかわりを持って生きるとき、一番の幸せを手にする、特別な存在であることを、聖書は教えています。

聖書はそれと同時に、人間がこれらの幸せや神様へのかかわりが強制された存在ではなく、自主的に選べられるようになっていることも教えています。人間は神様によって作られた存在ですが、その幸不幸の運転手としての権利を神によって握られているのではなく、その手に握っている、存在であることを教えています。神様は人間が神様との関係を、自らの手で選択できるようにされたのです。神様の存在を認めることも、認めないことも、神様を受け入れることも、受け入れないことも、その選択肢の一つとして委ねられたのです。神様は人間の神様とのかかわりが強制されることなく、人間が自分の意志と自分の選択によって選べられるようにされたのです。神様の人間への配慮は実に深く、丁寧なのです。人間は神様によって作られ、その心も体も神様に向けている、選ばれた存在ですが、神様を認め、神様を礼拝し、神様に祈りする信者の選択権は人間に与えられたのです。人間は誰でも、人間であるがために神によって選ばれた種族、聖なる国民ですが、その特権を発揮するキーは人間にゆだねられているのです。信仰による義、信仰による道です。

今からおよそ2000年前の、イエス・キリストが生きていた時代、当時の知識人であるニコデモという人との対話の中で、私たちはこれらの事実を垣間見ることができるのです。また、その事実をイエス・キリストご自身が教えています。今日の御言葉を通して、救いの知恵について学びますように祈ります。

1節の御言葉をご覧ください。「パリサイ人の中にニコデモという人がいました。ユダヤ人の指導者でした。」パリサイ人と言えば、区別された人という意味で、特別な集団でした。彼らは誰よりも神様を認める人間集団であり、神様を愛する集団でした。彼らは自分たちが住むところに会堂を設け、そこで週2回ほどの聖書勉強をしたと言われています。また、安息日の今の土曜日には午前中と午後、二回の礼拝をささげていました。祈りをもってはじまる彼らの礼拝は礼拝を主導する人が決まっておらず、その都度、指名を受けた人々によって聖書を朗読し、言葉の内容を説明する説教があり、最後には祈りと賛美をもって、礼拝を終えていたとされています。イエス様も、パウロも、バルナバも、このような会堂組織の中で言葉を読み、言葉の解説をする礼拝の主導者となっていました。

パリサイ人の中にはパウロの師である、ガマリエルが生まれており、彼らの教えはミシュナーとしてまとめられ、最終的には現在の旧約聖書が整理されるまでに彼らの活動は続いていたとされています。彼らの特徴は聖書勉強に熱心で、その教えを伝えるところに使命感を持ち、会堂を中心として熱心に宣教をする集団でした。パリサイ人たちは特に、敬虔なユダヤ人たちから強い信頼を受けていました。本文中の主人公・ニコデモはこのようなパリサイ人の一人で、ユダヤ人の指導者でもありました。それはサンヘドリンと呼ばれるユダヤ人の生活を指導する政治的な組織のメンバーであったことを意味します。今の国会議員のような立場にいる人でした。

これを見ると、ニコデモはバイブルハウスを中心に熱心に聖書を勉強する人で、モーセの律法を学び、生活の中にモーセの律法を適用する熱心な信者でした。週2回の聖書勉強に励みましたし、安息日には礼拝をささげる熱心な信者でした。2節を見ると、この人が、夜、イエスのもとにやって来ました。そして言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」この話を聞いてみると、ニコデモはイエスのことに詳しい人物でした。ニコデモは民に親しまれ、尊敬され、民の生活を指導する人でした。ユダヤ人として重んじる信仰心の強い人で、かつ、人々を指導する立場に立つ成功した人でした。しかし、彼が、夜、イエス様のもとにやってきました。昼間ではなく、暗い夜、イエス様に訪ねてきました。そして、しるしの話を持ちかけました。しるしとは奇跡のことで、ニコデモには奇跡のようなことを求めていたようでした。

このようなニコデモにイエス様は何と答えられましたか。3節をご覧ください。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」しるしに関心を寄せているニコデモにイエス様は「新しく生まれる新生」を語られました。つまり、しるしに関心があるニコデモに、新しく生まれることに関心を持つよう、勧められました。神様のもとから来られた教師に関心があるニコデモに、新しく生まれること、そのものに関心を持つように言われました。イエスはニコデモがしるしより、神の国を見ることに関心を寄せるよう、コメントされました。しるしについては分かっていたニコデモでしたが、新しく生まれることについては初耳でした。4節をご覧ください。ニコデモは言いました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」ニコデモは新しく生まれることについて、もう一度、母の胎に入って生まれることだと理解しました。

ニコデモはパリサイびとでした。使徒の働き23章8節を見ると、パリサイびとは復活も天使や霊の存在も信じていました。しかしながら、パリサイ人であったニコデモは、新しく生まれることには無知でした。これを見ると、ニコデモは知識としての信仰人ではありましたが、新しく生まれることを体験的に知らない人でした。頭では分かっていても、それが自分とは結びつきませんでした。母の胎内から生まれることと同じように、人は霊的に新しく生まれる存在であることを知りませんでした。それで、新しく生まれるとは、母の胎内に入って、もう一度生まれることだと思いました。

それでは「人が新しく生まれる」とは何を意味しますか。人が新しく生まれなければどうなりますか。新しく生まれるとは人間が母の胎内から生まれると同じように、神様の子供として生まれることを意味します。新しく生まれてない人を、聖書は自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なう人のことを指し、生まれながら神様からの御怒りを受けるべき子らであると教えています(エペソ2:1-3)。生きている間にも神様ののろいの下にあるだけではなく、死後には神様の審判を避けることができない存在であると教えています。人々は死んだらそれで終わりだと思っています。しかし、聖書は「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と言っています。このさばきは火と硫黄の燃える池の中で永遠に苦しむ裁きであると、定義しています。それだけ厳しい裁きが死後に待っていることを教えています。このように新しく生まれなかった場合に受ける結果は致命的です。聖書はそれを避けるためにも、人は新しく生まれなければならないと教えています。

ではどのようにして新しく生まれることができるでしょうか

5節をご覧ください。「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』」とあります。イエス様が「水と御霊によって」新しく生まれることができると、教えています。それでは「水と御霊によってうまれる」とは何を意味するのでしょうか。

水は水のバプテスマを指し、御霊は御霊のバプテスマを指します。水はきれいに洗いだすことを指し、御霊は神様の力の働きを指します。エペソ人への手紙を参照して見ると、「キリストがそうされたのは(十字架上の死)、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり(エペソ5:26)」と教えられています。御言葉による洗い出しと御霊の働きによって新生が生まれることを教えています。御霊はいつも御言葉とともに働くからです。私たちが私たちの罪を真実に悔い改め、神様の御言葉を堅くつかむ時、聖霊が御言葉を通して力強く働いて新しく造られた者にしてくださいます。新しく生まれるみわざは私たち人間の力によってできる領域ではなく、全く聖霊に属している働きなのです。では聖霊の働きとはどのようなことでしょうか。イエス様はニコデモ風をたとえにして聖霊の働きを分かりやすく説明してくださいました。御霊と風は原語ギリシア語では同じくプネウマだそうです。8節は、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とあります。風は思いのままに吹きます。どこでもいつでも吹きますし、吹き方もいろいろです。その強さもいろいろです。そよ風もあるし、台風、嵐、突風などもあります。私たちの目には見えませんが風が思いのまま吹いているのと同じように、聖霊もご自分の思いのまま主権的に働きます。時にはそよ風のように静かに働かれますが、時には台風のように強く劇的に働くのでその変化がはっきり見えます。私たちは風がどこから来てどこへ行かを知らないように聖霊の働きも科学的に分析することができず、理論的に説明することができません。しかし、新しく生まれた人の言葉づかいや行動、生活に現れた結果を通して聖霊の働きを認識することができます。

私が新生を体験したのは大学の三年生のころでした。「主はキリストです」と信仰告白をし、いろいろと犯していた罪を一般に公表し、夏の集会に参加していた時でした。心がふわぁとした気持ちをぬぐい切れず、まるで雲の上にいて生活するような気持でした。3泊4日の集会が終わってから帰りのバスの中で私はまるで別世界にしばらく住んでいたような錯覚を覚えました。今思えば、その時私は新生を体験していました。言葉をつかみ、罪を告白し、主に祈りをしていた時に、聖霊は強烈に働いていました。新しく生まれなければ、神の国を見ることができないように、その後の神様の御言葉はまるで別の言葉のように、嘘のように理解が深まりました。疑いの目で見ていた聖書の言葉が感動と喜びに変わりました。人生の生き方について厳しい指摘の言葉になったり、慰労の言葉になったり、新しい人生の方向を定める言葉になったりしました。「肉によって生まれた者は肉です。同じように、御霊によって生まれた者は霊です。」霊は新しく生まれなければ、死んだものと同様です。新しく生まれなければ、霊の体験はないのです。霊の世界の知識をこえ、体験的に私たちに近づくのです。霊の働きは体験的に私たちの人生とともにするのです。霊の世界で新しく生まれを体験した人は、霊の喜びを感じます。人々は新しく生まれなければならない、と聖書が言ったことを不思議に思ったりします。しかし、不思議なものではありません。

今度、私は研究のためアメリカの東海岸をワシントンから北上しながら、アメリカの誕生の地、ボストンまでの旅をしました。その間、私は強い聖霊の働きを感じました。特に、信者のコミュニティについて真剣に考えるたびとなりました。また、私が新生の体験をしていた「主はキリスト」の告白をこれだけ真剣に心から告白することも初めての経験でした。私の人生に主・イエス・キリストが働いていることをこれだけ真実に受け入れることも初めての経験でした。私の人生が主の御力によって包まれていること、計画されていること、これからの人生にも深く関与していることも、真実に受け入れることができました。日本に宣教師として派遣された理由も、これだけ美しい家族を持つようにしてくださったことも、神様のお約束の創世記12章1-2節の実現であることを改めて悟るようになりました。長崎にアブラハムの地を、長崎に祝福の基を、神様を崇め賛美する家族を、選ばれた種族としての基礎づくりを始めたい、気持ちになりました。今もなお、ユダヤ人を支える会堂のように、そのように、教会のコミュニティを作ることを心から決心することができました。人々が集まりイエス・キリストを賛美し、新生を体験する場所として、病んだ人々、苦しい人々が集まり癒しを受け、安らぎを得、ともに喜び、ともに泣き、共に生きるコミュニティを、神様が長崎に作ってくださいますように祈るようになりました。

モーセが荒野で蛇を上げたように、イエス・キリストは十字架の上に挙げられました。それは、イエス・キリストの十字架の死を信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。

イエス・キリストの中で得た新しい命が、世の光として、塩として、用いられますように祈ります。長崎に信者のコミュニティを、長崎に世の光を、世の塩を、多く作ってくださいますように祈ります。長崎大学生の中でイエス・キリストの12弟子が生まれますように、私たちの家族の中に世の光、塩が生まれ、働きますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23