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2012年長崎UBF Ten Step 4thメッセージ --> 問題紙

人間の罪と神様の愛

Messenger:MSN.David

御言葉:創世記3:1-24
要節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

今日の礼拝の内容はあの有名な「失楽園」についてです。失楽園とは聖書が人間の実存について説明したもので、多くの哲学者が人間の様子を説明するときに題材にしているものです。人間は楽園を好むが楽園を失い、ついには一つのつぼに収まる程度の土に戻ってしまいます。神様がそんなにも喜び、感動していた人間ですが、また、エデンの園を設け、その主人公として立てられた人間ですが、なぜ、人間は楽園を失い、ついには土に戻る悲惨な存在に転落してしまったのでしょうか。

聖書は人間がその楽園への回復の道について語っています。今日の御言葉を通して人間の実存について、また、神様の中にある希望について学ぶことができますように祈ります。 第一に、惑わす誘惑者サタンの存在。

1節の御言葉をご覧ください。さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾でありました。蛇は、全世界を惑わすサタンを指すものです。惑わすもの、蛇が狡猾な姿をもって女に近づきました。そして言いました「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

この御言葉は創世記2章16と17節の言葉を引用しています。神様はエデンの園にある木の実について、どんな木からでも思いのまま食べてよいと許可されました。しかし、ひとつだけ、善悪の知識の木から採って食べることを禁じされました。アダムとエバは園の中央にあり、いつでもすぐに目につく善悪の知識の木を見るたびごと、神様を思い出すことができました。また、神様を敬う被造物である自分自身の本当の姿を失うことがありませんでした。神様は人間のためにすべての木の実を与えただけでなく、園の中央には善悪の知識の木を置かれ、神様の存在と自分自身を失うことのない最高の環境を作られました。

しかし、蛇は神様の戒めを歪曲させました。蛇の話はこうです。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女はこの話を聞いて、「全然、とんでもない。園のどの木からでも思いのまま食べてよいのです。リンゴ、パイナップル、ブドウ、パパイヤ、マンゴ、バナナ、キウイ、クリ、ナシ、カキ、ミカン、レモンなど数え切れないほどあるあのおいしい果実を私たちは食べるのです。しかも、中央には神様を思い出す善悪の知識の木を置かれたのです。善悪の知識は神様のものだからです。」と答えるべきでした。

しかし、女はどのように答えましたか。彼女は神様がそれを食べてはならない、それに触れてもいけないと話しています。誘惑を受けた女は、すべてが疑いの目に変わりました。神様が食べてはいけない、触れてもいけない、近づいてもいけないと言われた気がしました。神様になにげなく反発感が生じてきました。サタンの誘惑を受けた女は、また、神様は必ず死ぬという厳しい言葉も代えて、「死ぬといけないからだ」と思うようになりました。その瞬間をサタンは見逃しませんでした。4節と5節をご覧ください。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

神様が園の中央に善悪の知識の木を置かれたのは、人間と神様との間のしっかりした秩序を置かれるためでした。また、善悪の知識は人間に与えられてない、神様の領域にあるものであることをはっきりしていました。しかしながら、サタンは神様の本来の目的を歪曲させ、人間を心を高ぶらせました。なんと、人間が神様の位置にまで座ることができると考えるようにしました。

人間は限界のある存在であることを忘れてはいけません。人間が神の形に作られていても、万物の霊長としてその姿が優れていても、神様により造られた被造物に過ぎない自分自身を忘れてはいけません。人間が高慢になり、取ってはいけないものを自分のものにする時、サタンは働き始めます。攻撃を始めます。それで箴言の16章18節にはこう記録されています。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」聖アウグスティヌスも高慢を指し、罪の根こそぎであると定義しています。心の高ぶりは罪の始まりなのです。私たちがサタンの誘惑を勝ち得る道は一つあります。それは私たちが被造物であること、また、私たちは神様を頼るべき存在であること、を謙遜に認めることです。その時私たちは、攻撃者サタンから自分を守ることができるのです。

第二に、人間の堕落。

しかし、女はサタンの話を聞いて、自分が神様のようになろうとしました。神様のお言葉に基づく判断よりも自分の理性的な判断を優先しました。すると、女が心を高ぶり、園の中央にある善悪の知識の木が神様を思い出すものではなく、食べるのに良いもの、目にしわ指しく、賢くするような木の実に見えました。以前は、善悪の知識の木を見るたびごと、神様の存在と神様の愛と、神様の命令と尊厳について考えていました。神様を賛美し、喜びました。しかし、今、彼女は自分自身が被造物であることを忘れてしまいました。女は神のようになろうとする欲望に燃え始めました。手を伸ばし、その実を採って食べました。そして自分も食べ、一緒にいた夫にも与えて食べさせました。その目的は、神のようになろうとすることでした。彼女は神のようになりましたでしょうか。心が高ぶった彼女の状態は神様のようになりましたか。

彼女は、羞恥心と恐れにさいなまれる存在となりました。

アダムとエバが神様が禁じていた善悪の知識の木を取って食べた時、目が開きました。善悪が分かるようになりました。しかし、神様のようになりませんでした。むしろ、自分自身の羞恥心と恥ずかしさにまみれた、自虐行為を始めました。荒れ果てた心と体のために死にたくなるほど苦しみに包まれました。エバが禁じられた木の実を取って食べて得た知識は羞恥心でした。今もなお人類を苦しみに落とされてから得た知識でした。

箴言の記者は真の知識について、1章7節で次のように語っています。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」人間は神様の御言葉に聴き従い、善悪の知識を神様に任せて、神様に頼り、そのお言葉から知識の根本を求めるべきです。そのとき、神様は私たちに喜びと賛美の道に導いてくださいます。私が自分の知識と力に頼り子どもたちと接するときには喧嘩が絶えませんでした。しかし、主を恐れ、その知識を優先すると、子どもたちも神様の導きに成長することを感じるのです。主を恐れることが知識の根本になるべきです。神様を恐れることが知識の根本です。

人間は人間互いの関係性を失いました。

11節から13節を見ると、神様が彼らのしたことを問い詰めると、アダムは女のせいにしました。女は蛇のせいにしました。だれも、私の過ちですと、告白しませんでした。アダムとエバはこれ以上愛する関係にならず、お互いに不信感に満ちた関係、お互いのせいにする関係に転落してしまいました。神様を認めないと、この世の中は人にせいにする世界になってしまいます。みんなが、父と母のせいで、夫のせいで、妻のせいで、子供のせいで、日本のせいで、アメリカのせいで、ヨーロッパのせいでと不信感を募るばかりです。これが神様を認めない世界の実存であり、隠せきれない本当の姿です。しかし、私たちが神様を認め、善悪は神様のものであり、人間は被造物であることを悟り、生きているとき、私たちは人間本来の姿に変わるのです。心の奥底から喜びと賛美がわいてくるのです。これが人間の本来の姿であることを認めるのです。

第三に、あなた方は、どこにいるのか。

アダムがいるべき場所は、神様の前でした。神様の前に出て神様とお話をし、神様が与えて下さった使命を果たすべきでした。神様が与えて下さった仕事に感謝し、専念すべきでした。神様を賛美し、仕事をしてはぐっすり休み、また、お腹がすいたらおいしい果実を自由に取って食べることができました。しかし、アダムは今、神様を離れていました。神様を認めませんでした。神様の存在も神様の関与も、人生に神様がすべてかかわっていることを否定していました。すると彼は恐れの人、心配の人、神様を知らぬ人、神様に反発する人の立場に座っていました。どんなことも神様により成り立っていることを認めない彼は神様の敵対した立場に座っていました。そのようなアダムに神様は言われました。「あなたは、どこにいるのか。」

どんな姿であっても、素顔で神様の前に出てきなさい、という意味です。

出てきたら赦してあげようとする神様の御心が込められています。イザヤ書はその神様の御心を次のように記録しています。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。(55章1-3節)」

私たちが神様に聞き従う時、私たちは生きるようになります。神様の存在を認め、神様が今の私に関与していることを悟る時、私たちは良いもので満たされるのです。元気づけられます。生きるようになります。イエス・キリストを、そのお約束の通り十字架に付けられ、私たちをサタンの仕業から完璧に拾ってくださいました神様の愛を信じるとき、私たちは救われ、永遠の命に導かれるのです。

15節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これは、神様がサタンの頭を踏み砕くとのお約束です。救い主を送ってくださるとの約束です。救い主、イエス・キリストへの約束の言葉です。しかし、その過程で女の子孫である救い主、イエス様もかかとにかみつかれる苦しみにあわれることを予言しています。イエス様はこのような罪の問題を解決するために、その身に苦しみをお受けになりました。イエス様は十字架の上で、私の罪、私の体に染みついた罪を背負うために、苦しまれました。十字架の苦しみは罪の代価でした。しかしながら、イエス様は十字架の死後、復活をもってサタンの頭を踏み砕きました。これをもって、人間を罪から、死亡から、完璧に解放して下さいました。イエス・キリストの十字架の下で、人間は本来の姿に戻されました。イエス・キリストの中で、私たちは本来の楽園、本来のパラダイスを回復するようになりました。サタンの言葉を聞いているところに失楽園が存在したように、イエス・キリストのことばを受け入れるところに、パラダイスを回復して下さいました。イエス・キリストの十字架の恵みを賛美します。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23