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2012年長崎UBF Ten Step 3rdメッセージ --> 問題紙

エデンの園、神様が与えられた楽園

Messenger:MSN.David

御言葉:創世記2:4-25
要節:創世記2:8「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」

神様はこの世をおつくりになり、また、すべてのものを造られました。山も、海も、宇宙も、星も、月も、植物も、動物の猫も、ライオンも、、、神様がおつくりになった自然は素晴らしく、完ぺきな調和に包まれています。最後に、神様は創造の傑作品として人間を作り、これらすべての創造物の上に君臨する存在とされました。今日はこの、人間の創造の詳細を記録しています。特に、今日の御言葉の中には、エデン、つまりパラダイスの記録を残しています。人間のための最高の場所、素晴らしい町の記録です。なぜ、モーセはこの楽園、エデンの記録を残したのでしょうか。

第一に、天と地を神様がお造りになったからです。

最初造られた天と地は形がなく、何もありませんでした。ガスに満ちた天と地は原子と分子の世界でした。形もなければ様子もない、目には見えない姿でした。神様は言葉で、これらの分子と原子の世界が分かち合えるようにして、形を作られました。光ができ、陸が現れ、空間と空が広がりました。太陽や星が作られ、今のような形が出来上がりました。しかし、全能な神様がこの地と天を作られた時、地には, まだ 一本の灌木もありませんでした。人間がいない世界に、人間の生活にかかわらない樹木は必要でありませんでした。もちろん、まだ 人間が食べれる一本のおいしい野の 草も 芽を 出してない状態でした。神様が作られた天と地の状態は、ただ, 霧が 地から 立ち 上り, 土地の 全面を 潤していました。

北海道の釧路湿原を行ったことがありますが、まるで、この説明がそれにふさわしいものでした。霧が湿原の下から立ち上がり、湿原の全面をうるおしている、釧路湿原は、湿地ですが、すべての生物や動物が過ごしやすい栄養豊かな自然環境を作り上げていました。神様が作られた地上の世界は、世界自然遺産として指定された鹿児島の屋久島のようなところを想像したら少しはイメージできるかもしれません。命のパラダイスが展開されていたのでした。

第二に、神様が魂の存在人間をお造りになったからです。

完璧な環境が用意されました中で、神様は創造の最後の作品、人間を形造られました。土地の塵を材料に、造られた人間は、土に戻る成分で、かたち造られました。動物も同じ日に造られたので、同じような形で作られました。しかし、聖書は人間には特別な部分を追加されました。聖書はこう記録しています。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」動物も生き物ですし、私たちが食べる食材も生き物と言っています。生きている間が新鮮ですし、生きている時、食材はおいしいし、魚もうまいです。イセエビを隣で料理をし、身を掘り出して、まだ動いている身を醤油につけて口にすると、感動の味が口の中に広がります。まだ、生きているイカやタコを食べると、吸盤が口の中をくっつき、かじりながら食べるおいしさがあります。その身から出てくる肉汁のジューシな甘みはなんとも説明できないおいしさがあります。生きているのはおいしいものです。

聖書には人間についても「そこで、人は、生きものとなった。」と記録しています。これは動物か生きているものを説明するときの「生き物」とは違った意味があります。聖書には「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」とした後、「そこで、人は、生きものとなった。」と説明しています。人間が生きているとは神様がその鼻に吹き込まれて、神様の息が存在するときのことを指すのです。ヨハネの福音書3章6節を見ると、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とあります。人間は霊によって生き物となった特別な存在です。神様の息によって生き物として存在するようになった、特別な存在なのです。神様の息がご一緒する特別な存在です。それで人間は文明とは切り離されて生きているジャングルの未開人も、神への願いと礼拝、祈りを持っています。いくら頭の良いチンパンチも、人間のような祈り、魂に求める礼拝様式はないのです。

肉によって生まれた者は肉です。ライオンやおらんうたんと同じく、犬や猫と同じような肉です。動物の属性だけなら、人間は動物です。しかし、人間には神様の息が存在する、特別な存在です。御霊によって生まれた者、これが霊です。人間は神様の息があるとき、人間らしい生き物としての正しい姿が現れるのです。人間には動物のように腹を満たし、疲れをとるために熟睡し、体の快楽を満たしても、それだけでは満たされない部分があります。人間には神様の息が存在するからです。神様の魂が存在するからです。神様がご一緒する魂が、満足できない時、私たちに人間には真の喜びや幸せを得ることはできないのです。それは、「神である主が、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」からです。

神様の息、御霊による霊の喜び、これが動物とは違った人間だけに存在する生き物の姿なのです。神様は魂の存在、人間のために東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。神様は魂の存在、人間のために園を設けられたのです。土地の状態を見ると、「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」を生えさせました。見る喜び食べる喜びが満ち溢れていました。また、園の中央には、いのちの木、それから善惡の知識の木があり、いつでもいのちの木を食べていのちの喜びを自分のものとし、善と悪の知識から守られ、幸せを維持する環境を受け取っていました。水が豊富な川がこのこの園からスタートしており、園の全面を潤していました。しかも、この園には良質の金があり、宝石で包まれていました。色を変えない金、形を崩さない宝石は、美しさを増します。神様が造られたエデンは人間のパラダイスでした。

第三に、エデンの園から幸せの条件を垣間見れるからです。

神様はエデンの園がもっとも幸せになるために、幸せを維持する条件として、こう言われました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善惡の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と。これは彼らが幸せを維持できるものとして、善悪の知識の木を見るたびごと思い出される、主人・神様を忘れないことでした。聖書は人間の幸せの条件として、神様がこころに存在すること、神様を認め、神様を知る知識が幸せの根源に流れていることを、条件としていました。神様を知らないとき、主人である神様を忘れて生活するとき、人間には真の幸せがなく、高慢に満ちたカリスマが存在するのみです。神様の座に座り、恐怖と心配性にさいなまれる悲しい存在に転落してしまうのです。善悪の知識も神様の領域として守られました。時代によって変わる善悪の判断は価値観を混乱させるためです。善悪の判断は神様の御に属する特別な権威なのです。それを被造物の人間が持ってはいけないのです。人間がそれを持つその時、人間は死を迎え入れる悲しみに落とされるのです。

18節「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい 助け手を造ろう。」神様は一人としての人間を作りませんでした。人間は一人でいるのはよくないことを知っておられました。神様は人が一人ではなく、二人で、三人で、しかも、男と女としての人間の幸せを、創造されました。人は男と女で、一緒になるとき、幸せがあるように造られました。不思議です。神様の傑作品、これが夫婦ですし、男女関係です。幸せーの絶頂でもあります。神様が足りない私を憐れんで下さり、神様の与えて下さった幸せを守る力を下さいますように祈ります。子供たちにもこの幸せが与えられますように祈ります。私たちに一人でいる人々に家族を、集会の喜びを、集まりの幸せを感じさせてくださいますように祈ります。

19節、「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて來られた。」神様は人間が神様が与えられた仕事をする幸せをも、与えられました。神様の仕事をし、幸せにぐっすり眠った時、神様があばら骨を取るのも忘れているほどぐっすり眠っているとき、女を作り上げたのでした。神様は仕事も、また、女と男の幸せも、同じ程度で造られました。私たちが神様が願っている仕事をするとき、幸せです。男女間の幸せを仕事で感じることができるのは、神様が使命を、また男と女をおつくりになったからです。男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一體となりました。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思いませんでした。恥ずかしさのない幸せが男と女の間に満ち溢れていました。隠すことのない夫婦の姿は幸せの絶頂です。すべてが見えても、短所が見えても、恥ずかしくないと思う、むしろ補っていこうとする夫婦の姿、これこそ幸せの絶頂です。それを神様がおつくりになられたのです。神様の中にいる夫婦はこの幸せを享受するのです。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23