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2012年、SBC主題講義1(ルカの福音書15章) --> 問題紙

まだ家までは遠かったのに

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御言葉:ルカ15:11-32
要 節:ルカ15:20「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」

今回の修養会のタイトルは「新しい出発」です。韓国のある有名なサッカー選手がチームや移籍問題などに苦しみました。彼はこう話しています。「もし、わたしが高校サッカー選手時代に戻るのなら、自分を顧みながらまったく新しい道を歩んでみたい。可能なら「新しい出発をしたい」と言いだしたのです。私たちもた、もし一年前に戻れるなら、若い時に帰れるなら、と思ったりします。新しい出発を夢見るのです。「新しい出発」は歳に関係なく、私たちの心をわくわくさせる力があります。

ルカは「新しい出発」が人々の喜びであり、神様の喜びでもあるとしています。神様の喜び、これは人にとって一番幸せな状態を指します。「新しい出発」は神様と私が和解した状態、幸せな状態になることです。どのようにすれば私たちは神様と和解する「新しい出発」が可能でしょうか。私も、皆さんも、この集会を通して、新しい出発を始めましょう。

15章の前半部で、イエスは「罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人に勝る喜びが天にある」と教えています。銀貨一枚、一匹の羊を例に挙げて、悔い改めの喜びが神様の喜びであると教えています。悔い改めの必要のない九十九人の正しい人の姿はどんなに美しいことでしょう。彼らが静かに放つ光と美しい香りはどんなに素晴らしいことでしょうか。日本各地の、多くのキャンパスで、多くの職場で、家庭で、祈りを持って生きている人々の姿はどんなに素晴らしいことでしょう。聖書の教えに従って黙々と生きている信者たちの姿はどんなに私たちに喜びをくれるのでしょう。しかし、それに勝る喜びがあると言っています。それは今、「心を改めること」です。神様と和解をすることです。父親と和解をすることです。今日は、私とみなさんが、心を改めて、神様と和解し、父親と和解する、喜びに包まれますよう祈ります。

1.息子の心、罪人の心

11節からの御言葉をご覧ください。イエスはもう一つの例えを話されました。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」

私たちはこの例え話を聞くとすぐ、弟息子の様子が何となく思い浮かびます。性格が温良優順でなく、自分のことしか考えない自己中の姿です。この息子は父親のところが大変窮屈に思えたのです。自分なりの夢がありましたし、自分の人生の計画もありました。しかし、考えてみるとお金がなければ何も始まりません。お金が必要になった時、彼は父親の財産が目当てとなりました。父親は大変な金持ちだったようでした。そこで、彼は次男としての権利を主張して、財産の分け前を要求しました。彼の狙いは計画通りに進み、父親から身代を受け取ることができました。この身代を金に換えて、夢の町、遠い国に旅立ちました。遠い国とは、父親から遠い国を指します。父親の目が届かないところ、父親の影響がないところです。がみがみ言わない静かなところ、自分勝手にできる場所に次男は旅立ちました。彼は自分を信頼していました。自信もありました。手元に金さえあればすべてがOKでした。自分を信じて気合いで出発した彼は、何もかもが自信にあふれていました。聖書は彼が放蕩したと記録しています。父親の目に触れない環境の中、彼は放蕩するようになりました。放蕩とは体の思いのまま、欲求のまま生きることを指します。酒にも口を出して、金目当ての遊女たちとも遊びました。こんなことしていいのか、と心配もありましたが、彼はしばらく、やりたい放題で過ごそうとしました。しかし、このような生活はあっという間に財産と時間を浪費してしまいました。身代としてもらっていたお金は湯水のようになくなってしまいました。

14節をご覧ください。弟息子は何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、食べるにも困り始めました。人生がこんな展開になるとは思いもしませんでした。そこで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせました。彼は遊ぶのに夢中で、その国の言葉がうまく話せなかったようでした。彼にふさわしいバイト先は言葉が通じない豚の世話をすることでした。豚の世話人になった彼はお腹がすいて、豚の食べるいなご豆で腹を満たそうとしました。しかし、豚にはいなごまめが用意されましたが、雇い人のためのいなご豆はありませんでした。金になる豚には食事が用意されましたが、豚の世話をする雇い人のためには食事はありませんでした。彼は人間扱いは、ともかく、豚扱いもされませんでした。ルカはその様子を「だれひとり彼に与えようとはしなかった」と表現しています。彼は人生のどん底に陥ったのです。

有る詩人は「私の人生は、この私に酒いっぱいつげてくれなかった」とのエッセイを発表しました。彼は人生の成功と美しき未来が自分のものと思っていました。美しき未来のため投資し、人生の成功のため我慢し、努力しました。しかし、夢見ていた人生設計図面と違って、彼の人生は不発に進んでいるように見えました。思った通りに進まない人生を見つめながら、彼は「私の人生は、この私に酒いっぱいつげてくれなかった」とつぶやきました。詩人の心の深い悲しみ、さびしさがこのタイトルに現れています。

オーストリアの精神科医、心理学者の一人で、ヴィクトール・フランクルという人物がいます。彼は子どもの頃、一つの疑問がありました。人は必ず死ぬ。そうであれば、何のため生きるのか。彼はこの謎を解くために、精神科医の道に進みました。ウィン大学の医学部に進学し、精神医学を学びました。そして精神科医師として患者さんを見ながら、小さい頃のあの疑問が人間にとってとても大切な問いかけであることに気がつきました。精神科医として、生きる意欲を失った人々のために生きる、夢と希望がありました。しかし第二次世界大戦中、彼はユダヤ人であるがためにナチスのアウシュビッツ強制収容所に送り込まれます。そこで、ナチスから人間としてではなく豚以下の扱いをされます。そこで彼は、人間というのはここまで残酷になれる生き物であることを体験します。アウシュビッツの中には生きていても仕方がないと嘆く人々、拷問に耐えきれず、自殺を図る人々、死を目の前にして精神分裂状態になっている人々がありふれていました。フランクルを含めて、アウシュビッツに収容された彼らこそ「私の人生は、この私に酒いっぱいつげてくれなかった」とつぶやく人々です。

弟息子の人生も、しばらく前までは美しき未来、成功と輝きに包まれていました。金持ちの親がいて、一獲千金のチャレンジが可能でした。しかし、スタートしたばかりの彼の人生に訪れたものは悲しみと寂しさ、絶望に包まれた未来でした。豚以下の扱いをされたとき、彼は人間不信に陥りました。この彼にはもう逃げ場がありませんでした。親元に戻りたい気持ちは山々でしたが、親の顔を見る勇気も、兄の前に出ていく自信もありませんでした。いくら見つめても、自分の人生は不運と悲しみに包まれていました。

17-19節をご覧ください。しかし、我に返ったとき彼は、こう言いました。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

イエスはこの例えで、弟息子が「我に返った」と表現しています。本来の精神状態に戻ったことを意味します。弟息子は本来持つべき考え方を持ってなかったのです。しかし、考え方が正常に戻ったのです。精神状態が正常に戻った彼が一番最初とった態度はなんでしょうか。離れていた父のところに戻ろうとした決心でした。そして、「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と決心しました。彼は父を父として敬ってない罪について気づきました。しかし、それ以前に、彼は天に対しても罪を犯したことに気付かされました。天に対して罪を犯したとは何を意味しますか。それは人生訓練を通して、自分が人生の道のりを計画しても、その道を確かなものにするのは自分ではなく、神様であることを悟ったことを意味します。箴言16章9節は次のように言っています。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」弟息子は自分の人生に働いている神様の存在を認めたのです。その時、彼の人生は「我に返った」のです。本来の精神状態に戻ったのです。天に対して、父親に対して罪を認める人となったのです。

加賀乙彦さんがいます。日本の小説家です。東京大学医学部を出た精神医学者の専門医でもあります。彼は「我に返った」ことについて、「科学と宗教と死」という本の中に、自分の体験を交えて説明しています。有る集会の中で聖書について議論していた時、いろんな疑問をお互いにぶつけあったとき、彼は「ファーと我に返った」体験をしたと説明しています。もうこれ以上質問する必要もなく、もうこれ以上疑問もなく、神様の存在が確信に包まれたのです。身体が空中に浮いたような、説明できない幸せに包まれたと記録しています。そして天に向かって、罪人の自分について気がつき、涙が止まらず感激が続いたのです。我に返った時、私たちは神様と和解します。我に返った時、私たちは罪人の自分について気が付きます。我に返った時、私たちは迷っている自分について気が付きます。そこに「新しい出発」が生まれたのです。

1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入った本があります。「夜と霧」という本です。著者は先も紹介していたオーストリアの精神科医、心理学者、ヴィクトール・フランクルです。彼はこの本の中で、ナチスのアウシュビッツの強制収容所の状況を描いています。生きていても仕方がないと嘆く人々、拷問に耐えきれず、自殺を図る人々です。自分自身を含めて、人生のどん底に陥った姿を描いています。その時、フランクルは収容された人々に、そして本を読む読者に向けてこう話しています。「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない」と。「あなたは自分の人生に期待する前に、あなたの人生があなたにどんなことを期待しているのかを見つめなさい」と。天の父を見つめるよう勧めたいのです。私たちが天の父を認めなければ、私たちの人生は渇いているのどが満たされず、いつまでも、いつまでも続く渇きにさいなまれます。私たちはいつまでも自分の人生に期待し続けますが、期待通りに満たされない不満ばかりの人生を過ごすようになります。しかし、神様の存在を認めるとき、私たちは私たちの人生に絶望しない神様について気が付きます。私たちのような人にも、大きな期待を持って見つめ続ける神様について感動を覚えるのです。

私たちが自分たちの人生に絶望しても、神様は私たちに絶望しません。私たちは自分の人生に期待する前に、神様が、私にどんなことを期待しているのかをじっと見つめるべきです。目をつぶって、それを考える時間を持つべきです。神様はこの修養会で、そのような時間を持つことを願っています。

2.父親の心、神様の心

20節をご覧ください。こうして「我に返った」彼は立ち上がって、自分の父のもとに行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。息子は言いました。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言いました。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めました。

ここで、私たちは父親の心、すなわち神様の心について学びます。我に返った息子は父親のところについて目が覚めました。我に返った時息子は父親のところの豊かさについて気がつきました。パンのあり余っている雇い人が大ぜいいる父親のところは何一つ不自由のないところでした。それだけではありません。イエスは例えを持って、父親のところがどんな人でも戻ってくることを待ちに待っているところであると教えています。どんな人でも戻ってくる人のために宴会が用意されていることだと説明しています。放蕩息子のようにわがままで自分勝手な人生を過ごし、遊女におぼれて親の財産を使い果たしてしまった人でも、何の条件も付けず、ありのまま受け入れてくれるところであることを教えています。

もうひとつ、彼が発した言葉に注目します。『私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。』彼は天に対して、また父親に対して、罪を犯したと告白しています。息子の大きな変化は罪の自覚でした。そして具体的に、その罪を告白しました。彼は、犯罪を起こしたり、人を殺したり、人をだまし取って利益を得ようとしたものではありません。しかし、彼は何の罪を犯したのでしょうか。何の罪を悔い改めたのでしょうか。

世の罪は国の憲法や規定に逆らう行為を指します。同じように、聖書での罪は神様の戒めに逆らう行為を指します。走る列車に向かい突進すると即死します。当たり前です。同じように、神の戒めに逆らい、向かって突進する行為が罪であり、即死を招きます。聖書は十の戒めを定めています。十の戒めを簡潔にまとめると、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』です。聖書はこの戒めに逆らい向かって突進する人は罪人であり、その人生が走る列車に向かって突進する人と同じであるとしています。弟息子は自分の夢を愛し、自分の人生を愛しました。しかし、その心に夢の主人、人生の成功の主人である神はいませんでした。神の存在より自分の存在が優先されていたのです。父親の心や兄の心はともかく、自分の計画が優先されていました。しかし、彼は厳しい人生訓練を通して、人生の本当の主人である神様に気がつきました。温かい父親の愛に目が覚めました。彼は罪人の姿に悔み、心を改めました。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」

罪の告白、悔い改めとは、私の人生に関与する神様の存在を認めることです。罪の告白、悔い改めとは、生きておられる神様を敬うことを新たに決心することです。罪の告白、悔い改めとは、自分の世界でごろごろしている癖を捨てて、自分の人生に絶望しない神様を見つめることです。罪の告白、悔い改めとは、自分の人生を夢見ながら描き続けるのではなく、神様が私の尊い人生を通じて描いている神様の人生設計図面を見つめ続けることです。今、神が私に行うようにお与えになったわざを黙々と実行に移すことです。力がない人は祈るべきです。惜しみなく豊かに力を注いでくださる神様を体験することです。父親のところに行って、私たちを見つけ出し、かわいそうに思い、走り寄って自分を抱きしめ、口づけする神様を体験することです。

罪の告白、悔い改めとは、口をあけて、具体的に告白することです。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』

父親はいいました。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』

父親の気持ちというのは不思議なものです。どんなに嫌なことがあったとしても、子どものかわいい姿、立派な姿を見ると辛かった過去は吹っ飛んでしまいます。あの時の悔しさは一体どこに行ってしまったのだろう。これが親心でしょうか。

ところが、25節の御言葉をご覧ください。兄息子は畑にいましたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来ました。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは次のように言ってくれました。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』すると、兄はかんかんと怒りました。そして、家にはいろうともせず、父親の顔を見ようともしませんでした。父親が気づいて出てきて、いろいろなだめてみたが、兄は父の言うことを聞こうとしませんでした。むしろ、兄は父に向ってこうつぶやきました。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

いったい、お父さんは何を考えていたのでしょうか。兄の言い分も理解できます。しかし、父は兄に言いました。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』父親の喜びは兄と弟に平等です。素直な長男にも、放蕩息子の次男にも同じです。しかし、親を最も喜ばせたのは悔い改める次男の姿です。喜びは神様との和解にあり、父親との和解にあったのです。神様との和解は神様を賛美することであり、その願いに素直になることです。自己主張を辞めて、私に期待する神様の御心を見つめることです。神様は私たちとの和解を大喜びで迎え入れてくださいます。大宴会を催すのです。

神様は私たちと和解を望んでおられます。強制するのではなく、心から望んでいます。そして、帰ってくることを待っています。「いいぞ。待ってるよ。」神様は肥えた子牛を用意し、喜びを持って迎える準備をして、言われます。「いいぞ。待ってるぞ。」私たちがこの時間、神様の心、親心に帰ることができますよう祈ります。人生の主人である神様と和解し、平安をもたらし、思った存分、一回の人生、神様の栄光のために働くことができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23