2012年日本UBF新年御言葉第4講 メッセージ --> 問題紙

その中で一番すぐれているのは愛です

Messanger : MSN David.J.

御言葉:コリント人への手紙I 13章1節~13節
要 節:コリント人への手紙I 13章13節「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」

新しいと年、2012年がスタートしてもう4週間目になります。1か月が過ぎようとしています。遅いですが、今年の長崎UBFの要節は本日の言葉、特に13節のことばを持って、一人ひとりが愛について学び、成長する年になることを目標としました。第2週でのこの要節の言葉を持ってメッセージを準備してみましたが、今日は、それぞれの一年の目標を発表する特別な日でもありますので、その深い意味をもう一度吟味してみたいと思っています。

コリント人への手紙はパウロがコリント教会の人々の様々な問題にこたえるために記録した手紙です。パウロがエペソ教会を開拓していたころのAD57年ごろ記録したといわれていますので、パウロの熟した信仰と魂のアドバイスが記録されています。コリント教会には様々な問題がありました。彼らはそれらの問題をパウロに手紙で持って相談していました。結婚問題、女問題、偶像、礼拝、賜物、復活、献金問題など、じつにさまざまな問題が彼らの集まりと教会を苦しめていました。教会は人々が多くなれば、人間の集団ですから様々な人間的な問題が浮き彫りになりますが、これらの問題を彼らはどのように解決すればいいのかわかりませんでした。パウロに宛てた相談の手紙に、パウロは一つ一つ取り上げて、アドバイスをしています。

そのアドバイスの特徴として、ひとつ大事なことは、基本ベースに「イエス・キリスト」があることです。パウロはこの手紙を書く前半のところでこう、記録しています。「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(2章1節から5節)」パウロはコリントの教会を「キリスト・イエスの御名によって」開拓しました。パウロは彼らに手紙を書いていますが、その手紙にも「イエス・キリスト」が濃厚に表れています。パウロが伝えた福音は私たちの罪のために十字架に付けられ、殺され、死なれ、三日目によみがえられた方、大能によって神の御子として示された方「イエス・キリスト」でした。

パウロはコリント教会を、人間の知恵や説得力ある言葉で作ろうとしませんでした。パウロは御霊と御力によってコリント教会をたてました。コリント教会はパウロによらず、御霊と御力により開拓されました。その中に働いているのはキリストの御霊、キリストの御力でした。しかしながら、彼らの中には異言の言葉を話しているとか、御使いの異言で話しているとし、自慢していました。彼らにはイエス・キリストが現れるのではなく、体のほこりや知識、知恵を誇っていました。パウロは彼らに、こうアドバイス始めました。

13章1節から3節、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」私たちは異言を話す人々を尊敬したりします。御使いの言葉を話す人もそうです。預言する人、奥義を知り、知識に富み、山を動かすほどの信仰があればいいなぁ、と思います。知識に富んでいる人、能力のある人々を見ると、軟弱な自分の姿が映し出され、劣等感にさいなまれたりします。私たちは異言、御使いの異言、預言、あらゆる奥義を持つ人になりたがります。山を動かす信仰の力、あらゆる知識に富んだ人になりたがります。コリント教会内部の問題はこのような人間社会の問題の縮小版でした。パウロはしかし、彼らにとても大事なことを教えようとしています。それは、異言や預言よりも、あらゆる奥義を持つことや知識に富むことよりも、さらに山を動かすほどの信仰よりも大事なことです。それは「愛」です。パウロは愛がすべての基礎であり、愛がすべての根本に必要であるとしています。愛がないのなら、すべてのものは無駄になり、すべてのものは崩れ去ってしまう建物のようです。それでパウロはあらゆる能力と力、知識、知恵、優れた信仰の基盤に「愛」が必要であるとしています。

それでは、愛は何でしょうか。4節から7節には愛について次のように記録しています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」懐が広く、親切な人がいます。人の悪口を言わず、誇ったり、高ぶったりしない人がいます。礼儀に反することはせず、自分の利益を求めず、怒りに遅く、悪いことをした人の行為を思い出さず、不正なことより真理を喜ぶ人、このような人々のことを指して、愛の人といえるのです。我慢強く、信頼深い人、人々を期待の目で見て、忍耐強く仕事をこなす人が愛の人です。

私たちの周りにはこのような人々がいるのでしょうか。特に、間近にいる人で、家族で、上司の中で、友たちの中に、このような人が見つかるのなら、それは幸いなことです。たまにはそのような人を見つけることができます。すぐれた人格者です。しかし、そのような人も身近なところからみると不親切な部分が見え、人の悪口をするときがあります。しかも、私たちが親切だと思う人、愛の豊かな人だと思う人も、彼自身は決して、愛の使者であるとは自分たちの口から言えません。愛がないことを誰よりも知っているからです。韓国には愛の原子爆弾と言われた人がいます。ソン牧師です。彼は自分の息子を殺した人の里親になり、彼の面倒を見たのです。しかしながら、決してソン牧師は自分が愛に満ちていると言えなかったのです。人は誰でも、自分を見つめてみれば見るほど、愛のなさに嘆きます。ふところが狭く、いつも自分の利益が先に見えてくるのです。人は誰でも、自分の愛のなさに嘆きます。パウロは預言も、知識も、優れた賜物も、この愛がなければ何の役にも立ちませんし、値打もないと言っています。いったい、私たちはどこからこの愛を手にすることができますか。どのようにして、どんな努力をすれば私たちは愛の豊かな人になりえますでしょうか。

預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。永遠なものはないのです。時間とともに変わりゆくのです。預言も、異言も、知識もすたれます。しかし、愛は決して絶えることがありません。パウロは言っています。いつまでも残るものは信仰と希望と愛ですが、その中で一番すぐれているのは愛です、と。

いったい、私たちはどこからこの愛を手にすることができますか。どのようにして、どんな努力をすれば私たちは愛の豊かな人になりえますでしょうか。パウロはこの愛をイエス・キリストにたとえています。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれるように、今、私たちはイエス・キリストを鏡にぼんやり映るものとして見ていますが、その時にはイエス・キリストを、顔と顔とを合わせて見ることになります。今、パウロはイエス・キリストの一部分しか知りませんが、その時に、パウロが完全に知られているのと同じように、完全に知ることになります。其のキリスト・イエスは愛の象徴なのです。神様の愛の結晶なのです。罪人を救うために神様は大事なひとり子を世にお渡しになられたのです。神様の子供として、御子として、仕えられるはずの方が、仕える模範を示し、しかも、その命をも惜しまず、ささげられたイエス・キリストは愛の象徴なのです。愛、そのものを教えてくれます。

私たちの人生にイエス・キリストの痕跡がなければ、知識も預言も、異言も知恵も、役に立たないものになります。やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。しかし、人生の根底にイエス・キリストの救いがあり、その愛の痕跡が刻まれるのなら、知識も知恵も、異言も預言も役に立ちます。この世を照らす光となります。

私は今日のメッセージを準備しながら、愛が豊かな人になる秘訣を学びました。それはイエス・キリストについての知識が成長することであり、イエス・キリストそのものから感動を受けるべきであることです。なにより、イエス・キリストの能力を体験することであり、その御名を人生の基礎にかたく置くべきであることです。パウロがコリントの教会を開拓するときに、自分の人間的な知識や知恵にたよらず、イエス・キリストのみ頼り続けていたように、わたしも新しい新年、2012年、イエス・キリストのみ頼り、その中で成長し、イエス・キリストの御名を表すための努力を続けることが、愛を学び、その中で成長することであることを悟りました。

神様から与えられる力が愛です。これは私が神に叫ぶ時に得られます。神様の前にひれ伏すときに得られます。罪人である自分自身を告白し、神様にすべての権限があり、力があることを100パーセント信頼し、完璧に任せて、神様の前に跪くときに得られます。霊的な力は神様のものだからです。永遠にすたれることのない愛は神様のものだからです。愛は人間的なちっぽけな能力をはるかに超えて、私の人生を動かし、世界を動かし、この地球全体、宇宙全体を動かす力、イエス・キリストです。その愛の力があれば、私たちは日本のキャンパスの人々を助けることができます。その人たちをキリスト・イエスの弟子として得ることができます。神様による霊的な力が臨めば、私たちは神に祈ることができますし、彼らを育てるとか、彼らを弟子にするとかの、彼らをけなす言葉や偉そうな言葉を口にせず、彼らとともに成長し、彼らの人生に神様の栄光を取り戻すことができます。

これらの愛の回復を、私自身から、祈りを持ってスタートしなければいけないことを悟ります。瞬間瞬間、神に祈る習慣をつけるべきであることを悟ります。神に頼ることを習慣づける必要があることを悟ります。私自身の霊性を、愛の力を回復すべきであることを悟ります。私自身、神様の愛の力、栄光に包まれる必要があることを悟りました。私の家族に愛の霊性が戻り、神様の栄光に包まれるために、私はどれだけ軟弱な自分の姿を認めていたのか、どれだけ神に頼るために祈っていたのかと反省する必要があります。私が仕えるキャンパスや羊たちの為に、どれだけ祈りの叫びをしていたのかと反省し悔い改めるようになりました。何よりも、私に主の愛の力、愛の栄光が、家族に主の愛の栄光が、隣人に主の愛の栄光が、そして、日本の学生たちに、日本の人々に主の愛の栄光が現れるように祈りが必要であることを悟りました。

新しい年、祈りの年になりますように祈ります。新しいとし、叫ぶ年になりますように祈ります。何より、新しい年は愛の霊性を、キリストの霊性を取り戻す年になりますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23