2012NewYear01qq

約束の地を探らせよ

David J.

今日の御言葉を通して、神様の願いを耳にすることができますよう祈ります。

神様がカナンの地を探らせたのはなぜでしょうか。神様は私たちが信仰により与えられた仕事を、与えられた使命を行うことを願っておりますが、しかし、ただ信仰のみではなく戦術を持って、与えられた仕事、与えられた使命を全うすることを願っています。神様はそのお呼びになった人々に使命を与えられますが、その使命が全うされることを願い、その使命の地、与えられた仕事を探らせたのです。孫子の兵法の中でも、百戦百回の勝利のためには私を知り、相手を知る必要があるのです。私が与えられた仕事、与えられた使命を探ることはその意味で、とても大事なのです。神様が与えられた使命は勝利のためにご用意されたものだからです。しかし、最も大事なことは「霊的な目を持つこと」であると、パクダビデ牧者は言っています。なぜなら、戦いは神様に属しているからです。

モーセが12の指揮官たちにカナンを地を探らせたのは神様が約束した地の美しさを体験し、意欲的にその土地を手にするために取り組ませるためでした。この言葉は、神様がアブラハムに約束していた地を連想させます。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」カナンは偶像崇拝が蔓延し、悪霊に取りつかれた人々により悪霊が力を得ている土地でした。堕落した文化により人々は力を失っていました。神様は私たちがこの地を登りえて、征服し、その地を所有するだけでなく、その地に神の国が臨むことを願っています。

私に約束の地カナンはなんでしょうか。それは私の体であり、私の人生そのものであり、少々地境を広げて見れば、私の妻、子どもであり、友人であり、隣人です。更には私の職場であり、私の仕事そのものです。神様が私に約束として与えてくださったカナンは私そのものです。そして、UBF教会が目指している大学生たちの畑であり、世界のキャンパスです。

十二名の指揮官のうち、2名の指揮官はその知の果物を見せながら言いました。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」しかし、後の10名の指揮官は言いました。「その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」カレブは「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言っていましたが、彼らは更に言いました。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言いました。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と。なぜ、こんなにも意見に差が出たのでしょうか。

一つ、彼らは神様からの初恵みを忘れていました。

彼らは奴隷生活から自由人になりました。彼らは紅海が分かれるのを見ていました。彼らは岩からわき水が出るのを確認していました。夜は火の柱で、昼は雲の柱で、彼らの前を指揮している神様を間近にしていました。彼らは両目で彼らを追いつけてきた兵士たちが水葬していることを確認していました。彼らはこのような初の恵みを忘れていました。これを忘れた時、彼らは元のところに戻ろうとしました。奴隷生活が良かったのだとつぶやいていました。

一つ、恐れを克服して、約束を信じる信仰が求められました。

府へ不満を言い出す人々と違って、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言いました。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」この言葉の中で、私は二つのことばに恵みを受けました。それはヨシュアとカレブが彼らに訴えたのは、恐れてを克服することであり、私たちとともにおられる主を背いてはいけない、ということです。信仰の戦いは恐れとの戦いです。パウロも恐れを克服できずに御業があまりないテモテにこう言っていました。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」テモテはおく病の霊より、神様がいつもくださる力、愛、慎みの霊をもっと真剣に考え、優先し、思い出すことを願っていたのです。その時に、主の手を通して神様の御業があり、主の栄光がその人生を通して行われることを確信していたのです。

もう一つ、ダビデ牧者のメッセージを聞きながら、私は100パーセントの信仰、ということばに恵みがありました。信仰は100パーセントを求めます。99.99999%ではなく、100パーセントの信頼を求めます。信仰は神様がおられることを100パーセント信じることです。信仰は神様が必ず、私たちの信仰生活を報いてくださることを、100パーセント信頼することです。私はメッセージを聞きながら、神様は100パーセントの信頼と信仰に必ず応えてくださるのだと、本当に思うようになりました。しかし、100パーセントの信頼ができないのはなぜでしょうか。恐れがあるからです。恐れは悪霊の声です。恐れはサタンの声です。恐れは神様のものではありません。神様が私たちに与えてくださったものはおく病の例ではなく、力と愛と慎みとの霊のみなのです。

一つ、霊的な戦いで勝利することです。

UBFが大変な時期、今回の御言葉の方向性を決めたとするA.T.K宣教師はこんな話をしていました。「今の私たちの何が問題ですか。」これに対して「霊性の問題ですね」と。「私たちは一人一人、霊性を回復すべきですね」と。霊的な力とは何でしょうか。神様から与えられる力です。私たちが叫ぶ時に得られます。神様の前にひれ伏すときに得られます。神様にすべての権限があり、力があることを100パーセント信頼し、完璧に任せて、神様の前に跪くときに得られます。霊的な力は神様のものだからです。霊的な力は人間的なちっぽけな能力をはるかに超えて、私の人生を動かし、世界を動かし、この地球全体、宇宙全体を動かす力です。その霊的な力があれば、私たちは日本のキャンパスの人々を助けることができます。その人たちをキリスト・イエスの弟子として得ることができます。神様による霊的な力が臨めば、私たちは口を挙げて、彼らを育てるとか、彼らを弟子にするとかの、彼らをけなす言葉や偉そうな言葉を口にせず、彼らとともに成長し、彼らの人生に神様の栄光を取り戻すことができます。

私はメッセージを聞きながら、これらの回復を、私自身から、祈りを持ってスタートしなければいけないことを悟りました。一日三回、夜明けの祈りをスタートすべきであることを悟りました。私自身の霊性を回復すべきであることを悟りました。私自身、神様の栄光に包まれる必要があることを悟りました。私の家族に霊性が戻り、神様の栄光に包まれるために、私はどれだけ祈っていたのかと反省するようになりました。私が使えるキャンパスや羊たちの為に、どれだけ祈りの叫びをしていたのかと反省し悔い改めるようになりました。何よりも、私に主の栄光が、家族に主の栄光が、妻に主の栄光が、隣人に主の栄光が、そして、日本の学生たちに、日本の人々に主の栄光が現れるように祈りが必要であることを悟りました。

新しい年、祈りの年になりますように祈ります。
叫ぶ年になりますように祈ります。
霊性を取り戻す年になりますように祈ります。

Paul K.

神様は約束の地を与えてくださいました。

Banaba K.

西日本での教会が建てられることを夢見ている。
祈りを持ってスタートする一年、長続きできませんでした。
吹田での神様の願いを確実に保つことができますように。

Daniel J.

地を探らせよ、と言っています。
霊的な闘争を、これからも励みます。

Stephan C.

霊的なところで、霊性を回復すること、これが私に与えられた使命
キャンパスに於いて主の御業に仕えるチャンスはこれから、、、

Abraham N.

重荷となり、負担となっています。回復の為に休むこと。
裁いている時が多くありました。宣教師の献身がどれだけ人間的だ。
宣教師を厳しく見る、自分を批判的に見る人々の心を受け入れず、、、
西日本の支部長としての御業に仕えることができない、、、
誰の為の修養会なのか、この修養会がだれのため?--> SHOCK !!


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23