2012年日本UBF新年御言葉第1講 メッセージ --> 問題紙

約束の地を探らせよ

Messanger : MSN David.J.

御言葉:民数記 13章1節~14章25節
要 節:民数記 13章2節「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」

神様が今年は、民数記の御言葉を持って始めるように導いてくださいました。民数記は旧約聖書の最初に登場する「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」の本来は一冊となっていたモーセが書いたとする書物の中に属するものです。簡単にその内容を見て見ると、創世記は人類の起源について記録していますが、それは現代の科学が目指す神の存在を認めないことからスタートする立場ではなく、神様の存在を認めたうえで調べた人類の起源と行方について記録しています。ですから、創世記には①神様が私を含めた宇宙をおつくりになられた方であること、②神様と人間の関係が破壊されたのは人間の罪の為であり、③神様は一人アブラハムを通して人間と和解しようとする愛の主、であることを記録しています。出エジプト記はエジプトの奴隷であったイスラエルの民たちを出エジプトさせる内容です。いよいよ、神様はアブラハムとの約束を実行に移し、彼らの神となり、祝福の民族を作り上げたのです。そして三番目のレビ記は神様の民としてどのように神をたたえ、礼拝すべきであるのか、どのように生きるべきであるのかを記録した規定書のようなものです。ユダヤ人たちはこの部分をとても大事にして、特別に扱っていたようです。ユダヤ人をユダヤ人らしく、イスラエルの民として色づけたのは礼拝の様子を記録したレビ記によるのです。四番目の民数記、これが今年、私たちに与えてくれた聖書ですが、名前が民数記となっているのですが、イスラエルの民がシナイ半島で暮らした時の荒野生活を記録したもので、荒野生活記録、というのがもっともよいタイトルのようです。具体的には神様に反抗する人たちは知恵があるように見え、自分らしい姿をもっているようですが、結果的に見れば神様の祝福から遠ざかる人生を生きているのです。そのような人々の記録が民数記にはなされていて、反抗せずに、神様への信頼を持った人々がついに手にするカナンの地、祝福の地、約束の地を手にした内容を記録しています。その中には神様の忍耐と導き、イスラエルの民の為の訓練等が記録されています。最後の申命記はモーセの説教集です。その意味で、新約聖書の中で一番たくさんの引用がなされたのが申命記です。大事なところですね。

さて、今日、礼拝に持ってきた御言葉は民数記、イスラエルの民の荒野での生活記録ですが、特に、今日の部分はイスラエルの民たちがエジプトを出発して約1年2ヶ月間、最初の定着地であったシナイの荒野から生活を整理し、約束の地、カナン(正確に言えば、カナンに行く前の定着地モアブに向かう、40年間の荒野生活になる)に向かうための動きが始まったところです。1年2ヶ月間、イスラエルの民はシナイの山から律法を受け取り、礼拝を捧げる聖幕と呼ばれる、今でいえば教会の創りについて学びます。そしていよいよカナンに向かって出発をするのです。今日の御言葉はそのスタート地点に立っているところを記録しています。神様はイスラエルの民の指導者モーセに言われます。「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」

第一に、神様は約束の地、カナンの地を探らせたのです。

神様が約束の地・カナンの地を探らせたのはなぜでしょうか。神様は私たちがいくべき信仰の地に行くこと、神様により与えられた仕事を行い、与えられた使命を実行することを行うことを願っておりますが、その前に、信仰の地を見て、喜び、楽しみながら、戦略を立てることを願っています。ただ信仰のみではなく戦術を持って、与えられた仕事、与えられた使命を全うすることを願っています。神様はその民に、お呼びになった人々に約束の地を、使命の地を与えられますが、その地での使命が全うされることを願い、その使命の地、与えられた使命の仕事を探らせています。

孫子の兵法の中でも、百戦百回の勝利のためには私を知り、相手を知る必要があると言っています。私が与えられた仕事、与えられた使命を探ることは、その使命を全うする上でとても大事なのです。神様が与えられた使命は勝利と喜び、全うすることを目的にしています。そのためにご用意されたものだからです。特に、最も大事なことは選ばれた人々、信者たちに与えられた約束なので、人間的な考えより、「霊的な目を持つこと」が大事です。なぜなら、信者たちにとってすべての戦いは、それが人間的なものであれ、霊的なものであれ、すべて神様に属しているからです。

モーセが12の指揮官たちにカナンを地を探らせたのは神様が約束した地の美しさを体験し、意欲的にその土地を手にするために取り組ませるためでした。この言葉は、神様がアブラハムに約束していた地を連想させます。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」神様が約束としたカナンは偶像崇拝が蔓延し、悪霊に取りつかれた人々により悪霊が力を得ている土地でした。人間を破壊し、破滅させる堕落した文化により人々は力を失いがちです。神様は選ばれた人々がこの地を登りえて、征服し、その地を所有するだけでなく、その地に神の国が臨むことを願っています。悪霊が力を得るところではなく神の霊がそのちを治めるところにしてほしいと願っています。

私たちに約束の地カナンとして与えられたはなんでしょうか。それは私たちの体であり、私たちの人生そのものです。私から言えば、私の妻、子どもであり、友人であり、隣人です。更には私の職場であり、私の仕事そのものです。神様が私に約束として与えてくださったカナンは私そのものです。そして、UBF教会が目指している大学生たちの心畑であり、世界のキャンパスに生きている、学んでいる知性人たちの心畑です。これが私に与えた約束の地、カナンです。これらを探ること、中身を調べること、その特徴、内容を熟知することを、神様は願っているのです。

さて、十二名の指揮官はモーセの命令に従い、カナンの地を探りました。そのうち、2名の指揮官はその地の果物を見せながら言いました。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」しかし、後の10名の指揮官は言いました。「その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」カレブは「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言っていましたが、彼らは更に言いました。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言いました。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と。なぜ、こんなにも意見に差が出たのでしょうか。

一つ、彼らは神様からの初恵みを忘れていました。

彼らは奴隷生活から自由人になりました。彼らは紅海が分かれるのを見ていました。彼らは岩からわき水が出るのを確認していました。夜は火の柱で、昼は雲の柱で、彼らの前を指揮している神様を間近にしていました。彼らは両目で彼らを追いつけてきた兵士たちが水葬していることを確認していました。彼らはこのような初の恵みを忘れていました。これを忘れた時、彼らは元のところに戻ろうとしました。奴隷生活が良かったのだとつぶやいていました。

もう一つ、恐れを克服してなかったからでした。

新しい地へ不満を言い出す人々と違って、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言いました。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」この言葉の中で、私は二つのことばに注目することができます。それはヨシュアとカレブが彼らに訴えたのは、恐れてを克服することであり、私たちとともにおられる主を背いてはいけない、ということです。信仰の戦いは恐れとの戦いです。パウロも恐れを克服するように、その愛する弟子テモテにこう言っていました。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」テモテはおく病の霊より、神様がいつもくださる力、愛、慎みの霊をもっと真剣に考え、優先し、思い出すことを願っていたのです。その時に、主の手を通して神様の御業があり、主の栄光がその人生を通して行われることを確信していたのです。

もう一つ、私たちは100パーセントの信仰が求められます。信仰は100パーセントを求めます。99.99999%ではなく、100パーセントの信頼を求めます。その時に、信仰の力が発揮されます。信仰とは神様を100パーセント信じることです。100パーセントの信仰とは神様がおられることと、必ず、私たちの信仰生活を報いてくださることを、100パーセント信頼することです。私は新年メッセージのときに、このメッセージを聞きながら、神様は100パーセントの信頼と信仰に必ず応えてくださるのだと、本当に思うようになりました。しかし、100パーセントの信頼ができないのはなぜでしょうか。恐れがあるからです。恐れは悪霊の声です。恐れはサタンの声です。恐れは神様のものではありません。神様が私たちに与えてくださったものはおく病の例ではなく、力と愛と慎みとの霊のみなのです。

最後の一つは、霊的な力がないからです。

UBFが試練の時、大変な時期、A.T.K宣教師はこんな話をしていました。「今の私たちの問題は霊性の問題です」と。「私たちは一人一人、霊性を回復すべきですね」と。霊的な力とは何でしょうか。神様から与えられる力です。私たちが叫ぶ時に得られます。神様の前にひれ伏すときに得られます。神様にすべての権限があり、力があることを100パーセント信頼し、完璧に任せて、神様の前に跪くときに得られます。霊的な力は神様のものだからです。霊的な力は人間的なちっぽけな能力をはるかに超えて、私の人生を動かし、世界を動かし、この地球全体、宇宙全体を動かす力です。その霊的な力があれば、私たちは日本のキャンパスの人々を助けることができます。その人たちをキリスト・イエスの弟子として得ることができます。神様による霊的な力が臨めば、私たちは口を挙げて、彼らを育てるとか、彼らを弟子にするとかの、彼らをけなす言葉や偉そうな言葉を口にせず、彼らとともに成長し、彼らの人生に神様の栄光を取り戻すことができます。

私はメッセージをかきながら、これらの回復を、私自身から、祈りを持ってスタートしなければいけないことを悟りました。一日三回、夜明けの祈りをスタートすべきであることを悟りました。私自身の霊性を回復すべきであることを悟りました。私自身、神様の栄光に包まれる必要があることを悟りました。私の家族に霊性が戻り、神様の栄光に包まれるために、私はどれだけ祈っていたのかと反省するようになりました。私が使えるキャンパスや羊たちの為に、どれだけ祈りの叫びをしていたのかと反省し悔い改めるようになりました。何よりも、私に主の栄光が、家族に主の栄光が、妻に主の栄光が、隣人に主の栄光が、そして、日本の学生たちに、日本の人々に主の栄光が現れるように祈りが必要であることを悟りました。

新しい年、祈りの年になりますように祈ります。
叫ぶ年になりますように祈ります。
霊性を取り戻す年になりますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23