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2012年長崎UBF ルカの福音書 第9講 メッセージ --> 問題紙

りっぱな信仰

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書 7:1-17
要 節:ルカの福音書 7:9「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。『あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。』」

今日の御言葉にはイエスが認めた信仰人が登場します。しかも、この人は伝統あるユダヤ人ではなく、異邦人でした。信仰の家系でもなければ、信仰人を見て育ったわけでもありませんでした。しかし、この人の信仰を見て、イエスは驚いたのだとルカは記録しています。イエスを驚かせた信仰人、彼はいったいどんな信仰をお持ちだったのでしょうか。彼はその信仰により何を体験したのでしょうか。

1節をご覧ください。イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた、とあります。イエスはカペナウムに入る前、耳を傾けている人々にお話をしていました。人生が洪水になり、川の水がその人の家、その人生に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしない人について話をしていました。どんな人がそのような人生の営みを送ることができますか。イエスは、神の御言葉を勉強している人だとしていません。神の言葉を聞いている人だとしていません。イエスは神の言葉を、聞いて実行する人が、人生に川の水が押し寄せても、びくともしない人生の営みを送るとしています。心に響く言葉を聞いて終わるのではなく、心の板に記録し、思い起こし、その言葉を人生のバロメータとして生きている人の人生は実を結びます。詩編を見ると、その人の人生についてこう記録しています。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

カペナウムに入られたイエスはある百人隊長に出会いました。百人隊長とはローマの兵士で、100人の部下を指揮いる隊長を指します。ベンハーという映画を見ると、百人隊長たちはユダヤ人の敵であり、攻撃の対象です。町を歩くと二もも、護衛兵を連れて歩くほど、百人隊長はいわばユダヤ人のテロの対象だったのです。このような百人隊長ですが、この人には重んじられているひとりのしもべがいました。彼はこのしもべを大事にし、とても愛していました。しかし、そのしもべが病気にかかりました。日に日に弱まり、もう死にそうになりました。百人隊長は、力を尽くして、このしもべを治してやりたいと思いました。しかし、その病状は変わりませんでした。そのある日、百人隊長はイエスのうわさを聞きました。イエスのお力を耳にし、みもとにユダヤ人の長老たちを送りました。そして、しもべのために懇願しました。ユダヤ人たちはイエスに言いました。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」懇願するユダヤ人たちのお話を聞いたイエスは、彼らといっしょに百人隊長の家に行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えました。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」百人隊長は異邦人でした。ローマ兵士の百人隊長にまで上り詰めた彼には人間の罪深さ、ずる賢さ、隠された闇の世界を理解していました。彼には自分自身、聖なる神様の前に立つ資格がないことを知っていました。彼には神様を敬う心はあるものの、罪人の自分自身についても痛感していました。そこで、百人隊長は聖なる方の前に堂々と出て、お願いする勇気がありませんでした。ユダヤ人を通してお願いし、更には友人を通して、言葉を伝えました。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」

しかし、百人隊長には一つ確信がありました。それは、神様の言葉には権威がある、ということでした。そこで、重い病気に苦しむしもべのために懇願しました。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」その根拠が何でしょうか。8節をご覧ください。「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」これを聞いて、イエスは驚かれました。そして、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われました。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

イエスが驚いたりっぱな信仰はどんな信仰でしょうか。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」これを見ると、イエスを驚かせたのは、神様のお言葉の権威を信じる信仰です。彼の軍隊の経験から体得した、ことばの権威を、彼は神の言葉に適用していたのです。神の言葉を頂ければ、重い病気のしもべもきっと治ると信じていたのです。神の言葉を頂ければ、病気さえも、恐る恐る退かれると確信していたのです。百人隊長にとって神の言葉は権威ある神様の命令だと確信していたのです。百人隊長が兵士に『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来るのなら、しもべたちにに『これをせよ。』と言えば、そのとおりに実行されるのなら、神の言葉はその通りになると確信していたのです。

創世記の御言葉を見ると、神の言葉があり、その通りになった、との言葉がつづられています。例えば、1章3節には次のような言葉があります。「神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」神様の命令は実現そのものです。神様の命令があれば、すべての環境が整えられ、作られ、動かされます。神様の命令があれば、自然の力も従います。聖書を見ると、神様の命令があれば、波も風も突風もやみます。神様の命令には想像を絶する権威があるからです。

私たちは生きている間、さまざまな苦しみ、悲しみ、人生の壁にぶつかります。どうすればいいのか、わからず、悩む時があります。重い病気に苦しむ人もいます。打開できない難題に頭を悩ませる人もいます。学校の勉強、お仕事、子育て、職場の問題なの、実に様々なことが私たちを苦しめ、悩ませます。しかし、今日の御言葉を見ると、神様のお言葉をいただくこと、これが解決の糸口であることが分かります。神様のお言葉をいただくと、道が開かれるのです。イエスを驚かせた信仰は結果を残しています。10節を見ると、「イエスに使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」とあります。

私たちは誰でも様々な問題に直面してます。これは避けられない、人生の生き方です。だれ一人、悩みのない人はいません。しかし、神様の言葉をいただく人は、このような問題を乗り越える、空に飛び上がるわしのような力を手にした人です。ある青年は今年度、ヨハネの福音書17章4節を祈りの中から頂きました。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」彼はこの御言葉を見ながら、イエスさまが十字架の道を、少しも揺さぶられることなく、まっすぐに突き進んだように、そのように、神様が与えてくださったこと現在の仕事を直視して、黙々と歩くことを決心しました。家族のこと、会社のこと、友人のこと、同僚のこと、教会のこと、神様の御言葉のことなど、現在与えられたことが主の使命であると信じて、一つも逃げることなく、成し遂げる決心をしました。彼がもし、頂いたこの言葉に沿って、揺さぶられることなく、神様が行わせるためにおあたえになったわざを、成し遂げるとき、神様はその人生を元気に引っ張ってくれることでしょう。その人生を通して、美しい人生の実を結ぶことでしょう。悩みの種を吹っ飛ばしてくれることでしょう。御言葉をいただいた人の幸せを感謝します。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23