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2012年長崎UBF ルカの福音書 第7講 メッセージ --> 問題紙

十二人を選び、使徒と名づけられたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書 6:1-19
要 節:ルカの福音書 6:13「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」

今日の御言葉はイエスが12名の弟子を選び、彼らに「使徒」という名前を付け、彼らと生活を共にする弟子養成のスタート時点について記録しています。イエスの弟子養成はどのようにしてスタートしたのでしょうか。弟子養成にはどんな意味があるのでしょうか。今日の御言葉を通して弟子養成の意味を探ってみたいと思います。

1節をご覧ください。ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときでした。イエスは弟子たちと一緒に麦畑を通っておられましたが、その弟子たちはおなかがすいていたのか、麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていました。少なくともイエスを含めて、12名を超える弟子たちが麦畑に立って麦の穂を手でもみながら、麦の穂を食べている姿は、安息日に禁止となっている脱穀をしているかのように見えたことでしょう。2節、すると、あるパリサイ人たちがこのような様子を見て言いました。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」と。パリサイ人にとって安息日は耳飾りの重さまでも気にしているほどでした。彼らは安息日にしてよいこと、してはいけないことを細かく分類して、安息日を徹底して守っていました。そのような彼らからして、イエスとその弟子たちは安息日に、麦畑でしてはならない脱穀行為をしていたのでした。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」

すると、イエスは彼らに答えて言われました。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」これは彼らが尊敬してやまない「ダビデ」もお腹がすいているときには、祭司以外に食べてはならないと律法に定められているパンを食べたこと、また、その行為が許されていたことを、彼らが絶対視している聖書が記録として残している個所です。律法は神様をもっと愛しようとすることから生まれたもので、神に属するがゆえに与えられる「命」を守るための規則です。ですから、この律法のために神様からの「命」が損なわれることは許さないものです。神様を愛している「命」持ちのダビデとその連れの者たちは、律法の基準より尊重すべきであり、神を愛し、弟子となった人々が安息日にお腹の空腹を満たすことは、許される行為でであるというイエスさまの主張でした。神を愛すること、神様との愛の関係が先であって、それが守り防ぐための律法が先ではないのです。大事なのは神様を愛する心であり、神様を敬い、優先する真心なのです。それを守るための律法が神様を優先し、愛するダビデを縛り上げることはできないのです。

イエスは続けて、次のように言われました。「人の子は、安息日の主です。」これは安息日の主が「律法」となっているパリサイ人たちの過ちを指摘しているものです。安息日の主は神様であり、イエス・キリストなのです。神様のことを思い起こし、イエス・キリストに祈りを持って近づく日です。神様の見守りの中に生きていることを感謝し、すべての日においてイエス・キリストの関与を感謝する日です。神様が私たちの生活と踏み出す一歩一歩に光を照らし、私たちの一言一言の言葉にも関与していることを信頼して、感謝する日です。安息日の主人は神様であり、イエス・キリストであり、聖霊なのです。それを守りきれない人々のための律法が、安息日の主人ではないのです。

このようなパリサイ人の癖は、別の安息日にお現われました。6節をご覧ください。イエスは会堂にはいって教えておられました。そこに右手のなえた人がいました。右手のなえた人とは、右手が使えない人のことを指します。何らかの形で右の手が使えなくなり、両手を使う人々の中で、彼は常々、劣等感にさいなまれていたはずでた。この人は右手が使えない悲しみと劣等感から解放されるべき人でした。しかし、そこにいた律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日にこの人を直すかどうか、じっと見ていました。安息日かどうかとは関係なく、右の手がなえた人はいやされるべきでした。一日も早く、その人の心は寂しさと悲しみと劣等感から解放されるべきでした。しかし、律法学者やパリサイ人からすれば、そのような右手のなえた人の心よりも安息日を守る規律がもっとも大事でした。どんなにひどい病人がいるとしても、安息日には病院の門を閉めるが当り前であると考えました。どんなにひどい病人も、日曜日は治療に当たらない、とする医者の行為が彼らの中では褒められていました。しかも、彼らはこの律法を利用して人を訴える口実を見つけようとしていました。彼らにはもはや神を愛すること、神様の導きを仰ぐこと、神様を優先することより、律法の文言を利用して、自分たちの利益と満足感を得ようとする、ただの律法の商売人でした。

私たちは律法の商売人でないと自信もって云い張れるのか、という質問に私は正直に、ハイとは言えません。守るべき律法が私たちにはあり、習慣と言い伝えに囲まれています。どうすれば、私たちはこれらの縛りと律法の商売人ではなく、ダビデのように神に許された神のものとなれるのでしょうか。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」というマタイの声に耳を傾けるべきです。まず第一に、神の国を、その義を、求めるべきです。それがこころから実行できれば、私たちはダビデのような神に認められた人として生きることができるのです。

8節を見ると、イエスは彼らの考えをよく知っておられました。イエスは常々、彼らのこのような姿に対して指摘し、正しい信者としての姿を求めていましたが、まったく聞く耳を持っていませんでした。それで、イエスは手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われましたた。彼らの目の前で、安息日なのに、堂々と右手のなえた人を治そうとしました。するとその右手のなえた人は、起き上がって、そこに立ちました。イエスは人々に言われました。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と質問しました。そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。そのとおりにすると、何と彼の手はみるみる、元どおりになりました。彼らの目の前で、信じられない奇跡が起こりました。右手のなえた人は体も、心も治療されました。安息日ではあったものの、イエスの働きに、右手のなえた人は彼らの目の前で癒されました。彼に安心感と喜びが包みこまれました。この姿を見て、彼らは律法にこだわっていた自分たちの姿を悔い改めるべきでした。胸を叩きながら自分たちの盲目となった姿を改め、新しい考え方を教授してくださった神様を賛美すべきでした。しかし、11節をご覧ください。「すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。」とあります。彼らはイエスを訴え殺す気に燃え上がりました。このように逆切れをする彼らにはもはや、希望がありませんでした。彼らにはもはや訴えかけるほどの価値も見受けられませんでした。この重苦しい状況を、イエスはどう対処されましたか。

12節をご覧ください。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」とあります。イエスは安息日のことで律法学者やパリサイ人たちとぶつかった後、ある日、切なる夜明け祈りを捧げました。イエスは重苦しい心境を神に訴え続けました。どうすればいいのかと、神にその方法を求めていました。神様の願いはどこにあるのか、何が神の願いなのかを探り続けました。どうすれば、彼らに神に仕える正しい道を教えることができるかと苦慮しました。その切なる祈りで、夜が明かされました。夜明け祈りに明け朝、イエスは弟子たちを呼び寄せました。そして、その中から十二人を選び、彼らに「使徒」という名をつけられました。すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダでした。

「使徒」と名付けられ、はじめられた「イエスの弟子養成塾」は12名でスタートしました。イエスは彼らのグループ12名に「使徒」という特別な思いを込めた命名をしました。彼らの選びは特別ではありませんでした。リストを見ての通り、結婚をしたばかりのペテロから、漁師たち、熱心党員のシモン、自己中の頭の早いイスカリオテ・ユダなど、彼らはごく普通の隣近所からも見られる人々でした。優秀な人材の特別試験を勝ち抜いた秀才たちではありませんでした。彼らはわたちたちと同じく罪人で、失敗に明け暮れる、感情的で、心配性に悩む人々でした。しかし、イエスは彼らに「使徒」と名付けて、彼らと一緒に暮らし始めました。彼らを選んだ基準はただ一つでした。彼らが律法学者やパリサイ人のようではない、ことでした。律法に詳しく、教会の規律に精通した人々ではない、人々でした。彼らはただ、純粋に全能なる神様を愛し礼拝し、毎日の中でイエスキリストの不思議な力を体験し、助けてくださる方の聖霊を目の当たりにしている人々でした。彼らの願いはただ一つ、主とともにずっと一緒に暮らすことでした。

それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになりました。使徒たちとご一緒でした。イエスは使徒たちと平らにたち、弟子たちや群衆の前に立ちました。そこには、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がいました。彼らはイエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々でした。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいました。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていました。それは、大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからでした。それに比べると、使徒はこのイエスを近くで自ら体験し、イエスがキリストであることを証言する人々でした。弟子たちはその使徒の証言をもとに、第二の使徒、第三の使徒の候補者でした。多くの群れや集まった人々はイエスを体験するために集まっていた教会でした。

以上から、私たちは十二使徒が弟子たちの中でも特別に選ばれた人であること、群衆、病人たちに使えるためにイエスにより選ばれたことを学びます。それ以降も、神様はパウロを、また、その時代ごとに、主はふさわしい人々を使徒として選び分け、群衆、病人たちに仕えています。今の時代も、神様は「使徒」を求めています。使徒を立て、パリサイ人や律法学者たちとは違った、本当の信者を求めています。彼らから群衆に仕え、病人や悪霊に苦しむ人々に仕えさせています。この時代、私たちが律法学者やパリサイ人のようにではなく、純粋に、素直に、神を愛し、イエス・キリストと生活を共にする、新の信者として、使徒として、生きることができますように祈ります。隣人からの群衆、病人に使える使命感を持つことができますように祈ります。私たち一人一人を、使徒としてお呼びになる神の声を耳にすることができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23