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2012年長崎UBF ルカの福音書 第6講 メッセージ --> 問題紙

イエスの御心

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書 5:12-39
要 節:ルカの福音書 5:13「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」

今日の御言葉にはイエスがらい病人をいやすところ、中風を患っている人をいやすところ、取税人レビをお呼びになるところ、そして、断食についてのパリサイ人や律法学者たちとの議論のところが記録されています。この記録を残したのはお医者さんのルカですが、ルカはどのような観点からイエスの病気を治すところを記録として残したのでしょうか。御言葉を勉強しながら、医者として見つめたイエスについて学びますよう祈ります。

12節をご覧ください。「さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいました。イエスを見ると、彼はひれ伏してお願いをしました。『主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。』」13節を見ると、そのように訴える彼にイエスは手を伸ばして、彼にさわりました。らい病人をさわることは、誰でも嫌な行為です。らい病は伝染病で、触るとその人に病気が移る可能性があるからです。しかし、イエスは彼に触りました。そして彼に言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」ルカはその結果について、次のように記録を残しています。「すると、すぐに、そのらい病が消えた。」のだと。

正直なところ、らい病人に近付くことすら、一般の人々には恐ろしいものです。らい病の人を触ると、その病気が私たちにも映るかもしれないという恐怖心があるからです。それ以前に、全身らい病の人が近くにいて、お願いする声を聞いた時、一般の人々はどのような気持ちになったのでしょうか。単純に考えて、全身包帯のような布切れで巻かれ、粘液が包帯の表面上にしみ出ている様子で、近づくことは恐ろしいことです。しかし、イエスは彼に手を伸ばしたのだとルカは記録しています。わざわざ彼に触られたのだと、ルカは表現しています。ルカの記録が嘘でないのなら、イエスは全身らい病の人が近づき、ひれ伏してお願いする声を聞いた時、らい病に対する恐怖心やその様子のため恐ろしさを感じたことより、らい病の彼について深い憐れみに包まれていたことが分かります。それだけではありません。全身らい病のため粘液がしみ出ている彼の体の一部を触ったのです。そして、言われいました。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えたのだと、医者のルカは記録しています。

この様子は医者のルカにとってあまりにも衝撃的な事実でした。特に、当時としては不治の病気と言われていたらい病が、イエスのお言葉一つですぐに消え、完治されていく様子は奇跡でした。お医者さんであるルカは医者として常識的に考えられない奇跡を目の当たりにしていました。しかも、14節から15節を見ると、イエスはその事実を極力広まらないよう注意を払いました。病気を癒す力を宣伝するのが医者さんの一つの活動なのに、イエスはそのような活動はしませんでした。むしろ、その人がらい病人であったために受ける不利益から自由になるための手続きをとるよう助けました。ルカが注目したのはそれだけではありませんでした。16節を見ると、イエスは病気を治してもらうために集まってくる人々と接することより個人的な祈りの生活に専念していました。16節「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」のだと記録しています。

以上のルカの記録を見ると、以下のような特徴を見出すことができます。

一つ、らい病人のお願いの言葉には信仰がありました。

「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」らい病人は全身、粘液に苦しみ、体中のかゆみと戦う毎日の中に、自虐していました。もう治れない病気にかかった人生を恨みながら、死ぬ勇気のない自分自身を自虐していたはずでした。しかし、このらい病人に一つ確かな確信が湧き出ました。それは全能な神様がおられるのであれば、そして、その神様のお心が一つあれば、不治の病気とされるらい病も、どんなにひどい状態の病気も、全身、らい病にわすらった自分自身も、一気にして清くなるという確信でした。らい病人には全能の神様への信仰がありました。

聖書は「信仰」について、神様のおられることと、近づくものには必ず報いてくださる方であるということを信じることだと教えています。全能な神様がおられることを確信することが信仰の基礎です。そして、その方は近づくものに必ず報いを与えてくださることを信じること、これが信仰の確信です。全能な神様からすれば私たちは所詮、虫けらのような人間にすぎません。一秒、一時間後のことも予測できず、津波の前でただただ口をあけて驚いているだけの存在です。人間のがんばりが実を結ぶためにも、神様の関与がなければ無駄です。人間は優れた科学発展の原動力になっていますが、そのひらめきは神様からのものです。人間は神様の前に立つと所詮、かげろうのような人間にすぎません。しかし、聖書は神様が全能な方であると教えています。この世を作り、今もなお時間の管理をされる方であると教えています。ご自分を仰ぎ見る人々の父親となられ、その人生を導かれる方であると教えています。不治の病気をもそのお心一つなら一気に治すことができ、完治されます。この神様を仰ぎ見る人は祝福な人であるとしています。この神様を信頼する人は神の力を見るとしています。神への信仰と願いをやまない人に奇跡が訪れるとしています。私たちが一人一人、この神様の証人(信者)となりますよう、祈ります。

17節をご覧ください。ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていました。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていました。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられました。イエスの教えは病気を治す根源となりました。イエスの言葉が病気を治す力となっていました。するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来ました。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていました。イエスの前に連れて行けば、きっと、中部の病気も治ると信じていました。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つかりませんでした。男たちはなんと、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろしたのでした。彼らの行動根源には、イエスへの信頼と確信でした。イエスの前に連れていくだけでもできれば、中部の病気が治る信仰がありました。このような彼らの信仰を見て、イエスは言われました。「友よ。あなたの罪は赦されました。」と。

律法学者、パリサイ人たちは、このお話を聞いて、理屈を言い始めましたた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」と。その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われました。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」と。イエスはなぜ、病気の人に向けて、「あなたの罪は赦された」と言ったのでしょうか。お医者さん、ルカはなぜ、この事実を記録したのでしょうか。

一つは、中風の病気が罪と関係していることを示すためでした。

体が動けない中風の病気は脳の欠損によるものが多いです。しかし、イエスはこの中風の病気を、罪のためであると診断しました。罪はひとを中風の病人のように体を縛りつけます。そして人に迷惑をかけます。罪の赦しを受けるのなら、中風の人が動き出します。そして、起き上がり歩くようになります。

もう一つは、人の病気の多くの部分が罪によるものであることです。

近年、日本中に爆発的に増えているのが「精神性の病気」のようです。これは先進国と言われる多くの国々が抱えているものですが、その根源には罪の問題は自分の力で解決しようとする人間の傲慢さが潜んでいます。神様からの罪の赦しを素直に受け入れるとき、私たちはこれらの病から立ち直ることになります。健康な体で起き上がり、歩く人生を送るのです。S先生は能力ある方ですが、神様を知らなかった時、中風の病気のような人生を生きていました。生きてはいるものの、死んだような人生の暗いトンネルをくくりぬくしかありませんでした。しかし、神様を受け入れ、知る知識から、立ち直る人生を暮らしています。まさしく、中風の病気から立ち直った人の姿を今に見ているようなものです。罪は私たちは縛りつけます。しかし、神様を認め、罪の赦しを受け入れる人は解放と喜びに包まれます。人に迷惑をかけることなく、健全な人生を生きるようになります。イエスさまは「地上で罪を赦す権威を持っている方」です。

27節から32節には取税所のレビを、33節から39節では断食の規律を守らなかった弟子たちを弁護されるイエスさまが登場します。イエスさまは私たちの弁護人です。イエスさまは私たちの人生を新しくしてくれる方です。イエスさまはわしたちの父であり、母となられます。私たちがイエスさまへの信頼と信仰をますます強めていきますよう祈ります。主よ、私たちに、主への信仰を強くしてください。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23