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2012年長崎UBF ルカの福音書 第4講 メッセージ --> 問題紙

主の恵みの年を告げ知らせるために

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書 4:14-44
要 節:ルカの福音書 4:18-19「「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

今日の御言葉にはイエスが聖霊に満たされてから、どのような形で神の御業に仕えられたのかについて記録しています。

14節を見ると、イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られたのです。40日間、荒野での生活はイエスに御霊の力を浴びせました。40日間、荒野での悪魔の試みは神様への強い決心をもたらし、神の御言葉の意味を深め、心の奥底に神様への愛の告白に満たされました。預言者たちのすべてが分かり、預言者たちのすべての預言が理解されました。すべての預言が貫いた形で理解の糸につながりました。心の奥底から神への賛美と喜びに満たされました。

イエスが聖霊に満たされ、ガリラヤに帰られると、その評判が回り一帯に、くまなく広まりました。イエスは彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられました。その行いと教えには力がありました。それから、イエスはご自分の育ったナザレに行かれました。ナザレでも、いつものとおり安息日に会堂にはいり、神の御言葉を巻物、つまり聖書から朗読しようとして立たれました。当時の礼拝はどのような順番だったかは分かりませんが、順番に沿って聖書を朗読し、朗読した人のメッセージがあったようでした。17節を見ると、イエスには、預言者イザヤの書が手渡されました。イエスはその書を開いて、黙想しました。神の願いをいただくよう祈られたことでしょう。そして次のように書いてある所を見つけられました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」と。イザヤの御言葉を読み終わったイエスはイザヤの書物を巻き、係りの者に渡してすわられました。読んだ聖書の意味を聴くために、会堂にいるみなの目がイエスに注がれました。すると、イエスは人々にこう言って話し始められました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と。

イエスの言葉は心の貧しい人々に伝えられます。罪にとらわれ、苦しみ悲しんでいる人々に赦免を宣布されます。目の見えない人々、聖霊の意味が分からず、聖霊の働きが見えない人々に、イエスは目の開きを与えてくださいます。悪魔の勢力により虐げられている人々には自由を与え、主の恵みに年を告げ知らせてくださいます。

小説家、加賀乙彦さんが、勤めていた上智大学を辞めるまで心入れで、最初の小説「宣告」を発表したときに、遠藤周作が「加賀さんは無免許運転をしているのだ」と、その小説を酷評したそうです。聖霊も知らず、神様への告白の経験もなく、洗礼も受けてない人が、小説の中に霊的な部分の記述をするのは無免許運転と同じだ、というものです。加賀さんはその評価を素直に認め、神父さんにお願いをし、四日間、缶詰の質問バトルつまり、修養会を計画し、たまには子どものような、心の中の素直な質問を、聖書について、神様について、聖霊について、悪霊について繰り返したそうです。その都度、質問に答える神父さんの真剣さもあり、加賀さんは手ごたえがあったようですが、三日目に、ある質問をしながら加賀さんは不思議な聖霊の体験をするのです。もうこれ以上質問をする必要もなく、今までのすべての質問がすべて理解されたかのような不思議な理解力が頭の中に広がり、もう、十分な満足感にさらされ、喜びと不思議な力の助けに踊り、まったく別世界にいるような、体験をするのです。加賀さんはその体験を「科学、宗教、そして死」という著書の中に生々しく証言しています。まさしく、虐げられている人々に自由が、主の恵みが告げ知らされることが、このようなものなのだと私はこの本を読みながら感じ取りました。

イエス・キリストが来られたのは、そのためです。イエス・キリストを受け入れる人には赦免の喜びに包まれます。両目が広がり、聖書が理解できます。イエス・キリストの御名を受け入れる人々には悪霊の勢力からの自由、虐げられている状態からの解放の宣言を体験します。1985年、金川辺でのUBF修養会の時、私は四日間、缶詰で、神の御言葉を勉強しました。ほとんど嘘のような語りが続く聖書の内容は、私にとって不思議な書物でした。友人に連れられ通った教会の人々は素直で美しいでしたが、聖書は全くのウソが書かれているのだと思うところがありました。人々はやさしいのですが、聖書は理解しきれませんでした。しかし、四日間の缶詰め状態の修養会が終わってから、私は目が開かれました。アンナにうそつきの話だった聖書の言葉が真実に見え始めました。深い理解力が広がりました。喜びに踊らされ、強力なパンチになり、私の心を打ち砕き、涙ボロボロの後悔と悔い改めをもたらしました。何の意味もわからなかった賛美の声が喜びに包まれる音になりました。イエス・キリストが私の主、私のキリストです、と単純に告白した私に、聖霊の働きが訪れたのです。

22節を見ると、イエスについて「この人は、ヨセフの子ではないか。」と、人間的に考えた人々はイエスに『医者よ。自分を直せ。』と、カペナウムで行なわれたことを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言いました。まことに、預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。エリヤの時代もイスラエルには多くのやもめがいましたが、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときにも、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。受け入れる人々は救われます。しかし、受け入れない人々は裁かれるのです。私たちが一人一人、真剣に、イエス・キリストの主として、キリストとして受け入れることができますように祈ります。そして、一人一人、神の力により虐げられたところから自由になり、賛美の声を上げることができますように祈ります。私たちが一人一人、イエス・キリストの御名の力によりお約束の実現を体験し、イエス・キリストの証人となりますように祈ります。

ルカは4章31節から44節まで、ガリラヤの町カペナウムに行き、どのような活動をされたのか記録しています。イエスはまず、人々を教えられました。その教えには権威がありました。悪霊に疲れている人々を助けられました。熱病に苦しむシモンの姑を直してくださいました。悪霊にものを言うのを許しませんでした。イエスさまには権威があり、悪霊を追い出し、制止する力がありました。ルカは42節で、イエスの権威と力の根源が祈りにあることを教えています。42節「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」と。群衆はイエスを探し回るほど、さびしいところでの祈り生活に専念しました。そのイエスには権威がありました。イエスの祈りは神の国の福音を述べ伝える根源となりました。力となりました。

私たちがなにはともあれ、祈りに専念できますよう祈ります。私たちがなにはともあれ、朝の祈りに力を注ぎますよう祈ります。私がまず、祈りに専念し、権威を取り戻し、聖霊に満たされる生活をしますように祈ります。神様の願いと導きに沿う人生を取り戻すことができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23