Counter: 1034, today: 2, yesterday: 1

2012年長崎UBF ルカの福音書 第3講 メッセージ --> 問題紙

人はパンだけで生きるんではない

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書 4:1-13
要 節:ルカの福音書 4:4「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」」

今日の御言葉にはイエスが神の子として祝福されたのち、聖霊に満たされたイエスが直面する御霊による試みです。この中、イエスご自身は御霊による試みをどのように対処したのか、ルカは詳述しています。ルカの注目はイエス・キリストの対応であり、その中に現れる深い教訓とメッセージです。今日はそのメッセージを耳にしたいと思います。

1節をご覧ください。さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから故郷に帰られました。聖霊に満たされたのち、故郷に帰られらイエスは色んな思いがその胸の中を飛び散っていたことでしょう。イエスはこのわくわくする、不思議な喜びと賛美の声に満ち溢れた旨の中、以前とは違った引き締まるような気持ちを、どう整理していくのか考えていたことでしょう。その時、御霊に導かれて荒野におりました。聖霊に満たされたイエス、聖霊の導きに従って荒野での心の整理を計画していました。個人的に計画していた修養会でしょうか。ルカはこのイエスの心の整理のための荒野への誘いと導きが、御霊であることに注目しています。「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり」という言葉からも良く理解できます。

御霊はお呼びになった人々、洗礼を受けた人々、バプテスマにより心の中で神への信頼と信仰を告白し、心を改めた人々の人生に関与されます。そして、その人生を細かく、きめ細かな導きで誘導されます。信者はこの導き手を感じる必要がありますし、その導きに沿って歩むときに一番ベストの人生を暮らし切ることができます。世の中で計画されました神様からのプレゼント、人生そのものを楽しむことができるのです。イエスは荒野で、神様の導きに満たされていたのです。

その導きの間、イエスは特に、四十日間、悪魔の試みに会われた、とあります。悪魔の試みに御霊は導かれたのです。御霊は悪魔の試みにイエスをさらけ出されたのです。ルカはこの悪魔の試みに対処したイエスの姿に注目しています。御霊は悪魔の試みの中で処理できる模範をお示しになられたのです。そのお姿がどうでしょうか。

第一に、空腹の試みです。

2節の後半部をご覧ください。「その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。』」おなかがすいている状態は人間にとって本能が働く瞬間です。体の命を維持するための本能が働き始めるのです。四十日間、何も食べず、気力が失いつつあるときに、何とかしてパンを作る必要性を感じていました。体を維持するために働く本能でした。その時に、イエスは答えられました。4節「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」と。パンを優先するか、神の言葉を優先するか、の選択の岐路に立った時、イエスは神様からくる言葉を優先したことをルカは記録しています。ルカの記録によればイエスの正しい選択は、パンよりも神様の言葉であり、おなかを満たす以上に、神様の言葉による喜びと満足感を優先したことになります。それが人である、とのイエスさまの選択であり、ルカの結論です。

パンによる満足感、食事をとった時の「食った、食った、食った」と自然に出てくるおなかが満たした満足感を、それ以上に、神様の言葉から感じ取るべきものであるとしています。神様の言葉から来る満足感と喜び、神様の言葉から得られる充満した感覚と何とも言いようのない充実感、これが人が神の子なら、生きるための第一条件であり、空腹を満たす喜びはその次に選ぶべきである、とイエスは教えています。

神の子は神様によって選ばれた人々、神を父とする信者を指しているのであれば、なおのこと、信者は言葉による喜びと賛美、心に満ちた充実感を神様の言葉から感じ取るべきであります。逆にいえば、神様の言葉から私たちは食事から得られる満足感と命をつなぐエネルギー源を、得ることが可能であることを教えています。満足感もエネルギー源も、神の子なら神様の御言葉から得られるのです。朝の祈りが必要なのは、聖書朗読や聖書勉強が必要なのは人は知らない喜びのパンを手にするためであり、神の子なら、そのような食べ物による飽満感を感じ取るべきなのです。神の子の幸せはこのような、人の喜びとは違った部分にあり、事実、神の子供たちを力づける不思議な領域が存在するのです。それはまるで宝石のようです。

第二に、権力の試みです。

5~7節、また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言いました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」と。見える国、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリヤ、中国、日本、南アフリカなど、すべての国々の一切の権力が悪魔の手にゆだねられていること、悪魔の手によって思われた人にさし上げることが許されていることを、悪魔は誇っています。そして、その権力を手にしたければ、自分を拝むようにと誘ったのです。

これに対してイエスはどう答えますか。8節、「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」と、答えています。神の子が受ける誘惑の中で、二番目の誘惑はこの世の権力です。悪魔によって操作可能な権力です。悪魔によって操作可能な権力はもちろん、神様によって赦された範囲の、ごく一部分ではありますが、この世に属している私たちからすれば、その力と輝きは絶大です。しかし、イエスの言葉からしてみれば、神の子たちはその権力以上に力持ちの、その権力の上で働く神様の権力を崇めるべきであることを教えられます。この世の権力と輝きと力がいくら大きくて素晴らしいものであっても、それは神様の権力に比べられないものであり、その権力の上に、その素晴らしい力の上に、更に素晴らしく、力のある神様の権力があることを見つめるべきであることを教えられます。素晴らしい権力、この世のすべてを左右できる力も、私たちが信じている神様によって操作されるものであることを悟り、その神様への感謝と賛美、拝む心をなくしてはいけないのです。権力は神様の座に座ろうとする不思議な力があり、その権力を手にしている人々は神様を否定し、自分が神様の座に座ろうとします。しかし、いくら素晴らしい権力、栄光も、私たちを主である神様から目を眩むことはできないのです。神の子の礼拝の対象者は神様です。権力や力輝かしい見えるものではありません。

第三に、神様の愛についての試みです。

9節、また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言いました。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」この試みは、聖書の言葉への不信であり、本当かどうかを試してみないと分からないとの気持ちを揺さぶるものです。神様の言葉への確信は目に見えない限りなかなか信じきれないものです。トマスも同じく、イエスの復活があまりにも信じきれないものでしたので、その手足に指を差し入れてみない限りでは信じることができないと言いだしていたのです。しかし、イエスはそのトマスにも言っていました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」このような信頼と信仰を揺さぶる試みに、イエスはどう対処しましたか。するとイエスは答えて言われました。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」イエスは神様が試みる方ではない、と断言されました。神様は試して受け入れる方ではないのです。神様の愛は確認してから受け入れるものではありません。その御言葉が事実であることを素直に受け入れるべきであり、その愛への疑いをもつものではありません。「見ずに信じる者は幸いです。」

私たちに見ずに信じる信仰をくださいますように祈ります。私たちに神の注ぎだされる愛への確信を疑うことなく受け入れる信仰をくださいますように祈ります。

さて、13節をご覧ください。「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」とあります。誘惑の悪魔は常に隣り合わせにおります。神様への確信と信頼に基づく恩の世界にいるとき、私たちは悪霊の勢力を追い出すことができますが、しばらく離れるだけで、また、隙間を狙う悪魔はなくなりません。神様はなくならない悪魔を隣り合わせしてくださったのです。それには深い、神様の愛が秘められています。神様の子供としての姿を維持させるためです。ペテロはその手紙で、次のように信者たちを励ましています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」神様は私たちに堅い信仰を求めております。堅い信仰に包まれることを願っています。へブル人への手紙は言っています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」私たちの堅い信仰は、イエス・キリストへの願いと信頼によります。助けてくださるキリストイエスの力を毎日、毎瞬間、体験できますよう祈ります。

イエス・キリストの御力が私たちの人生を力強く導いてくださいますよう、祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23