聖書勉強資料 > ルカの福音書の勉強資料(第24講) > 問題紙
御言葉:ルカの福音書 14章1節~35節 要節:ルカの福音書 13章26-27節
1. 1-6節を読んでみましょう。ある安息日に、イエス様がパリサイ派のある指導者の家で食事をしようとされた時、みんなは何をしていましたか。そこには、どんな病気をわずらっている人がいましたか。イエス様は、安息日に病人を直すことが正しいこと、をどのように説明されたのですか。
- luke 14: 1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
luke 14: 2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。
luke 14: 3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
luke 14: 4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。
luke 14: 5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
luke 14: 6 彼らは答えることができなかった。 --
- 水腫とはリンパ液や体液のバランスが崩れて、患部が異常にむくむ病気。
心臓や腎臓の機能が低下して起こる病気。 --
- 律法の専門家やパリサイ人たちは、安息日では病気を治してはいけない
他の日になおしれもらえばよい、と判断していた
安息日の大切さを重要視されましたが、それより大事なのは人の悩み、悲しみ、病気なのである。 --
- 5節のイエスの言葉は、自分の息子や牛も、安息日だからといってほおっておくのは無い、
安息日より大事なのは、息子の命であり、牛の命な。それなら、水腫を患っている人はどんなに大事な人か --
2. 7-14節を読んでみましょう。イエス様は、招かれた人々のどんな様子に、気づいておられましたか。イエス様は、どのようなたとえを話されましたか。どのような人が高くされますか。また、イエス様は、ご自分を招いた人に、何と言われましたか(12-14)。
- luke 14: 7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。
luke 14: 8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、
luke 14: 9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。
luke 14:10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
luke 14:11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
luke 14:12 また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。
luke 14:13 祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
luke 14:14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」 --
- 人々は上座が好き。何気なく、便利で、良い。良いところ。
しかし、これらの上座は私はこのんで取れるものと思ってはいけない、
美しくて、便利で、良い上座は、与えられるもの、与えられるものが一番の上座
人は与えられた上座に座る時、一番良い。それがどんな座席であっても、与えられた席が一番の上席。 --
- 人にふるまえることのできる人は、その力を持って慈善を起こすべきである。
人にふるまいをセットできる力を持っている人は、その力を自分のために使うべきではない。
そのような立場にいる人はそれで十分な満足がある。十分である。
振る舞いがセットできる人は、自分のためにではなく、悲しい人、さびしい人、病人、脚なえのためにセッティングすべし。
神様はそのような人々を喜びとする。 --
3. 15-24節を読んでみましょう。イエス様の「神の国のたとえ」で、ある人がどんな宴会を催しましたか。招かれた人々が断った理由は何でしょうか。このことをしもべが主人に報告した時、主人はどんな命令をしましたか。ここで、宴会に無理にでも連れて来させようとする主人の心を、考えてみましょう。
- luke 14:15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。
luke 14:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
luke 14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。
luke 14:18 ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
luke 14:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
luke 14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
luke 14:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』
luke 14:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
luke 14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
luke 14:24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」 --
- 神の国で食事する人はどんな人?
招待された人は誰?ユダヤ人?アブラハムの子孫?正式に招待状が出せる人?
イエスは言う、神の国で食事をする人は「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」だと。
また、追加して、無理やりに連れられた人々。どちらかであると。 --
- 神の国は、貧しい人々のもの、不具の人のもの、盲人のもの、脚なえのもの、
つまり、神の国は健全で美しく、立派な人々のところではない、そのような人々はこの世で十分、という意味。 --
4.25-33節を読んでみましょう。イエス様は、どのような人々がイエス様の弟子になることができない、と言われましたか。「塔を築こうとする時」「戦争をする前」に、まず何をするのでしょうか。イエス様の弟子にふさわしい人は、どのような人なのでしょうか。
- luke 14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
luke 14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
luke 14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
luke 14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
luke 14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
luke 14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
luke 14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
luke 14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
luke 14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。 --
- イエスの弟子の条件
1.人間的なつながり、家族、自分の命さえも、憎い存在であることを悟る人。
2.自分が負わなければいけない十字架を直視でき、そこから逃げない人。真正面にぶつかっている人。
3.自分の誇りとなりうる財産たるものを弟子になるために捨てることができる人。 --
5.34-35節を読んでみましょう。塩が、もしその塩けをなくしたら、どうなるのでしょうか。塩がその塩けをなくさないことが大切なことであるように、イエス様の弟子たちはどのような姿勢を保つことが必要であるのか、を考えてみましょう。
- luke 14:34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
luke 14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」 --
- イエスの弟子は、世の塩、世の光
しかし、塩気のない塩、光らない光は弟子でない。
イエスの弟子は簡単でない、単純でない、
上記の条件でもあるように、
- 人間に、また自分に絶望し、
- 自分のやるべき十字架に充実で、
- 神様が願うのであれば、誇りえる財産たるものを捨てることができる人
でなければいけない。 --