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2012年長崎UBF、イースター --> 問題紙

死者の復活

Messenger:MSN.David

御言葉:コリント人への手紙第一、15:35-58
要 節:コリント人への手紙第一、15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

ドナルド・キーン博士、89歳(2012年度現在)、88歳に日本国籍を取得したアメリカの日本文学の大家です。残りの人生は日本人として生きることを決心したのは東日本大震災と原発事故による日本の混乱です。ドナルド・キーン博士にとって国家、国、国籍とは何を意味するのでしょうか。その深い心を知る術も、私にはありませんが、一般に考える国、国家、国籍を超えた深みを感じます。

キリスト教信者にとっても同じく、国、国家、国籍の、一般にはわからない深さが流れています。聖書が教える天の御国は一般からすれば不思議に包まれた国です。見えないもので、分かりづらいです。イエスはこの国について「天の御国はあなたのただ中にある」と教えているのですから、天の御国とは今、私たちの心に存在する神様が治める御国のことを指します。しかし、また「天の御国」は別の意味があることを聖書は教えています。今日は使徒パウロがコリントの聖徒たちに伝えた手紙の中に記録された内容の、まさしく、天の御国についてです。これは別に、使徒パウロの話ではありません。聖書の全般に流れる教えなのです。その内容を調べてみましょう。

パウロの時代、キリスト教信者たちに、人々はこう言う質問していたのです。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」これは死者の復活を指します。当時、キリスト教の信者たちは死者が復活することを確信していました。イエス・キリストがその初穂であると信じました。死者が復活することを一般の人々はあまり考えません。死んだら終わりであると考える人が普通ですし、それが当り前だと思っています。しかし、聖書は死者が死んで終わりではなく、死んだ後には復活があると説明しています。なぜなら、イエス・キリストが死者の中から復活されたからです。そこで、死んだ後には終わりだと思う人々にパウロは次のように言っています。「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころにしたがって、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」種は不思議です。みんな形は同じですが、畑から出てくる姿は違ってきます。味も違えば、姿もちがうものです。パウロは天の御国において復活する姿について、まかれるのは似たりよったりするものだと説明します。人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。種は似たりよったりしている種の形を持っているのですが、畑から出てくる姿は全く違った様子で生まれ変わるのです。同じように、死者の復活についても、天上のからだ地上のからだが違い、素晴らしさも異なるのです。太陽の美しさと月の美しさ、星の美しさが、同じ光なのに違った形のように、まったくそのように、私たちの姿も、体の種で巻かれるのは同じですが、復活により生まれ変わる姿は違った栄光に包まれるのです。

42節、朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、榮光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、强いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。私たちが天と地が神により作られ、今もなお、私たちの人生を主の力により導かれ、聖霊に包まれて生活していることを確信しているように、私たちの体が死ぬと、其のままで終わりを迎えるのではなく、私たちは復活という新しい世界で栄光ある形によみがえらされることが聖書に記録されているのです。

聖書は「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となるのです。私たちの体は復活のためとなり、死んだ後には不思議な体で甦らされるのです。さなぎが蝶々になることを想像できないように、同じように、私たちの体は神様により指名される新しい体を着るのです。私たちの、生まれつきの体は血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに來るのです、と聖書は教えています。死んだ後に、私たちは御霊の体を持つのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、復活を遂げた第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。空間の制約も、時間の制約も、突き抜けた、同時にすべての人の声を見分け、同時にすべての人々と会話でき、更に、賛美と喜びにだけ包まれる不思議な天上の体を持つ、復活が待っているのです。人は死で終わりではありません。死んだ後には審判があります。人生を整理する日が訪れるのです。復活はそののちに、神により認められ、よしとされた人々に訪れる祝福です。

私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。それで、パウロは次のようにコリントの聖徒たちに言っています。「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奧義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパ が鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」と。復活の時に、死は完璧に敗戦し、もう、権力を振るえることができません。死の勢力は私たちに乱暴をする力がなくなります。パウロはその、復活の時のことを幻から見て、次のように勝利の宣言をしています。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です、と。私たちの人生を苦しめるものは、罪です。罪をなくせば、人生は喜びと力に包まれます。しかし、残念ながら人間は罪の中で生まれ、罪に包まれています。神を神として崇めず、真の父親を父親とみなしません。自分を苦しめながら憎しみ、復讐心、不信仰、不従順、高慢に包まれています。この世の中で、私たちは悲しみと苦しみ、罪の勢力に気力を失っています。立法の前に立つ私たちは悲しみに包まれています。だれ一人、神の律法に立ち向かうことができないからです。だれ一人、神様の前に正しいと、認められる人がいないからです。私たちは誰でも、罪人としての悲しみに包まれています。涙を汲む日々と向かうしかない、悲しみの人々です。心の奥底からの自信感と喜び、勝利の宣言をすることができないのです。しかし、パウロは復活の時に、その死は勝利にのまれると宣言しています。私たちを苦しむ勢力はもう、復活時には勢力を失うのです。もう、悲しみに包まれることも、苦しみに包まれることも、泣くことも、叫ぶこともない、不思議な栄光に包まれると、宣言しています。復活により訪れる栄光は数え知れないものです。

しかし、使徒パウロはそれにとどまりません。57節をご覧ください。「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を起こしてくださいました。」復活の時に訪れる勝利を、パウロは今、イエス・キリストの中に起こしてくださったのだと宣言しています。イエス・キリストの十字架と復活、イエス・キリストの苦しみと悲しみと、復活の中に勝利が訪れたのだと宣言しています。信仰により、イエス・キリストを信じる人々の中に、罪の勢力からの自由と、復活の勝利が今、訪れたのだと宣言しています。「主はキリストです」と、告白したペテロに訪れた喜びが、12の弟子たちに訪れた喜びに包まれた勝利が、そののち、信者たちに包まれた聖霊の喜びと賛美の魂か、今もなお、教会の上に訪れる不思議な喜びと賛美が、奇跡が、主イエス・キリストの御名によって創造されています。「主イエス・キリスト」を信じれば、復活の喜びを今、体験し、罪の勢力からの逃れを、今に体験します。私たちは復活の後の天の御国で、叫ぶのです。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です、と。しかし、イエス・キリストの中にいる人々は復活がまだ訪れてない中でも罪の勢力に対して、私たちを苦しめる試練や悲しみ、運命や混乱に向かって叫ぶのです。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です、と。それで、パウロはローマ人への手紙にもこう記録しています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と。

パウロは最後に言っています。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのです。」

今、主が私たちに与えてくださったわざが何でしょうか。朝の祈りです。聖書勉強している人々のための取りなしの祈りです。子どもたちのための祈りです。まかせられた仕事に専念することです。イエス・キリストの包まれる聖霊の力に頼り、主の願う技に励むべきです。主は私たちの労苦が無駄にならないよう、祝福してくださいます。主は私たちの父親となられ、私たちを愛しているからです。主は私たちを子どもとされ、その民とされたからです。私たちを通して、主の栄光を表そうと決心されたからです。イエス・キリストの復活を賛美いたします。同じように、私たちの死んだ後の復活を信じて、感謝します。

Happy Easter !!


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23