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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その9 --> 問題紙

永遠のいのちのことば

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 6章60節~71節
要 節:ヨハネの福音書 6章68節 「すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。』」

私たち信者にとってイエスさまはどんな存在でしょうか。イエス様の言葉に対する考え方はどんな立場でしょうか。今日の御言葉で、イエスさまはこのような私たちの立場や考え方を問い叩いています。そして、どのような考え方を持って、どのような思いを持って、イエス様についていくべきであるのかを教えています。今日の御言葉を通して、信者として持つべきイエス・キリストに対する正しい考え方を学びますよう祈ります。

60節をご覧ください。そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言いました。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」弟子たちがイエス様の言葉に反発していました。彼らからして、イエス様の言葉はひどい言葉でした。理解不能でした。誰も受け入れられない言葉でした。英語の聖書には、「これは受け入れがたい難しい言葉だ。誰がそれを素直に受け入れようか。」とあります。イエスさまはどんなひどい言葉、どんな難しい言葉を彼らにお話しされたのでしょうか。

41節を見ると、ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた、とあります。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか、と反発したのです。私たちももし、その当時の、イエスの近所の人で、その父親、母親を知っている人であれば、同じ気持ちになったはずです。一緒に食べ、一緒に遊び、一緒に生活をしていた彼が、「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたら、受け入れがたいものです。しかも、イエスは次のように説明を付け加えました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」彼らはこのような言葉にも強く反発しました。「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と。

このような疑いはユダヤ人たちにとどまりませんでした。弟子たちの間もイエスの言葉に対する疑いが広がり、イエスへの批判が強まりました。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」イエスは弟子たちがつぶやいていることを聞いて、言われました。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」イエスは彼らが理解できない言葉に対して呟いていることを聞いて、彼らが理解できないとしても彼らにとって最も理解できないことが起こることを予言しています。イエスはいのちのパンです。その肉を食べる人、その血を飲む人、イエス・キリストを完璧に理解し、その思想を飲み込める人は永遠のいのちを手にします。救いを手にします。イエスの肉を食べて理解し、その教えをしっかり私の考え方の基本にする人、イエスの血を飲み、その思想がすべての行動や考え方に流れる人は、35節でイエスがお約束されたように「決して飢えることがなく、決して渇くことがありません。」イエスの教えを学び、その考え方が生き方の中に流れる人は、一人も、食べ物の問題で困ることがないのです。一人も飲み物がなくて悲しむことはないのです。イエスを食べ、イエスを飲むようにと、言われた言葉に疑いを持ち始めると、彼らは後々、イエスが天に昇ることを目の当たりにしたら、仰天してしまうことでしょう。その時にはどうなるのでしょう。彼らに驚きは言葉が理解できない位にとどまらないのです。彼らの驚きは、想像をはるかに超え、手足が縛られてしまうのです。イエス様の言葉をつぶやくぐらいなら、もう、彼らはイエス様についてくる資格がないのです。

イエスは弟子たちに、興味と関心をもっと霊的なところに向くべきであると言われます。63節「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」私たちは肉について鍛錬します。肉の鍛錬もいくらか有益があります。しかし、肉は何の益ももたらしません。肉は肉にとどまります。いのちは霊です。いのちをもたらすのは霊なのです。イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとは、霊的なものであり、そのような人々に命がもたらされるのです。パンを食べること、マナを与えてくれたモーセに関心を持つことは、いのちをもたらしません。いのちをもたらすのはイエス・キリストに関心を持つことであり、イエスの肉を食べるところ、イエスの血を飲むところから生まれてくるのです。難しい言葉を突き放すのではなく、噛み続け、食べるべきです。その流れる考えを、その流れる教えを、その流れる一つの筋をしっかり飲み込むべきです。そこに命があります。しかも、永遠のいのちが保障されるのです。神様が選びになられた、一人子、救い主だからです。

弟子たちの間には、信じない者がいました。イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられました。イエスは彼が信じないものにならず、信じる者になることを願いました。そして、信じるものは父の御心によるものであると、確信していました。信じることはやさしいことではありません。信じることは父の御心によらなければ、決してできないものです。イエス様の、お話が理解できない人々はイエスを離れました。もはやイエスとともに歩くことをやめました。イエスと行動を共にし、イエスに同意し、イエスに協力すすることをやめました。

67節をご覧ください。そこで、イエスは十二弟子に言われました。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」イエスは12名の弟子たちが離れた人々とともに、離れるのかと問い叩きました。12弟子たちは迷っていたことでしょう。イエスのお話は理解に苦しく、難しいものでした。イエスの肉を食べるなんて、血を飲むなんて、そんなはずじゃなかったと密かに考えていました。イエスのお話に、黙り込んでいました。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えて言いました。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」


6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
6:71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23