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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その6 --> 問題紙

起きて、床を取り上げて歩きなさい

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御言葉:ヨハネの福音書 5章1節~18節
要 節:ヨハネの福音書 5章8節 「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」

加賀乙彦さんのエッセイの中に、「死刑囚の記録」というものがあります。死刑囚たちがどのような思いを持って、死刑を待っているのか、彼らはどのような精神疾患にさらされているのか、詳細な資料に基づいて記録しています。死刑囚たちはもちろん、死刑に値するほどの残酷な罪の代価として死刑宣告を受けて、死刑囚となりますが、彼らは罪の代価として受ける死刑以上に、厳しい精神的な苦痛と刑罰を受けていることを告発しています。これはまるで、トルストイの代表小説である「罪と罰」読んでいるような錯覚をもたらします。罪の結果ではあるが、死を待つ人々の絶望と精神的な苦しみと悲しみは、強烈なものであることが、垣間見える本です。

今日の本文に出ている38年間、病気にかかっている人の姿の中には同じような苦しみと悲しみがにじませています。加賀乙彦さんは死刑囚の精神疾患を助けることのできない、医師としての限界と、経験不足を嘆いていますが、これは病気と向き合う医師の素直な告白でもあります。私はこの間、インフルエンザであると診断されたとき、私の担当医師の話が今でも印象的に残っています。「インフルエンザのウィルスの伸び方は爆発的で、これを止めない限り人々の体は持てなく、大きなダメージを受けて、体力がない人々にとっては死に至ることがあります。最近、特効薬として発売されているものは、これらの急激に増えるウィルスを抑える力があるもので、ウィルス菌、そのものを殺すものではありません。しかも、インフルエンザが動き出して、二日以上経つと、インフルエンザのウィルスを抑える薬は今のところなくて、体力勝負になり、私たち医師としては手が出せないのです。体力が何とか頑張ってもらうことを願うしかないのです。がんばりましょう。」この医師の素直な告白は、加賀乙彦さんの告白に似ています。

今日の御言葉には同じような不治の病人が登場しています。イエスさまは彼とどのように向き合ったのか、彼はどのようにしてこれらの病気から癒されたのか、今日の御言葉を通してその秘訣を学ぶことができますように祈ります。

1節から3節までの御言葉をご覧ください。「ユダヤ人の祭りがあありました。イエスはエルサレムに上られました。さて、エルサレムには、『羊の門』と名乗るところの近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊つまりテントが設けられていました。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。5節を見ると、そこには、三十八年もの間、病気にかかっている人がいました。38年です。38年もの間、病気にかかり、その病気に悩まされている人がいたのです。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのをパッと見で知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

7節をご覧ください。すると、病人は答えました。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」この池には大勢の病人が、水がかき回されることを一つの望みにして、集まっていました。水がかき回されたとき、一番初めに、この池の中に入る人は治る伝説がありました。実際、そのような効果があったのでしょう。人々はその一人の中に、自分が選ばれることを願って、ここに集まっていたのです。水がかき回されることを望みとしている人々は、もう、医師からも望みがなく、薬では治る可能性がまったく見えない人々でした。近づいている死を待つ彼らのこころは曲がり、判断力もなければ、ノイローゼに悩まされていたことでしょう。イエスさまはこのような彼に言われたのです。「良くなりたいか。」しかし、彼の口から出る言葉は不平不満と絶望的な告白でした。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」加賀乙彦さんはこれと同じような、絶望的な反応を示す死刑囚たちに、何の手を差し伸べることができない自分自身について、嘆いていますが、イエスは彼らに言われます。

8節をご覧ください。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、何と、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出しました。38年もの間、病気にかかり、まったく可能性を見出すことができない、絶望的であった病人が、イエス様のお話を耳にした時、そして、そのお言葉を受け入れた時、彼には奇跡が起こったのです。まったくの可能性が見いだせなかったところに、新しいいのちの誕生が生まれたのです。まったくの暗闇から、光が輝いているように、イエス様のお言葉は新しい創造の力がありました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

感動的な人の言葉も、力があります。小説も、エッセイも、感動的な映画も、私たちを奮い立たせる力があります。お医者さんのアドバイスも、薬も、特効薬も、私たちのいのちを生かす力があります。しかし、もう、これ以上、効く薬がない人々の病気、もうこれ以上の可能性がな人々の人生に、まったくの可能性が見えない将来についての不安や絶望にも、力強く働くものがあります。それは「イエス・キリストの言葉」です。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」といわれる言葉が、イエス・キリストから、私に渡される時、私たちはすぐに直って、床を取り上げて歩き出します。

人々はその日が安息日だからと批判するでしょう。世の組織はそのような治り方が違反であると叫ぶこともあるでしょう。しかし、イエスさまは言われます。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23