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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その2 --> 問題紙

イエス・キリストと神殿

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 2章12節~25節
要 節:ヨハネの福音書 2章19,21節 「イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」

前回のメッセージの内容を記憶してほしいのですが、ヨハネはこの記録の目的として、何を狙い目にしていたのでしょうか。(ヨハネの福音書20章31節)「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とありますので、今日のメッセージもそれに外れないように内容を把握していきたいところですが、今日のタイトルは「イエス・キリストと神殿」となっています。神殿とは教会のことを指します。教会とは神様がその民と出会う場所です。今の教会とは違って、昔のユダヤ人の神殿はもうちょっと複雑な儀式と形がありましたが、その民と出会う教会としての役割は同じです。新約時代から教会とはイエス様のお約束通り、二人以上が集まり礼拝をする場所、家のことを意味します。また、礼拝の中に行われる罪の赦しと今日の御言葉で、イエスさまはご自身のことを神殿であると表現しています。自分の体のことを教会と同一視しています。これにはどんな信仰が沈んでいるのか、どんな価値観が沈んでいるのかを学びますよう祈ります。

2章の12節をご覧ください。イエスさまはガリラヤのカナで婚礼があり、弟子たちも兄弟たちもイエスの母も、その結婚式場に参加していました。その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行きました。、長い日数ではなかったが、そこに滞在されたと記録しています。そしてしばらくしてからユダヤ人の過越の祭りが近づきましたので、イエスはエルサレムに上られました。エルサレムには過越しの祭りに備えの教会があり、ユダヤに住む成人男性はほとんどの人々がこの祭りに参加していました。

過越しの祭りとはどんな祭りでしょうか。過越しの祭りの儀式の意味が何でしょうか。出エジプト記の12章を見ると、人々が過越しの祭りについて質問があったら、こう答えるようにと回答しています。「あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』と。」ユダヤ人たちはエジプトの奴隷でした。神様が定めた時になった時、神様はエジプトの王子として育て上げたモーセを通して、ユダヤ人たちをエジプトから連れ出し、神に仕える民としてのイスラエル民族を確立されようとされました。しかし、多くの人々は信じませんでした。ユダヤ人たちの、エジプトの王・パロも神の働き、神の存在を認めようとしませんでした。「神とは何か」とモーセの神様への計画を無視しました。「神というものはない」と言い張りました。モーセは神様の存在を十の災いを通じて、ユダヤ人たちに、またパロ王に知らせました。しかし、最後の最後まで神を認めようとしない人々がいました。モーセは忍耐強い神様の最後の災いを預言しました。長子の命を守るために、神への信頼と神様へのいけにえを求めました。私たちの罪の代わりになる羊をほふり門柱に羊の血を塗り、神様の過越しを信頼するように求めました。神様はモーセの預言を信じたイスラエルを守り、モーセの預言を無視したエジプトに災いをもたらしました。過越しは神様の存在を確認した日であり、神様のあわれみとお約束の実現を確実にした日でした。ユダヤ人たちは毎年のように、この日を記憶し、祭りとして祝いました。今回の過越しの祭りも、神様の存在を確認し、神様の働きを感謝することを夢見ていました。しかし、エルサレムの神殿の様子は違っていました。

14-15節をご覧ください。「そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し」ました。当時のユダヤ人たちは年に一度の祭りを目当てに、金もうけを考えていました。牛や羊や鳩を売る者たちが神殿の人々と結託し、イスラエルの神殿は牛の声、羊の声、鳩の声に様変わりしていました。神殿の中にはローマのお金を両替してくれる両替人たちの活動していて、まるで神殿は市場に化けていました。人々のほとんどは神様への信仰や御言葉を学ぶことなく、過越しの祭りを過ごしました。過越しの祭りは商売の祭りに様変わりしていました。イエスさまはこのような彼らに言われました。16節「また、鳩を売る者に言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」マルコの福音書、11章17節には次のように記録されています。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」

弟子たちは、このようなお姿を見て「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こしました。ユダヤ人たちの神様への熱心はすごいものがありました。しかし、むしろ彼らの熱心が教会を祈りの家にせず、強盗の巣にしていました。彼らはイエス様の指摘に素直に答えるべきでした。しかし、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」彼らはイエス様の大胆な行動に印を求めました。するとイエスは彼らに答えて言われました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言いました。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」イエス様のお話を理解する人はいませんでした。しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのでありました。このお話はイエスさまが十字架につけられ、死なれるまで、話題となりました。マタイの福音書27章39節を見ると、イエスさまが十字架につけられ、死なれる直前、十字架に架けられたイエス様を見ながら、道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、こう言っていました。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」しかし、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書の言葉、またイエスの言われたことばとを信じるようになりました。聖書とイエス様の言葉は真実であり、必ず実現するお約束です。

ここで私たちはイエスさまが神殿のことをご自分の体であるとする価値観を学びます。これは信者の価値観であり、パウロがコリントの教会の人々に教えていた言葉にも表れています。コリント人への手紙第一、3章17節「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」とあります。また、6章19節は次のように言っています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23