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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その24 --> 問題紙

救いのわざを完了されたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 19章1節~30節
要 節:ヨハネの福音書 19章30節 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」

今日の聖書の内容はイエスの十字架の死です。聖書はイエスの十字架の死が何を意味しているのか、を開設しています。使徒パウロの人生はこの十字架の死を世界に広げた人生です。パウロはイエスの死が決してユダヤ人だけのものではなく、異邦人のためのものでもあるとし、幻の中でお呼びにかかったイエスの言葉に従って、その人生を異邦の宣教師としてささげたのです。彼は自信持って当時のローマのアグリッパ王にも「あなたが私と同じになることを祈る」と宣布しています。

今日の御言葉は著者ヨハネが伝えた、イエスの死の意味です。イエスの死はどんな意味があるのかを学びますよう祈ります。

1節を見るとピラトがイエスを捕まえて鞭打ちにした、とあります。ピラトはイエスには罪がなく、当時の宗教指導者たちが主張していたような、死刑に値する理由がないことを知っていました。ユダヤ人の最大の祭り・過越の祭りに、ピラトがユダヤ人のためにひとりの者を釈放するのがならわしになっていました。それで、ピラトは彼らのために、ユダヤ人の王を釈放することにしようと考えました。いくら見てもイエスには何の罪も見つかりませんでした。しかし、8章の最後の部分を見ると、彼らはイエスの代わりに、バラバを釈放しろ、と要求しました。19章の1節がそのことを受けて書かれた内容となっていますが、ピラトはイエスを捕まえて、鞭打ちにしたとなります。ピラトはイエスを鞭打ちにして、いばらの冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、王がきる紫の着物を着せては「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打っつなどと、嘲弄したあげく、ユダヤ人の前にイエスを連れ出しました。ピラトはイエスを辱め、侮辱することでユダヤ人の怒りがおさまるものと考えていました。「さあ、この人です。」イエスの頭からは血が出ていて、体は鞭打ちのために脱力状態となっていました。一変したイエスの様子に、ピラトも自信持って彼らに疲れ果てたイエスを見せつけたのです。「さあ。」

しかし、6節を見ると祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、まるでいさを目の前にした獅子のように、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言いました。彼らの予想に反した反応に困惑したピラトは彼らに言いました。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」十字架刑なんてとんでもない、と断言していました。しかしながら、「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」イエスを釈放する動きを感知したユダヤ人たちは、もし、イエスを釈放するなら、ピラトをカイザルに背く人として提訴する用意があると、脅迫したのです。そこで、ピラトはイエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いて、ユダヤ人たちに言いました。「さあ、あなたがたの王です。」ピラトは裁判官ではあったものの、彼らに審議を任せていました。彼らは激しく叫びました。「除け。除け。十字架につけろ。」彼らは気が狂っていました。何の罪もないイエスを、十字架につけて殺そうとしていたのです。神をけがしたからだと、その理由を述べています。

宗教は怖い、としている人々の話を聞くと、イエスを十字架につけるために気がくるっている当時の宗教指導者や群衆の様子が思い出されます。自爆テロを正当化し、無数の民間人や何の罪もない人々への命取りを、自分たちが決めた宗教上の理由で強行しています。この人たちは今でも、罪のないイエスを十字架につけているのです。無数の人々を、何の関係もない人々を、死に至らせています。9.11テロが、また、その報復がイエスキリストを十字架につける行為です。私たちは私たちが決めたルールを守る以上に、神様の願いと声に自分たちのルールを犠牲すべきです。信仰と、希望と、愛は神様が私たちに教えてくれた永遠に残る真理の道のりです。その中でも一番すぐれているもの、それは、私たちが守って行くべき真理「愛」です、と使徒パウロは言っています。人殺しは悪魔です。ヨハネは8章44節で次のように言っています。「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

信者が過ち安い、自分たちのルールを守るために、人を平気で傷つき、やがては殺すことも正当化することを、私たちは恐れるべきです。私たちには同じ殺し屋としての遺伝を受けついているからです。どんなことがあろうとも、私たちは人を愛すべきです。9.11テロがあった直後、当時のUBF総裁であったサラベリー宣教師は「わたしたちはアフガニスタンの人々を、ましてや私たちの親せきや国民を殺した人々も、愛しなければなりません。」とし、愛がアフガニスタンに参戦したアメリカ人を正当化できない、としていたメッセージを記憶しています。愛は真理です。人殺しは悪魔なのです。 真理が分かってないピラトは彼らに言いました。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」愚かな彼らの判断に反論したのです。しかし、彼らの中の祭司長たちは答えました。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」彼らは急に、ローマの味方となったのです。彼らは過越しの食事をしようとして、総督官邸にも入ってない身であったのです。彼らはローマの味方であった取税人をのろわれるべき罪びと扱いしていました。しかし、イエスを十字架につけるために彼らはカイザルの味方になりました。16節を見ると、ピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した、とあります。

客観的に見て、イエスの十字架の死はイエスご自身の過ちや罪とは全く関係のないものでした。「どくろの地」という場所で彼らはイエスを十字架につけました。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであったのだと記録しています。ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げました。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてありました。彼らは自分たちの王を、十字架につけて殺したのだと、大きく書くように命じたのです。しかも、それはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書かれ、ユダヤ人の愚かさを世界中に知らせたのです。ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言いましたが、「私の書いたことは私が書いたのです。」と内容変更を拒みました。ユダヤ人たちは自分たちの王を、十字架につけて殺したのです。彼らの愚かさは世界中を驚かせる事件だったのです。

心の中でふっと沸き起こる殺人意識、仕返しをし、徹底してその人生をこまらせたいという気持ちを、私は今まで何度も経験したことがあります。最初の就職先から首になり、行き先が無くなった時にも、私は殺人意識が絶頂に達していました。私は酒にまみれる日々を迎えていました。その時、私は悪魔の声に一番近いところにいました。もし、週1回の礼拝をしないまま、神様の声を聞くチャンスがなかったのなら、私はきっと、多くの人々のいのちを狙う殺し屋として、悪魔の声に生きていたことでしょう。神様は私を御言葉で守ってくださったのです。この神様を感謝、賛美いたします。

イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていました。イエスの十字架の死を確実に見届けた人物たちでした。イエスはその中でも、葉はマリヤのことを心配していました。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われました。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われました。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取って面倒を見ました。伝説によればこの弟子はこの福音書を記録したヨハネであると言っています。この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言い、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われました。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった、とあります。

イエスの死はイエスご自身からしても受け入れがたいものでした。しかし、イエスは神様の御言葉からその死の意味を悟っていました。それは、多くの人のための、購いの死でした。信仰はこれを信じることを意味します。信仰により救われます。イエス・キリストの十字架の死が神様と私との間を隔てている問題を解決したのです。イエス・キリストの死を私のためであると受け入れることが信仰であり、その信仰による救いを体験している人々がクリスチャンです。イエス・キリストの中で信仰による救いを、毎日のように、心に積み重ねていきますよう祈ります。

「完了した」この言葉が心に響く日が多くなりますよう祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23