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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その23 --> 問題紙

わたしが王である

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 18章1節~40節
要 節:ヨハネの福音書 18章37節 「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」

今日のタイトルは「わたしは王である」です。ここで、私は誰を指しますか。そうです。イエスを指します。イエスが王である、という意味です。これはイエスが当時のユダヤの総督・ピラトの質問にに応えた形で現れる御言葉です。ピラトはイエスに「あなたが王ですか」と質問するピラトにイエスは、「わたしが王であることは、あなたが言う通りです。」と応え、イエス自身が、王であることを認められたのです。イエスは一体、どんな王なのでしょうか。

約2千年前、イエスが暮らしていたユダヤ地方では王政が馴染んでいました。王と言えば、権力者・総理大臣、諸外国の大統領のような存在の象徴です。つまり、すべての決定権を持ち、方向性を決めれば逆らえない、権力の持ち主が王なのです。

イエスがこのような王であるという意味をもう少し、時代を背景にして、説明を加えましょう。イエスが暮らしていた時代の2千年前の舞台はユダヤ地方です。今のイスラエルとパレスチナ紛争が巻き起こっている地域を指しますが、当時、その地域はローマ帝国の植民地でした。ローマの権力者がその地域を管理し、支配していた時代でした。実際、本文の中に登場するピラトはローマの兵士のお偉いさんで、このユダヤ地方の総督として赴任している支配者でした。つまり、ユダヤ地方の王なのです。しかし、この地方がローマの植民地なので、ユダヤの王は真の王ではなく、ローマ帝国の王の命令に従って生きる地方の管理者で、本当の王はローマ皇帝を指します。当時ローマの王は誰ですか。皇帝・カイザルでした。ユダヤはピラトによって支配はされていましたが、ローマの皇帝・カイザルによりその権力が操作されていました。ですから、ユダヤの真の王と言えば、ローマ皇帝・カイザルでした。その権力と力を背負って、ユダヤの総督となった、つまりユダヤ地方の王と任命されたピラトの前で、自称・ユダヤの王である人が現れたのです。これはピラトの権威と権力を無視する行為であり、さらに言えば、カイザルに背く行為なのです。これはローマ法によれば、死刑に値する反逆行為で、十字架刑が下るほどの重い罪でした。しかしながら、イエスはご自分のことを指して、質問するピラトの面前で、『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。』と応えたのです。さあ、その結果はどうなったのでしょうか。

今日の御言葉にはまだ、結末までには至りませんが、その過程のやり取りが記録されています。そのやり取りの中に「イエスの態度」が1節から14節まで、「イエスの弟子・ペテロの態度」が15節から27節まで、そして最後の28節から40節までが「王であると証言したイエスの弁論」が記録されています。

第一に、イエスの態度について調べてみましょう。

イエスは17章の後半部で、弟子たちのための祈りをしています。そして、今日の本文の18章に入りますが、18章の1節には次のように記録されています。「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。」イエスが血のしずぐような形で、懇切にお祈りをされたところ、ゲツセマネを指します。ヨハネはイエス様の切なる祈りの姿よりも、イエスを裏切ったユダ、イエスを逮捕するために集まったローマの兵士たち、祭司長やパリサイ人たちから送られた役人たちの姿を描き、彼らが一人一人武器を持っていた状況を描いています。雰囲気はまるで、強盗を逮捕するために集まった人々のような姿です。彼らにイエスは進んで、「だれを捜すのか。」と尋ねると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と答えます。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われると、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた、と記録しています。彼らが予想していた犯人とはまるで違った雰囲気であったことが分かります。イエスは堂々としていたのです。8節を見ると「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」とし、進んで彼らの前に現れ、弟子たちを守ろうとしています。状況判断に際し、堂々としていましたし、弟子たちの安全を確保したいと働いていたのです。

それではペテロの態度はどうでしゅうか。

10節を見ると、突然の出来事に、ペテロは剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落としました。まるで勇気ある忍者のようです。しかし、イエスは彼の行動について制止して言います。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」ペテロはこの行動のために愛するイエスを、数時間の間、3度も否認したのです。ペテロの態度は驚き、剣を振り回し、イエスの弟子であることを否認し、自虐しながら涙を流し、ほんの数時間の間、東方にくれた瞬く間の数時間の過ごし方をしたのです。

イエスの堂々とした姿と、ペテロの東方にくれた姿にはいったいどんな違いがあったのでしょうか。お医者さんであり精神医学者の西丸さんは人間の意識を支配する中に、特に、人の行動や態度を決める意識があるとし、その大事な意識は私たちが認識する意識であり、意志であり、しっかりした理解力であり、知であるとしていますが、それだけではなく私たちの高度や態度を決めるもう一つの意識があるとしています。それを「辺縁意識」であると定義しています。はっきりした意識ではなく、ふわふわとした意識のことを指しますが、この辺縁意識がまた別の意味で、人の態度や将来を決めつける大事な働きをするとしています。また、ドイツの精神医学者のテレンバッハという人も有名な著書「味と雰囲気」という本の中でも、人間の態度を支配するのは意識の中で「辺縁意識」のことを詳細な実験を通して指摘しています。小説家でありお医者さんである加賀乙彦さんも彼の著書「悪魔のささやき」の中で、人の態度を決めつけるのは自分の意思をしっかり保つことですが、それができないとふわふわとした辺縁意識が大きく関与すると指摘しています。つまり、どのような辺縁意識を持っているかによって、イエスのような堂々とした態度をとるか、ペテロのような突出した態度、ちょっとしたら殺人者になったかもしれない慌てん坊の態度をとるかが決まるのです。辺縁意識とは個人が自由意思で決めつけられる意識ではなく、動かすことのできない意識のことを指します。私の気持ちや意志が反映されるところではない、意識を指します。人間の意志や心が反映されることなく、私たちの人生や行動や態度を支配するもうひとつの意識、そのような意識が人間にはあり、その意識が実際存在して、私たちの人生とともに歩んでいて、人生の分かれ道を決める場合があるというのです。加賀さんは彼の代表作の小説「宣告」中で、死刑囚になった主人公の辺縁意識を探求しています。

私たちが神様の支配を認めることは、このような辺縁意識を支配する方を認めることに繋がるのだと思います。イエスはその支配者・神様への願いと祈り、その方の助けを切に求めていたのです。私の力には及ばない、私の人生と態度を決める方、私の将来の道のりを管理する方に願い、祈りし、十字架を準備していたのです。神様の導きを求め、その方の支配を切に願っていたのです。しかし、ペテロはまったく、この方への信頼がなかったことになります。口先だけで終わり、すべての決定権と意識によって自分の人生を動かすことができると信じていたのです。ペテロは自分の手で師匠・イエスを救うこともできると妄信していたのです。その違いが、イエスとペテロの態度を分かれ道にしたのだと思います。人間には自分の意識により操作できないところがあります。人生の将来がそうですが、態度や意識までも、私たちは悪魔が、あるいは神様が動かす部分を持つ、特別な存在なのです。その意識を素直に認め、祈る人は堂々とする態度をプレゼントとして受けることができるのです。ペテロのような人ではなく、神様を認め、堂々とするペテロになりますよう祈ります。

最後に、ピラトは人々の訴えもあって、イエスを尋問しています。

33節「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」すると、イエスは応えられたのです。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」イエスはピラトが自主的に判断する態度を取ってほしかったのです。しかし、ピラトは「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」とその態度をぼかしています。すると、イエスははっきりとお答えになります。36節「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」イエスはカイザルのような、ピラトのような、この世の王としてきたのではないのです。イエスは人間が支配できない、人間の意識としては手の届かない世界、いくら頑張っても私たちの力や意識としては左右することのできない、その辺縁意識、ふわふわとした意識、私たちの態度や行動を実際に支配する世界を動かす、その世界の王なのです。それでイエスはあなたが王なのかと質問するピラトに応えたのです。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」イエスは辺縁意識の王なのです。イエスは人間社会に実際に存在し、支配する世界の王なのです。

ピラトが「それでは、あなたは王なのですか。」と尋ねると、イエスは答えられました。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」真理とは神様のことを指します。神様を認める人はイエスが私たちの人生に働くことを体験します。

弟が訪ねてきました。夜、眠れない時間を久しぶりに体験しました。彼と私の違いは神様の存在についての意見だけですが、考えてみると、私は神様に助けられているのだと改めて考えさせられることになりました。DNAも同じで、体の作りも同じで、感情も同じですが、私にはイエスの守り神が働いているのだと感じました。私たちが神様を見つめるとき、王であるイエス様を人生を持って体験することができます。私たちが神の存在を認め、私たちの人生の王として働く方を体験的に悟ることができますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23