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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その20 --> 問題紙

わたしがあなたがたを選び

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 15章1節~17節
要 節:ヨハネの福音書 15章16節 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

イエスと弟子たちの最後の晩さん会での話が続いています。イエスは弟子たちに遺言のような最後のお話を、切なる気持ちを込めて話しかけています。イエスの彼らへのメッセージが何でしょうか。今日の本文にあらわれるイエスのメッセージを一つ、テーマとしたら「わたしがあなたがたを選び」です。彼らが弟子となったのは神様が関与したことを伝えています。彼らが選んだように見えますが、彼らが父と船を捨てて、家族を捨てて、親しかった友人や好きだった趣味を捨てて、イエスに従い弟子になる決心をしたように見えましたが、「わたしがあなたがたを選び」と、伝えています。これにはどんな深い意味がありますか。

1節をご覧ください。イエスは最後の晩さん会の中で、いろいろとお話をしましたが、最後に、彼らにたとえ話を持ってお言葉を整理しています。そのたとえ話は、ブドウ畑のお話です。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」イエスが愛読されていた旧約聖書の中にはイスラエルの国をブドウ畑に、その民をブドウの木に例えていますが、同じように、イエスはご自分のことを指して、神様が植えられた純良種のブドウの木であるとしています。神様はイスラエルに純良種のブドウの木を植えられたのです。そして、そのブドウの木には枝がついていたのです。弟子たちのことを指します。2節をご覧ください。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」イエスのブドウの木についてきた主な枝には12名の弟子がいましたが、ユダはお金を愛していたがためにイエスへの反発と不信感が強まり、最後が近づいていることを利用して裏切る計画を考えていました。純良種の良いブドウの木から裏切りの枝が生まれていました。良いブドウの木に実らない枝を、神様は取り除きます。そして、実りが見込める枝には良い実を結ぶために刈り込みが行われます。取り除かれるのも、刈り込まれるのも、弟子たちには大変な時期が近づいています。イエスには十字架の突風が、弟子たちには枝が取り除かれ、刈り込みが行われます。

弟子たちはそのような苦しみから逃げようとするでしょう。苦しみと悲しみから離れて、田舎に行こうとするでしょう。ある人は、このチャンスを見逃さず、金でも取ろうとすることでしょう。そうしながらも、弟子たちは何か、悪いことをしたから、何か間違っているから、こんなことが起こったかのように心配するでしょう。しかし、イエスは言われます。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」彼らは清いのです。弟子たちは清いのです。神様のお約束によって清くなったのです。神様の言葉にとどまることを守り続ける限り、彼らは清いのです。4節をご覧ください。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」イエスはブドウの木で、弟子たちは枝です。枝がブドウの木にとどまるなら、実を結ぶ枝になりますが、枝がブドウの木にとどまらないのなら、何もすることができません。枯れます。この世の熱に燃えてしまいます。しかし、神様のお約束と、お言葉にとどまるなら、罪意識から逃れます。それだけではありません。神様が味方となります。イエスは言われます。「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

人々は罪意識から逃れることができません。罪意識は一生涯、私たちの人生において力を保ち、私たちを苦しめます。しかし、聖書は神様が信仰により、その罪意識から逃れる道を示されたことを教えています。それがお約束であり、お言葉です。イエスの十字架はお約束の頂きであり、そのお言葉のテーマです。十字架の中で私たちは罪意識から逃れる道を得ます。それだけでも私たちは喜ばしいのですが、神様は私たちが罪意識から逃れることだけでなく、父に求めるものをお与えになると約束しています。それが神の栄光であり、そのためにイエス・キリストの十字架をご用意しているのだとしています。「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

そのお言葉とは具体的にな何を指しますか。十字架の赦し、購いの犠牲は具体的に何を指しますか。何が、罪意識を打ち破り、何がこの世に平和と喜びを、それぞれの人々に力ある人生を基らしていますか。それは9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」です。それは神様が私たちを愛していること、同じように、イエスさまが私たちを愛していることの中にとどまることです。神様の愛を確信することです。

「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

愛が、罪意識から逃れる原因であり、愛が実る原因であり、愛が十字架のもっとであり、愛がこの世を救う原因なのです。愛が、すべての頂きにあるのです。これが神様の戒めであり、この戒めの中にとどまるのなら、私たちは救われます。救います。実りますし、その実が残ります。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉の中にとどまるのなら、私たちは神様の栄光を現す人生を生きるようになります。

13節でイエスは弟子たちのために命を捨てることを宣言します。そして、弟子たちのことを友人としています。イエスは弟子たちがその意味を理解し、賛同し、一緒の道を歩む友人になることを願ったのです。それだけでなく、イエスは神様を信頼し、彼らを友人と呼んだのです。イエスの信仰通り、彼らは時代の友人として、愛をアピールする人々となったのです。イエスさまが最高の愛を持っていのちを捨てて模範を見せたように、信者は愛の模範を見せるべきです。私たちはイエスの友人ですから、友人として信じられているのですから、呼ばれているのですから、私たちは愛の使者、愛の伝道者、十字架の愛、犠牲の愛、献身の愛を見を持ってアピールすべきです。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。 15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23