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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その1 --> 問題紙

まことの光

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御言葉:ヨハネの福音書 1章1節~18節
要 節:ヨハネの福音書 1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」

日本では今週から大学のキャンパスはもちろん、小学校から高校まで、ほとんどの学期制を作っている学校法人の新学期の始まりです。わたしも机を整えたり、整理をしたり、ゴミを捨てたりして新しい気持ちを持とうとしています。気持ちは心からのもので、見えるものが大事ではありませんが、見えるものを整えたり、変えて見たり、変化をもたらすことで気持ちがついてくることもあります。その意味で、今週からヨハネの福音書を勉強するようになったのは、うれしいことですし、神様に感謝すべきことです。

ヨハネの福音書はどんなものでしょうか。著者ヨハネはこの福音書を記録した理由についてこう記しています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネの福音書20章31節)」目的はあまりにもはっきりしています。その一つは、イエス・キリストが神の子であることを示そうとしていたこと、もう一つは、イエス・キリストを信じて、その御名によって命を得させるためであるのです。私たちがこの一年間、ヨハネの福音書を勉強しながら、この二つに焦点を当てて御言葉を勉強し、メッセージを聞くことができますよう祈ります。

1章1節からご覧ください。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ここでいう「ことば」とはロゴス、原理ともいわれるものです。初めに、すべての根本となるものがあったのだと説明しています。初めにとはすべての物事の初め、地球の始め、宇宙の始め、すべてのもののスタート時点に立ったときの初めに、その原因となるものがありましたが、それが神様とご一緒していて、さらに言えば神様そのものであったと説明しています。私たちはすべての物事の初めに何があったのか、とあまり真剣に考えることがありません。しかし、何かとその初めのことを考えようとするならば、必ずぶつかる問題です。例えば、私はお父さんとお母さんの間に生まれたものですが、お父さんとお母さんは、また、そのお父さんとお母さんの間に生まれ、また、そのお父さんとお母さんはにはお父さんとお母さんがいて、その上にまた、続くお父さんとお母さんが、その上の上、最後の最後、最初の始めはいったいどこから出発したのだろうか、と考える場合があります。わたしはなぜ、私であるのか、兄貴はなぜ兄貴で、先生は何で先生なのか、と疑問符を付けてみると最初はいったいどこからスタートしたのかと原因を探ってみたくなります。私の人生や人の人生、私に与えられた人生のことを真剣に考えようとするならば、かららずぶつかる問題でもあります。私たちはどのような答えを得ているのでしょうか。いくら考えても答えは見つからず、諦める場合が多いのです。しかし、聖書はその原因となるもの、ロゴスが神様であると応えています。進化論者は偶然とアメバがロゴスであると主張していますが、聖書は初めに、神が天と地を創造し、長い年月を経て、今に至っていると説明しています。私たちの存在も、天と地を創造された神様により見守られ、長い年月を経て、今の私に生まれているのだと説明しています。このような聖書の観点から私の人生や周りの環境をみると、この私には神様の願い、神様の心が刻まれていて、神様を抜きにしては語れない存在であることが明らかです。神様がいて、そして私がいるのです。神様がいて、今の世界が、今の私を取り巻く環境が形成されているのです。今の私やこれらの環境は、進化論者たちが思っているような偶然の産物ではなく、神様により作られた必然的なものであると、聖書は教えているのです。

2節「この方は、初めに神とともにおられた。」とありますが、この方はヨハネがこの記録の主人公として取り上げているイエス・キリストを指します。イエス・キリストは2000年ほど前に、イスラエルのナザレという町でマリヤから生まれた、大工の長男だったのです。しかし、著者ヨハネはこのイエス・キリストが初めに、神とともにおられた特別な存在であったのだと証言しています。さらに、ヨハネは3節で「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とし、イエス・キリストが創造主であることを示しています。イエス・キリストはマリヤの胎内から生まれた私たちと同じ人間の体をしておられましたが、本来は創造主、初めからおられた神様であったのだと証言しています。イエス・キリストは初めに神様とともにおられ、創造の始めから創造の御業とともにし、すべての創造の御業にかかわった神様であると教えています。ヨハネはイエス・キリストが人間の姿をした神様であると記録しています。

さらに、ヨハネは4節でイエス・キリストが神様であると同時に、私たち一人一人とはどんな関係があるのかについて記録しています。4節「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」命を授かっている私たちも知っている通り、いのちは人の光です。なぜなら、命がなければ人は暗闇だからです。命がなければ人は存在意義もありませんし、存在しません。命は人の光です。命を持っている人は明るいですし、光りますが、命がなければ暗いですし、暗黒です。ヨハネは「この方に命があった」と記録しています。この方とはイエス・キリストを指します。イエス・キリストに人を照らすまことの光があるのです。

私たちは誰でも、一回の人生を、明るく、光らせながら生きたいという願望があります。私たちがどのようにすれば「光る生き方」を保つことができますか。どのようにすれば光る人生を生きることができますか。努力すれば光る人生になりますか。確か、努力すれば光ることがあります。しかし、ヨハネが言っている光とは、しばらく光るものではなく、まことの光を指します。この人には光になりますが、別の人には光と認められない、そのような光ではなく、まことの光を指します。奮闘すれば得られる光は大体、しばらく光るもので、突然消えてしまう光が大半です。私たちには光を操作できないし、光ではないのです。人として生まれた中で、一番すぐれたとされる「バプテスマのヨハネ」も、自分は光ではないと否定していました。では、どうすれば私たちは光る人生を生きることができますか。どうすれば明るく、輝く人生を生きることができますか。どうすれば暗闇から抜け出て、暗黒から抜け出て、はっきり見える人生を生きることができますか。それは光を保つことですし、光をつかむことですし、光とともに歩むことです。光と一緒に人生を生きることです。そうすれば、一回の人生を光らせながら、明るい人生を、光のお陰で明るく生きることができます。著者ヨハネは神から遣わされたバプテスマのヨハネの言葉をお借りして、その光について証言しています。

「神から遣わされたヨハネという人がいました。この人はあかしのために来たのでした。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためでありました。彼は光ではない自分自身を明らかにし、ただ光についてあかしする人生を過ごしました。」このバプテスマのヨハネの時代、人々は暗闇に住んでいました。神に選ばれた選民としてのプライドも消えてゆきました。イスラエルという国は歴史教科書にしか残っておらず、ローマの属国として、神様の言葉も笑われる対象でした。人々の間にも暗闇が蔓延していました。生活も苦しく、人の苦しみに手を差し伸べる余裕さえもありませんでした。バプテスマのヨハネの時代は、人々はみな暗黒のような生き方をしていました。先が見えない生き方をしていました。イスラエルの人々は罪の本性に包まれていました。神様に対する忠誠心の無さのために自虐していました。ローマの兵士たちの暴力や軍事力に苦しめられていました。体の本性から生まれた自己中の勢力にさいなまれていました。彼らには先が見えませんでした。希望がありませんでした。絶望と苦しみが彼らの人生を包んでいました。その時、預言者・バプテスマのヨハネは「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしている」ことを預言しました。彼はすべての人を照らすまことの光について証言し「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」と言いました。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかったのだ」と証言しました。しかし、バプテスマのヨハネは、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった、ことを宣布しました。受け入れる人々には、その名を信じる人々には、神の子どもとされる特権が与えられると預言しました。バプテスマのヨハネは、この方・イエス・キリストについて証言しました。9節「すべての人を照らすそのまことの光」であると。イエス・キリストはどんな方でしょうか。

第一に、イエス・キリストはすべての人を照らす方です。

すべてとは例外がない、ことを指します。お父さんも、お母さんも、妹も、弟も、友人も、親戚も、おじいさんもおばあさんも、日本人も、外国人も、世界のどこの国の人々も、例外がなくすべての人を照らす光であるということです。私たちは光ではありませんが、努力してもまことの光を手にすることができませんが、受け入れ、その名を信じるだけで、まことに光が私たちの人生とともにするのです。ヨハネはこの光が隣にあれば、その人生が光るまことの光がイエス・キリストであると証言しています。光が隣にいれば、その国が光ります。その町が光りますし、その学校は光るのです。その家庭が光り、家族が光り、父が光り、母が光り、子どもたちが光ります。イエス・キリストはすべての人を照らす光だからです。

第二に、イエス・キリストは真の光です。

真の光とは嘘でない光である、ということです。使徒ヨハネが、イエス・キリストを受け入れた人々、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権が与えられ、その人生に光が伴い、上の栄光を表す人生になると証言していますが、それは嘘ではない、という意味です。輝きが保障され、明るさが保障され、はっきり見える人生が保障される光です。ですから、真の光と記録しています。イエス・キリストはまことの光です。私が大学生の時、人生の先行きが見えず、暗黒でした。真剣に自殺を考えたこともありました。しかし、イエス・キリストが私の人生に関与し、心から主はキリストであると告白し受け入れた時から、また、その名を信じた時から、まるで嘘のように、奇跡のように、人生には光が訪れました。私は無益な人でしたが、暗闇のどん底から抜け出てきました。美しい信仰生活をするだけでなく、この世においても多くの祝福を受けるものとなりました。今なお、光の人生から守られているのは、主・イエス・キリストを信じる信仰によるものです。主を賛美します。

13節「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」信者の生まれは人間的な努力ではなく、神によるものです。頭がよく、理解力が優れ、天才に近い知恵があっても、それだけでは信者にはなりません。神によって生まれるからです。神のみ心が関与するからです。長崎に、私たちの周りに、神によって生まれる人々、光の子供たちを増やしてくださいますように祈ります。一人ひとりが光を体験するとともに、光らせる人生を以て神様の栄光を表すものになりますように祈ります。

14節をご覧ください。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」イエス様は恵みとまことに満ちた方です。律法はモーセによって与えられましたが、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、父のふところにおられるひとり子、イエス・キリストを、神が説き明かされたのです。

この時間、私たちの心に、イエス・キリストを私たちの主として受け入れますよう祈ります。その名を信じる信仰をくださいますように祈ります。その光の世界に人生を体験的に投資できますように祈ります。私たちの人生の真の光となられる主・イエス・キリストを感謝賛美いたします。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23