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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その18 --> 問題紙

イエスを通してでなければ

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御言葉:ヨハネの福音書 14章1節~14節
要 節:ヨハネの福音書 14章6節 「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」

イエスさまは約30年間、ヨセフの子供として、田舎の大工として暮らしていました。しかし、神のお呼びを受けてから約三年間ほど、神の御子として、神様の願いに沿って生きる人生を過ごしました。その生き方は自分を捨て、自分の十字架を負う生活でした。神様は何を願っていて、神様はどのようなことを求め、神様はどんな生き方を願っているのかを、真剣に考える三年間でした。イエスさまは「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」というお言葉を受け入れてから、徹底して神の御子としての生き方に専念しました。その間、このようなイエス様の生き方に感動してご一緒してほしいと、弟子となった人々がいました。

イエスさまはもうそろそろ、この世を去って、父のもとに行かなければいけない時期が近付いていることに気がつかれました。イエスさまは最後の遺言を弟子たちに伝えました。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」一言でいえば、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。これは人間に求められる最高の美しさです。そして、人間社会を救い出す、最高の戒めです。イエスさまは弟子たちはこのような最高の美しさ、最高の戒めを、身を持って実行する人になることを願っておられました。

弟子の中で首弟子であったペテロは、「主よ。どこにおいでになるのですか。」と質問しました。「どこにも、ついていきます。」という意味でした。しかし、イエスは答えられました。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」神の御国のことを指しました。神様が導いてくださる道のりを指していました。それはイエス様に課せられた道のりで、弟子たちがついていこうとしても行けない道でした。イエス様の道を、イエスさまが行き、弟子たちの道を、弟子たちが行くからでした。しかし、ペテロは言いました。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」ペテロはいのちを捨ててでも、愛するイエスと一緒に行動をすることを願いました。しかし、イエスは答えられました。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

イエスさまが行く道は十字架の道のりでした。唯一、救い主のみが行くべき道のりでした。全人類の罪を背負って、十字架の上で死なれる、最高の極刑を背負わなければいけない道のりでした。神様によって課せられたこの道のりを、イエスは行く決心をしておられました。その道を、弟子たちには課せられませんでしたし、ついていけないものでした。ペテロがいのちを捨ててでもついていく、と決心した時、イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

弟子たちに課せられた戒めは、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。愛すること、隣人を自分自身のように愛すること、これが弟子たちに課せられた道のりであり、使命なのです。いずれにしても、弟子たちはイエスがいなくなるとか、自分たちとしてはついていけない道を行くと言っているので、心が騒いでいました。イエスさまがいなくなることへの心配がありました。彼らは一人残されて、さびしい存在になることへの心配が生じました。すると、イエスは彼らに言われました。

14章1節をご覧ください。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」彼らの心配事はなぜ起こったのでしょうか。それは神様への信頼が失われているためでした。イエス様への信頼が失われていたためでした。彼らの人生は失敗してしまうのではないか、頼りがいのあるイエスがもう、彼らから去って行ってしまうのではないか、と心配していました。しかし、イエスは心を騒がしてないけない、神を信じ、イエスを信じるようにと言われました。何を根拠にそのようなお話をされるのでしょうか。

2節をご覧ください。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」まず、イエスさまは彼らのための住まいを用意しているので、心配する必要がないといわれました。彼らが行くところ、目的地が決まっているので心配することがないと、言われました。イエスさまはその場所を備えて、迎えに来る、と言っておられます。弟子たちはイエス様がいなくなることのため心配していますが、イエスさまは彼らとずっと住むことの出来る住まいを用意して、迎えに来るから心配はいりません、と言っておられるのです。その国は神の国です。神様が治められる国です。神様が主人となり、神様が指導をしている国です。平和と喜びが満ち溢れる国です。そこに、場所を備えて、迎えに来ると約束されたのです。そのところに行く道を、弟子たちも知っていたのです。

しかし、トマスはイエスに言いました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」弟子たちはイエスのいく道を知っていたはずでしたが、トマスは知らないと言い切りました。すると、イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」神の国に行く道はイエスがたどった道のりでした。神様への従順と、十字架の道のりでした。徹底して神様を中心とした道のりでした。神様が用意した道を黙々とたどった道のりでした。神を愛し、隣人を愛する道のりでした。

イエスは彼らに言われました。「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」しかし、このお話にもピリポは理解を示せることができませんでした。ピリポはイエスに言いました。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」すると、イエスは彼に言われました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」

この御言葉から私たちはイエスさまが神様であることを悟ります。イエス様の行いは神様の行い出会ったのです。私たちがイエス様について理解するのなら、神様について理解することになります。イエスさまはどんな方ですか。自分を捨て、自分の十字架を負い、そして神様の願いに沿って生きた人です。その人生が神様の栄光を現した人生です。その願いに沿って生きていたがために、神様の最高の栄光を浴びせた人生でした。最後の最後まで、裏切ったユダを愛し続けた人生でした。イエスさまは神様の陰であり、イエスさまは神様でした。

14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。 14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。 14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23