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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その17 --> 問題紙

互いに足を洗うべきです

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御言葉:ヨハネの福音書 13章1節~17節
要 節:ヨハネの福音書 13章14節 「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」

今日の御言葉には当時、イエスが弟子たちの間では「主であり師である」と呼ばれていましたが、奴隷や下部がやるべき仕事の、足を洗う場面が出ています。イエスはその後、こう話しています。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」今日はこの御言葉の内容を勉強したいと思います。

1節をご覧ください。さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された、とあります。この世を去って行くとはこの世の人々とさよならを告げる日を指します。家族と、友人と、見える自然とさよならを告げて、死んでいくことを指します。イエスは十字架の上での、苦難の死を遂げていかなければいけない時期が来ていることを告げ知らされたのです。普通、このような時期になると人間は遺言を残したくなります。やり遂げることができなかった、惜しむ心を持って、大事な遺言を残します。その時、イエスは何をされましたか。1節はその時、自分のものを愛されたとあります。また、その愛を残るところなく示された、としています。イエスは最後、死ぬことが知らされた時、自分とかかわるものを愛しました。しかも、愛しなかったことを悔やむのではなく、その愛を残るところなく示されました。最後の最後まで、愛を表現した、とあります。

その具体的な説明が2節から示されています。夕食の間のことでした。イエスは弟子たちと最後の晩さん会を催しました。弟子たちと最後となる食事会を考えました。しかし、その時「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」と記録しています。イエスを売ろうとする思いを入れていたとは、その顔からすでにその様子が見え見えだったことが分かります。イスカリオテ・ユダはどのタイミングで、この夕食会場を離れ、イエスを密告すれば一番良いかと考えていたのでした。最後の晩さん会で、弟子の一人がこのように企んでいることが分かった時、普通なら厳しく指摘して、感情的になりがちです。しかし、イエスはそうはしませんでした。万物が自分の手に渡されたこと、父から来て、父に行くことへの確信等が満たされている時、彼らを厳しく叱ることが当たり前のようですが、そうしませんでした。

4節をご覧ください。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められました。彼らは晩さん会上に足も洗わずに入ってきていました。彼らには足を洗ってくれる下部がついていないので、自分で足を洗うべきでした。いやむしろ、お互いに足を洗って晩さん会上に入るべきでした。しかし、彼らはバラバラでした。ユダはイエスを売ろうとしていました。一人一人洗いながら、イエスはシモン・ペテロのところに来られました。その時、ペテロはイエスに言いました。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」この言葉の中には、足を洗うべき人は自分自身で、足を出して、洗ってもらった弟子たちであることを主張していました。当然のことながら、足を洗うのは先生がやるべきことではない、いうことをアピールしていました。すると、イエスは彼に応えて言われました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」これは「そうさせてもらいたい」という要望でした。今は理解できないかもしれませんが、そうさせてください、とのお願いの言葉でした。しかし、ペテロは拒みました。「決して私の足をお洗いにならないでください。」ペテロとしてはそれは許しがたい、そうなってしまうと困る、という強い信念がありました。このようなことが前例となるのは嫌です、と断りました。しかし、イエスは答えられました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

ペテロはイエスとの関係が師であり主である関係でした。尊敬する方、主、師匠として考えていました。そのような関係を作りたかったのでした。弟子である自分は師匠を支え尊敬し、師匠は弟子たちを指導する関係の中で、お互いに関係性が結ばれるものとみていました。しかし、イエスは弟子のペテロとの関係について言いました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」これは何を意味するものでしょうか。イエスはペテロと、弟子と師匠の関係以上の関係を願っていました。弟子たちは汚い足をイエスに出し、イエスは汚い弟子たちの足を洗う、そのような関係を作りたかったのでした。

イエスと言えば、師匠として考える人も、預言者として考える人も、神様として考える人も、主として考える人もいるでしょう。しかし、イエスは弟子たちとの関係について、足を洗う関係、でなければ何の関係もない、としていたのです。イエスとの関係は、常に汚い足をその前に出して、洗ってもらう関係なのです。汚くなった足を洗ってあげたい、しもべの気持ちを持って、関係を結びたい、その愛を受け入れる関係なのです。そのものすごい愛に包まれることなのです。その想像すら許されないほどの、完璧な愛情に身を任せる関係なのです。そのような関係でなければ、イエスと関係は無駄なのです。もったいないのです。私たちは全幅的に、その愛情に包まれ、信頼関係を結ぶことにより、正しい、イエスとの関係性を作ることができるのです。これがイエスと弟子の正しい関係なのです。

シモン・ペテロはその話を聞いて、言いました。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」すると、イエスは彼に言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられました。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのでありました。水浴したものとは、クリスチャンを指します。クリスチャンは水浴は要りません。汚くなる足以外に、手も頭も洗う必要はありません。

12節を見ると、イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」

私たちは祝福された人生を送りたいと願っています。私たちは称賛され、尊敬され、恵まれた人生を送りたいと願っています。どのようにすれば祝福された人生を送ることができますか。イエスは言われます。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」これは「互いに愛し合いなさい」という言葉に繋がります。「神を愛し、隣人を愛しなさい」という言葉です。どのようにすれば、私たちは祝福されますか。人生が美しく仕上がりますか。私たちの主人である、神を愛することです。そして、人々を自分自身のように愛することです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23