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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その15 --> 問題紙

良い牧者であるイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 10章1節~10章18節
要 節:ヨハネの福音書 10章11節 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

牧者とは羊を飼う人を指します。UBFでは牧者のことを、人々をイエス様に導く人のことを指し、スタッフ牧者、学生牧者と呼び、卒業しても牧者生活を続ける人々のことを指して、学士牧者と呼んでいます。牧者はこのようにUBFでは一般的に呼ばれていますが、それは今日の御言葉に基づいています。イエスを学び、イエスに習って、イエスの弟子になりたいと思うUBFのメンバーはイエスのことを良い牧者、牧者の模範としています。今日の御言葉でイエスは自分自身のことを指して、「良い牧者」としています。なぜ、イエスは良い牧者なのか、どんな人々のことを指して、良い牧者とするのか、今日の御言葉を通して学び、私たちも一人一人、良い牧者になりますように祈ります。

10章に入ると、イエスのたとえ話が始まります。1節から5節の間がその内容となっています。イエスが弟子たちにお話しされたたとえ話が何でしょうか。1節から5節の御言葉を読んでみましょう。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

イエスが生きていた時代は、羊を飼う時代でした。羊は食物であり、羊の乳は飲み物でした。羊は彼らにとって必需品であり、大切な存在でした。生きている上でなくてはならない存在でした。羊が多い人は称賛され、豊かに食べ、豊かに飲みましたが、羊がない人たちは飲み物も、食べ物もありませんでした。羊飼いにとって羊は財産であり、誇りであり、顔でもありました。UBFでも同じことが言えて、多くの羊を養い、かっている牧者は称賛され、豊かに食べる立場にありますが、羊がない牧者となると何かとしょんぼりした生活に強いられるのが現状です。それはさておき、このような牧者にも二種類があると、イエスは見ていたのです。一種類は良い牧者であり、一種類は盗人で強盗だということです。あまりにも極端な分け方だと思うのかもしれませんが、イエスはその分け方をはっきりしています。良い牧者か盗人や強盗かで分けています。私たちはみんな、良い牧者を名乗っています。自分が盗人か強盗だと思うなら、偽りものであり、UBFメンバーとして生きることは赦されません。私たちはみんな、良い牧者を目指しており、良い牧者になりたがっています。良い牧者を目標として生きているのが、UBFメンバーなのです。それでは、どのような人が良い牧者か、イエスははっきりとその生き方を示しています。

第一に、良い牧者は羊のかごいに入るとき、門から入る人です。

牧者は羊たちを囲いに入れて育てます。囲いは門があって、門から出入りさせるのです。牧者は門を開けて羊たちを出這入りさせます。しかし、盗人や強盗は門から入らないで、囲いを越えて入ります。なぜでしょうか。門には門番がいるからです。門番が知らない人に門を開けることはないのです。盗人や強盗は門番に顔を見せることができないのです。門番は彼らの顔を見るだけでもすぐ見分けることができるからです。

6節を見ると、イエスはこのお話をたとえ、つまり、羊飼いや羊、羊たちが暮らす囲い、門番等の例えを持って説明をしているので、イエスのお話の意味が良く分かりませんでした。そこで、イエスはそのたとえ話について分かりやすく、もっと詳細に説明しています。7-10節をご覧ください。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

イエスはご自分のことを指して、羊の門であるとしています。良い牧者が出入りする門であるということです。良い牧者はこの門から入る人です。この門から入らないで、囲いを越えて入る人は盗人であり強盗だとしています。ですから、良い牧者はイエスという門を通して、羊に出会い、イエスという門を通して羊を導き、彼らを牧草に連れていくのです。つまり、イエスという門を通して仕事を始め、イエスという門を通して仕事を終える人です。もし、牧者がイエスという門を通さずに羊と出会い、羊たちを導くのなら、それは盗人であり、強盗なのです。それでは、イエスという門を通して出会い、イエスという門を通して導き、イエスという門を通して仕事の整理をするとは何を意味しますか。それはイエスの教え、イエスの言葉、イエスの生き方、イエスの示された人生の模範を通して羊たちと関係性を結ぶことを意味します。その話にイエスの教えが生かされず、言葉が通用しない関係は牧者と羊の関係ではないのです。自分を良い牧者と呼び、羊たちと関係することを望むなら、その間にはイエスが介在すべきです。

もう一つ、良い牧者は羊のために命を捨てます。

11節をご覧ください。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」良い牧者はイエスの教え、生き方、その模範を介在にして、羊と関係を結ぶ人であると定義していましたが、もう一つの良い牧者の定義を、イエスは「羊のために命を捨てる人」と定義しています。良い牧者でなく羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。羊のために自分を犠牲することがないのです。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。羊たちは命が奪われ、狼の餌食になってしまいます。良い牧者は羊のことを心にかけて、羊を守るために自分のいのちを捨てる人です。

いのちを捨てるとは犠牲することを指します。いのちを捨てるとは自己主張しないことを指します。いのちを捨てるとは隣人を、自分自身のように愛することです。イエスはご自分のことを指して、良い牧者であるとしています。なぜでしょうか。それは神から受けた命令に従順し、十字架の苦しみと悲しみに入られたからでセう。良い牧者とは何よりも、神様の願い、神様の導き、神様の命令に自己主張するのではなく、素直になる人です。

どんな人が神様の命令に自己主張しない、良い牧者でしょうか。それはいつも喜んでいることです。現在の環境と状況に左右されることなく、喜ぶことです。また、絶えず祈ることです。絶えず祈るとは、自分を信頼せず、神に信頼を置くことを指します。また、すべての事について、感謝することです。不幸に見えることがあっても、神への感謝を絶えないことです。これが、キリスト・イエスにあって神がわたしたちに望んでおられることです。

最後に、良い牧者は羊を知っている人です。

14節をご覧ください。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」良い牧者とは羊のことを真剣に考えるべきです。羊のことを自分のものと思うべきです。羊のことを研究すべきです。そして、彼の立場、彼の気持ちに同情すべきです。それが良い牧者の条件です。牧者の願いや意思を主張するのは盗人であり強盗の姿です。

私たちがどうすればよい牧者になりますか。イエスを通して教えることであり、自己犠牲を甘受することであり、羊について深く考える人です。私たちが家族で牧者になり、キャンパスで牧者となり、日本で牧者となり、世界で牧者となりますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23