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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その14 --> 問題紙

神のわざ

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 9章1節~9章12節
要 節:ヨハネの福音書 9章3節 「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」

今日の御言葉には生まれながら盲人となっているある物乞いが登場します。イエスさまと弟子たちが道の途中に見つけた人です。生まれながら盲人となっていて、目が見えないので、道の途中、不便な生き方をしている彼を弟子たちはかわいそうに思いました。イエスさまも目の当たりにしている彼の様子を見るや、彼に対する同情心がわいてきました。私たちも同じく、道端で、杖を持って歩く人が見つけられるとかわいそうに思うのです。人の助けを受けながら道を歩く人を見つけると同情心が生まれます。本文中の盲人はしかも、乞食でした。その両親は無責任な人でした。彼は一人で、不便な体を持って人生を生きるしかありませんでした。

1-2節をご覧ください。「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られたました。弟子たちは彼についてイエスに質問して言いました。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』弟子たちは彼がこんなにかわいそうな人になったのには原因があるだろうと、思いました。その原因が知りたくなりました。その原因が分かれば、何かとすっきりしそうでした。彼が罪を犯したとしたら彼のせいだし、その両親が罪を犯したとしたらその両親のせいだからでした。しかし、その原因がわかったって、彼にとっていいことは何一つありませんでした。悪くなっている彼の状態が改善されることでもありませんでした。その両親が罪を犯したことで、彼が盲人になったとしても、両親に悲しみを増すばかりでした。しかしながら、私たちは原因を探りたいものです。弟子たちのように、その原因を追及しておきたいものです。私たちは考え方のどこかに、原因を探っておきたい気持ちが働きます。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』

イエスさまは何とお答えになりましたか。3節をご覧ください。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」まず、イエスさまは彼が生まれつきの盲人になったのは、罪の原因ではないと、断言されました。これは悲しい彼の状態を見ているイエス様の考え方でした。また、これは悲しい状態、さびしい状態、わけがわからない状態を見ているイエス様の見方でした。イエスさまは生まれつきの盲人を見て、彼が問題だとか、彼の両親が問題だとかを考えませんでした。イエスさまは生まれつきの盲人が道端で物乞いをしていることを見て、思いました。神のわざがこの人に現われようとしている、と。イエスさまは彼のために何ができるか、を考えました。イエスさまは原因を探ることをやめて、今、かわいそうな状況を打開できることが何か、を考えました。悲しい状態、厳しい状態、さびしい状態を見て、いったい、なぜ、このようになったのかと問いただすより、今、神様はこの状態で、何をしようとされるのか、考えました。イエスさまは何かの原因を追及する研究者ではなく、彼のために今やれることを探し出す、実学者でした。

イエスは言われました。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」イエスは働けるからだがあること、動ける力があること、盲人のためにやらなければいけないことが与えられていることを、感謝しています。イエスさまはこの世にいる間、この世の光として使わされた神様に感謝しています。今、私に任せられた仕事に前向きに取り組んでいます。神様が、今、イエスに何を求めているのか、熟慮しています。イエスさまは6節を見ると、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。イエスはできること、持っていること、今やれることへと行動を移したのです。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」イエスは彼を悲しくさせている、目に直接的なタッチをしました。イエスさまができることを精いっぱいやりました。イエスさまは祈りを持って、できる最大な配慮をしました。イエスの誠実な行動に感動した彼は行って、シロアムの池で洗いました。すると、見えるようになりました。神様はイエス様の行動を祝してくださいました。

私たちの本性は弟子たちのようです。かわいそうな人々の前で、彼らをかわいそうにした原因を探して、その原因を追究したくなります。いくら考えても分からない、罪の追求をしたり、いくら究明しても正解が分からないものに時間を通夜したりします。しかし、イエスはそうしませんでした。イエスは誰の罪でもない、その原因を究明するより動きました。働きました。彼のために、かわいそうな人のために、助けが必要な人のために、そして、今できることを見つめました。真剣に取り組みました。神様はそのイエスの行動に光を与えてくださいました。祝福を注いでくださいました。イエスの行動には神への愛と確信、そして目の前にある隣人への愛情に満たされています。それが律法であり、それが私たち人間が守るべき規律なのです。

神様、このしもべが、神様への信頼を忘れず、隣人を愛し、今できることを行動に移すものとなりますように祈ります。そして、神様の祝福を頂くものとなりますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23