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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その13 --> 問題紙

真理はあなたがたを自由に

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 8章31節~8章47節
要 節:ヨハネの福音書 8章31-32節 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」

今日のタイトルは「真理はあなた方を自由に」します、です。これはイエスを信じたユダヤ人たちに言われたイエスの言葉です。

31-32節をご覧ください。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」この言葉の中には、真理について、自由について、弟子について語っています。弟子になれば真理を知り、その真理が自由を与えると教えています。信じた彼らに与えたイエスの御言葉です。彼らは何を信じたのですか。

28節からイエスは彼らにこう話しています。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」

イエスは神の御心にかなうことをしました。十字架の道が示されたとき、誰もその十字架の道を知らずに、同意もせずに、理解しようともしなかった時、むしろ、愚かな人として取り扱う時、イエスは十字架の道を選ぶ決心をしました。自分からは何事もせずに、父が示された十字架の道を選び、その道について語りました。十字架の道を選択し、十字架の道を決心しました。十字架の犠牲を決心しました。父の教えに疑うことなく、自分では何事もすることをせず、その教えにとどまりました。同じように、イエスの語りと教えを信じる人々がいました。十字架の道を示すとき、十字架の道を行く決心をしている時、その奥義を語るとき、イエスを信じてついてくる人々がいました。イエスが一人、神の教えに従って十字架を決心し、十字架の道を選び、何かをすることより、神様が示された人々の罪のために十字架の犠牲を決心した時、神様は一人イエスを寂しげにされませんでした。一人残されることはしませんでした。神はいつも、その御心にかなうことを行い、イエスの心に自由と喜びをあふれんばかりに注がれました。真理を悟らせました。真理は十字架であること、犠牲であること、人の代わりに苦しみ、悲しみ、代わりに死ぬことであることを教えてくださいました。また、それを何事かをしようとするより、素直に受け入れた時に、イエスの心に自由が広がりました。真の喜びと賛美が広がりました。イエスは信じ切れない話に反応し、イエスを信じる人々に対して語りました。

『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』信じた人々がとどまるべき、イエスの言葉とは十字架の犠牲であり、神の御心への従順であり、自己義を打ち壊し、素直になることです。自分では何事もせずに、父が教えられたお通りに、イエスが十字架を背負ったように、そのように、人生の道のりを歩むことです。生きておられる神様が、隣にいて、今も導いてくださることを確信し、現在の環境や状況に、犠牲と十字架を背負うことです。その教えにとどまるのなら、私たちはイエスの弟子です。そして、私たちは十字架の御血が、犠牲と従順が、真理であることを悟ります。その道が救いの道であり、その道が人を生かす道であり、その道がいのちの道であることを心から悟りえるのです。私たちには喜びと自由に満たされます。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』

ニュージャージーでNJUCA学校を運営しているShin先生は、真理について以前、「真理は知識であり、自由とは得られた知識から来る幸せと心の喜び」だと考えていました。しかし、それは神様の無い世界で理解した知識であり、神様の無い、無神論者たちの真理であることを悟りました。後々、彼は聖書が語り教える真理とは神様そのものであり、またそれは、イエス・キリストであることを悟りました。イエス・キリストそのものが真理であり、十字架が、犠牲が、理解と愛が、真の真理であることを悟りました。イエス・キリストが受け入れ難く、十字架の道が従順できないとき、真の自由について語ることはできないことを悟りました。彼はアメリカにおいて「キリストの前に跪く教育哲学」をもとに新しい教育アカデミーを提案しているのです。

私自信も真理を、また、自由を、Shin先生のように理解しているところが多いものです。神様そのものが、キリストそのものが、真理であると受け入れるのは至難の業です。説明しきれず、分かりづらいものです。しかし、聖書は最初から最後まで、神様が、イエス・キリストが真理であり、その行いの十字架と犠牲が、その方が教えた愛と従順が、この世を救い出し、人々を救いに導く真理であることを教えています。私たちの体はなかなか強い不従順の身になっているのです。自分で何かをしなければ救いは得られないものと考えたりします。しかし、聖書はイエス・キリストの十字架の死が、十字架による救いを示された神様の願いに従う従順が、また、イエス・キリストが新しい教えとして示された愛が真理であり、その真理に従い生きるときに自由があると教えています。真の自由とは罪からの自由であり、悪霊の要求と誘惑からの自由です。聖書は私たちがこの神様にひれ伏すこと、イエス・キリストに従順すること、その前で跪いて祈り、従うことが真理であると教えています。イエスさまは言われます。

『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』

彼らはイエスに答えていいました。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。イエスが言われる自由とはどんなものですか。彼らは自由だと思っていました。イエスは言われます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」自由とは罪からの自由を意味しているのです。自由とはイエス・キリストの中から得られるものです。イエス・キリストの十字架とその死を受け入れ、得られる信仰による義、信仰により得られる真の自由を指します。自由は罪から自由になるとき、得られるものです。誰も、罪にとどまっている時に、自由はないのです。しかし、罪から逃れる道を切り開いた、信仰による十字架の道、これが自由を与えてくださいます。

『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23