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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その11 --> 問題紙

生ける水の川

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 7章25節~52節
要 節:ヨハネの福音書 7章38節 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

イエスはしばらくの間、田舎のガリラヤに移り住んでいました。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたからでした。数も多かった弟子たちも一人一人イエスを離れていました。兄弟たちもイエスの行動を批判していました。兄弟たちは今度の「仮庵の祭り」のときに、その力を発揮してほしいと思いました。しかし、イエスは兄弟たちの言いなりにはしませんでした。仮庵の祭りには登りませんでした。しかし、途中から祭りに参加しました。

今日の本文の25節をご覧ください。エルサレムにはイエスについて色んな噂が流れ始めました。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。」彼らはキリストが神から来ていることを知っていました。けれども確信がありませんでした。イエスは宮で大声をあげて言いました。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。」彼らに確信がないのは、神様への知識がないからででした。イエスは言われます。「わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」イエス様の確信は神様の存在と神から出たことでした。イエスは彼らに神様の存在を、また、神から遣わされたことを伝えました。人々はイエスを捕まえようとしました。しかし、だれもイエスに手をかけた者はいませんでした。つかもうとする意志ははっきりしていたが、イエスをつまむことはありませんでした。ヨハネはその理由について次のように言っています。「イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」

イエスの時とは、イエスが捕まえられ、十字架につけられ、人類の罪のために死ぬことです。その時は定められています。その定めは神様により決められています。神様の時が、イエス様の時です。神様の定めが、イエス様の定められた時なのです。同じように、神様は時を決める方です。予測とは、預言とは、その神の時を見つめることです。イエスさまは神の時に敏感な方でした。神の時にエルサレムに登りました。神の時でないと思う時期には動きませんでした。私たちはどんなときに敏感でしょうか。決断に迫られ、ある決心をするとき、私たちは何を基準に決断をするのでしょうか。人々の声や友人の勧め、親の気持ちを優先する人もいるでしょうし、学校の先生に、あるいは好きな人の声を優先する人もいるでしょう。その時、イエスは神の声に敏感でした。神様に尋ねました。神様に祈りました。神様が確信を与えないときには、動きませんでした。しかし、神様が確信を与えるとき、イエスさまは命の危険を感じる「エルサレム行き」を決断しました。そのイエス様の時は、神様が見守りました。イエスのいのちも神様によって保護されました。人々がどんなに殺意に燃えていても、イエスをどんなに掴もうとしても、その時期を決めるのは神様でした。

私たちには人生を生きている間、色んな決断に迫られます。ある年になると、今までは指示されたことを真面目に実行すれば良かったのですが、これからは自分の声で、自分の力で、自分の判断である決断に迫られます。高校生が違い、大学生が違い、社会人として、親として、会社人として、様々な決断に迫られます。そのとき、私たちは誰の顔をうかがうのでしょう。神様の顔をうかがうべきです。神様は私たちのいのちを保障してくださるからです。神様は私たちの時を定め、私たちの人生を導いてくださいます。信者は決断の相談を神様にする人です。

群衆のうちの多くの者がイエスを信じていました。それを聞いた祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わしました。しかし、イエスを捕まえることはできませんでした。イエスは祭りの大いなる日に、祭りの最後に日に、彼らに一つのメッセージを伝えました。大声で叫びました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39節はこのメッセージを補足しています。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」と。

渇いているとは満足できないことを感じることです。渇いていることは、満たさない気持ち、本当の真理に出加えなく、絶望している状態を指します。一生懸命探しても、見つけられず、渇いている人々に、主は招待状を出しています。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」聖霊は私たちに誠に喜び、真の満足をもたらします。一瞬で終わるのではなく、生ける水の皮が流れ出るようになるのです。

聖霊よ。来てください。私の人生に、私の兄弟に、私の子どもに、長崎の人々に、日本の国民に。。。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23