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2011年長崎UBF、イースター、その1 --> 問題紙

死者の復活

Messenger:MSN.David

御言葉:コリント人への手紙第一、15:35-58
要 節:コリント人への手紙第一、15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

今日は復活祭の礼拝です。復活祭とは復活を記念してささげる祭りのことを指します。復活とは2011年ほど前に、イエス・キリストが十字架の上に掛けられ悲惨な状態で死なれましたが、その三日目に驚くことに蘇られたことを記念して祭る祭りなのです。この復活話は、当時の人々への「希望のメッセージ」でした。そして絶望と悲しみに包まれていた人々に驚く力をもたらしましたし、人生の復活をもたらしました。それだけではなく、人生の宿命ともいわれる死亡世界においても、強い希望と喜びをもたらすものでした。人間は希望というものを食っていく動物であるとも言われています。イエス・キリストの復活はこのような希望をもたらした大事件だったのです。

この頃読んだ本の中に「不幸な国の幸福論」というタイトルで、小説家の加賀乙彦さんのエッセイ集があります。加賀さんは東大の医学部を卒業したのち、東京拘置所で犯罪者や死刑囚たちの医務技官として働いたことをきっかけに、精神医学に強い興味を持ち始め、フランス留学を果たした後は、東京医科歯科大学や上智大学で教鞭をとり、退官後は小説家として一貫して彼なりの幸福論を語り続けてきた精神科医です。「不幸な国の幸福論」の「不幸な国」とは日本を指しますが、彼が日本を、そして日本人をどれだけ愛しているのかがうかがえる本です。

東日本大震災の直後は、朝日新聞に次のようなメッセージを出していました。「日本人よ、あわてふためかず、災害よりの復興を、少しずつでもなし遂げていこうではないか。放射能もれに絶望せず、原子爆弾の惨禍から立ち直っていった過去を思い出そうではないか。食料品の買いだめに夢中になるよりも、おたがいに助け合って、この災禍を乗りこえようではないか。かつて、爆撃と原子爆弾の痛苦にのたうちまわった歴史を思いだして、冷静に津波の被害や故郷の町の喪失を、再建しようではないか。日本には再建という大きな希望が残されている。(朝日新聞2011.3.29)」と。加賀さんは戦後、日本が果たした復興を思い出して、今の災害を乗り越えようではないかと語っていました。

復活祭はイエス・キリストの復活を思い出して、絶望と悲しみに包まれていた弟子たち、ローマの兵士たちの目が恐ろしくなり家のドアをロックし、外に出て行こうともしなかった人々に大胆な勇気と力を注いだ事件でした。そのどよめきと驚きがあまりにも強かったがために、信者たちは復活祭を大事にし、毎年のように祭る祭日としているのです。イエス・キリストの復活を思い出すごと、また、神様の存在を思い出すことは、私たちに重くのしかかる絶望や悲しみが吹っ飛んでしまうからです。 ナチス時代、ドイツの集団刑務所に収容されていた経験を持つ、ヒュゴ・グリーンさんは1944年の寒い冬の夕方に起きた刑務所生活の一部を本の記録として残しています。子どもであった当時、父親と何名かの大人たちが集まり、収容所内ではめったに手に入らないバターを持ってきて、ローソクを作り、ユダヤ人の祭りを準備していたのです。グリーンさんは食べ物がない中で、貴重なバターをローソクとして浪費するのは愚かなことだと反発をしていたのです。父親はそのグリーンさんに「あなたも経験しているように、人間は三週間、食べなくても生きながらえられるのだ。あなたも知っている通り、私たちは三日も飲み物がないまま生きていたのです。しかし、あなたも知っている通り人間に「希望」がなくなれば、もう生き伸びることはできない。」毒ガスの部屋に運ばれ、順次死んでいく中にいた彼らには「希望の神様」が存在していたのです。

この復活の事件があった約2011年前、イスラエルの小さい町には一つの希望と夢が沸き起こっていました。長い期間、ローマの植民地として暮らしていたイスラエルの青年たちの中では、もうそろそろイスラエルはローマの支配はら独立し、御言葉の預言通りメシアの国が到来すると信じていました。その希望と夢があったがために、彼らはイエス・キリストの弟子となり、三年間、父親も、船も、家族も捨ててイエス・キリストと生活を共にしていました。しかし、あっという間にイエス・キリストの死が目の前に迫っていました。この事件はあまりにも彼らを絶望に追い込む、気を失わせるものでした。イエスさまが死ぬことへの予告をした時、弟子たちが受けた衝撃はあまりにも強いものでした。失望したイスカリオテユダは怒りと憤りのあまり、師匠・イエスを売り出しました。

イエスさまは予告通り、あの言葉は嘘であってほしかったのですが、十字架につけられ悲惨な死を迎えたのでした。弟子たちの夢と希望は砕かれ、完璧に抹殺されることを確認しました。彼らの前には希望がなくなり、絶望と心配と恐れに包まれていました。しかも、彼らはイエス・キリストの弟子であったがため逮捕状が配られ、指名手配されていました。家の戸を固く閉めて、恐ろしいあまり外を歩くことすらできませんでした。彼らの状態は悲惨そのものでした。死んだ方がましだと思うほどでした。

いったい彼らにはどんな希望が待ち受けていたのでしょうか。彼らには希望がまったくありませんでした。イエス・キリストが十字架につけられて死んでから一日が過ぎても、二日が過ぎても、何の変化がありませんでした。むしろ、イエス・キリストの墓の前には武装したローマの兵士たちが待ち受けていました。イエス・キリストの人気も、そのお力も全くの物語となり、消えてゆく寸前でした。その三日目の朝、女たちは悲しみにもだえながら、やっと動ける安息日の朝早く、イエス・キリストの死体に香油でも塗り、最後のお告げをしようと、墓に上る女たちは墓の前を塞いでいるあの岩をどのようにどけようかと心配していました。しかし、突然、地が揺れ動き、墓の入り口をふさいでいた岩がとりのけていました。女たちは驚き、墓の中を覗いてみると、墓の中には死んだイエス・キリストの体の代わりに光る御使いのような正体がありました。墓の入り口を守っていたローマの兵士たちは顔が白くなり走り回っていました。そして、御使いの声が聞こえました。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

マリヤは依然として疑っていました。死んだイエスを探していました。復活されたイエスが「マリヤ」とお呼びになった時、驚き、「先生」と近づこうとしました。しかし、復活されたイエスは言われました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

イエス・キリストの弟子たちはみな、解散していました。二人の弟子たちは故郷に帰る途中でした。道端で、ある人が語りかけていました。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」彼らは暗い顔つきになって、エルサレムでの出来事を語ってくれました。一緒に歩いていた人は「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、彼はモーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、イエス・キリストについて書いてある事がらを彼らに説き明かしました。二人はこの人の語りに心が熱くなりました。夕方になったので一緒に旅館に泊まることにしました。彼らの前でパンをとり、祝福する姿を見て、その方が復活されたイエス・キリストであることに気づかされました。彼らは興奮しました。故郷に帰ることをやめて、エルサレムに戻ることにしました。

エルサレムではもっと不思議なことが沸き起こっていました。弟子たちにあらわれ、疑うユダにはその手で傷口を触り、疑う人ではなく、信じる人になるよう助けました。ガリラヤの田舎に戻り、漁をしていたペテロとその弟子たちにも現れ、復活の様子を見せてくださいました。十一名の弟子たちが一緒に集まったところでは天の御国についてのメッセージをのべられました。弟のヤコブにも現れました。天に昇る前に、五千人の人々にも現れてくださったのだと、パウロは証言しています。イエスさまは十字架につけられてから三日目に復活され、四十日間、弟子たちに現れました。イエスさまは復活の事実を多くの人々に明らかにされました。時間を超えて、空間を超えて、どんなときにも、寝るときさえも、イエスさまは彼らとともにしていることを明らかにされました。そして、言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」ヨハネは復活後のイエス・キリストの様子を次のように預言しています。「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」

この時間も、イエスさまは私たちとともにしておられます。そして語りかけています。時間と空間を超えて、歴史を超えて、時代を超えて、私たちの必要に応じて関与しておられるのです。

以上が、聖書が教えるイエス・キリストの復活の物語ですが、いったい、この復活が私たちにどんな意味がありますか。一つは、イエス・キリストの復活は私たちを罪から完璧に開放してくださったことへのメッセージです。私たちは過去、現在、未来の罪の勢力にとらわれて生きる存在です。誰一人完璧な人はなく、少しの過ち、失敗、罪の重みに苦しむ存在です。人間は誰でも、多かれ少なかれ、これらの罪の勢力に重くのしかかった人生を生きるのです。しかし、イエス・キリストの中ではこれらの罪の勢力から解放され、神の民として生まれ変わる、復活があるのです。完璧な許しと、完璧は復活が私たちの目の前に現れたからです。

もう一つはイエス・キリストの中に希望がある、ということです。弟子たちは全く見えない絶望感にさいなまれていました。イエスさまは十字架の上で悲惨な死を迎えましたし、彼らにはもう、次の手を打つ気力も、希望もありませんでした。しかし、神様はイエス・キリストの信仰の通り、復活を成し遂げてくださいました。彼らには全く希望がありませんでしたが、神様の中には復活の驚く約束がありました。私たち人間の手からすれば、全く希望がないものも、イエス・キリストの中には復活があり、神様の中には復活の力があるのです。その意味で、復活は人間の真の希望であり、力なのです。この希望と力がある人に、勝てるものがありません。パウロはこれらの復活の希望を胸に、次のように叫んでいます。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。…。神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」と。ですから、信者の私たちは、固くたって、動かされることがなく、いつも主の業に励むべきです。今、主が与えてくださった仕事に専念すべきです。私たちに与えられた労苦が、主にあっては決して無駄ではないからです。

死者の復活がないとしている人々にパウロは言います。「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」

冒頭にも紹介した加賀さんはお医者さんですが、お医者さんとしていのちの不思議さに大変感動しているわけですが、特に、復活についても彼はその本の中に語っています。要約すると、次の通りです。「癌細胞は死んでくれない細胞の塊であるのです。私たちの体は死んでくれる細胞のお陰で生きながらえているのです。死んでくれる細胞のメカニズムのバランスが崩れ、細胞が死ななければ、命は生かされないのです。」血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるように、私たちの血肉の命が蒔かれると、御霊に属する体に蘇られるのです。初穂のイエス・キリストのように、復活はあるのです。イエス・キリストの復活があるのですから、神様の御言葉に願いを託した人々の願いは必ず実現するのです。神に不可能なことはないからです。死んだ後に復活があるように、神様のお約束に希望を託した人々には必ずお約束が実現される驚きの奇跡が待ち受けているのです。

Happy Easter !!


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23