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2011年長崎UBF、コロサイ人への手紙、その4 --> 問題紙

新しい人を着る

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御言葉:コロサイ人への手紙 3章1節~17節
要 節:コロサイ人への手紙、3章9b-10a節 「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」

信者とはどんな人でしょうか。信じる人のことを指しますが、いったい、何を信じる人でしょうか。へブル人への手紙を見ると、「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあり、神の存在を認めること信者の基本であると教えています。それと同時に、今日の御言葉でパウロは、信者とはキリストを信じることであることを強調しています。本来、クリスチャンとはキリストに気が狂った人々のこと、を指します。つまり、キリストに夢中であり、キリストに属していて、キリストについて精通している人々のことを、クリスチャン、キリストの人、信者、と呼んでいるのです。ですから、信者は神を認め、神の報いを期待するだけでなく、キリストについて理解を深めるべきであり、キリストについては自ら説明が必要な時には正確にその正体を言葉で表すことができる人のことを指します。パウロは今日の御言葉の最後にも、信者としての正しい姿について、17節で「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」とあります。パウロは見たこともない、お会いしたこともない、コロサイの信者たちに今日の御言葉で「キリストの中に根差しなさい」と強調しています。それでは、キリストの中に根差す、とはどんなことを指しますか。なぜ、キリストの人々はキリストに根差すべきでしょうか。

パウロは2章で、信者が生き返り、心が強くなり、感謝が生じ、喜びに充ちあふれ、以前の苦しみや悲しみから救い出されたのは、行いによるものではないとしています。食べ物を区別して食べているからとか、曜日を区別して生きているからとか、季節や祭りごとを忘れずに守っているからとか、決められた祈りの時間を守っているからではなく、キリストを受け入れ、キリストを信じ、キリストにによる聖霊の割礼を受けたからであると教えています。見えるものは確かに、キリストの影にはなりますが本来の力ではないのです。信者の力はキリストにあり、キリストの十字架と復活によるものなのです。

1節をご覧ください。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」信者の正しい生活の基本は、上にあるものを求めることです。上にあるものとは神に属していることを指します。地上の満足や喜びに属するものではなく、上にある満足とそれに属するものを追い求める生活をすることです。地上に属するものは、形であるとか、形式であるとか、見えるものですが、上に属するものは見えないものであり神様に属するものです。つまり、パウロはそれがキリストであり、霊的なものであると教えています。それでパウロは言っています。「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」信者とはは地上で生きていて、地上で生活していて、地上で暮らしてはいますが、その地上で区別され、特別に選ばれて、神に隠された存在だとしています。神に隠されたとは、神に保護されていることを指します。信者が信者になったのは自分の意志によるのだと思いがちですが、信者は神様により選ばれ、神により区別され、神により隠され、保護される特別な存在なのです。私たち信者が自分自身のことを「信者だ」と自負するのも、神様からの贈り物による確信なのです。このような、私たちはキリストが現れるとき、天の御国が来る時、私たちもキリストとともに栄光のうちにあらわれることが約束されていると、パウロは教えています。

ですから、信者は地上のことより、上のことを思うところに力を入れるべきです。地上のこととは具体的に何ですか。不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりです。これらのことをパウロは、殺してしまいなさい、と勧めています。殺すとはそのような考え方を追い出すことであり、抵抗することであり、そのような考え方を無くそうと努力することを指します。特に、パウロはむさぼりが偶像礼拝に近い、一番警戒すべきものであると指摘しています。むさぼりとは満足できない姿です。ついつい欲張ってしまうことを指します。別の言い方からすれば、むさぼりとはすべての物事に感謝がないことです。不満が多いことであり、心配事が多いことを指します。私たちはこれらのむさぼりを警戒すべきです。それは偶像崇拝なのです。神様を信頼しないことであり、神様への願い、神様への望みがないことです。これらの「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり」を殺さないと、私たちには神の怒りの中にすむようになります。なぜなら、私たちの間にはキリストが住まわれていて、これらの勢力には根底から抵抗するからです。キリストが住む場所がなくなると、そこにはもはや神様の祝福がなく、神様の怒りが存在するのです。

パウロは信者が特に、どのような感情を治めるべきであるのかを、詳細に説明しています。それは、8節「怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことば」です。パウロはこれらを、捨ててしまいなさい、勧めています。また、偽りは口から捨てるべきであると言っています。そして、パウロは次のように、その理由について言及しています。「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」信者が「怒り、憤り、悪い、そしり、口から出る恥ずべき言葉、偽り」を捨てなければいけないのは、古い人が脱ぎ捨てられているからです。新しい人を着たからです。パウロは信者のことを「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」としています。新しい人を着る予定であると、言わず、新しい人を着たのです、と現在形で説明しています。

ここで私たちは大事な事実を発見します。それは「信者」とは古い人は脱ぎ去られ、新しい人を着た、まったく新しい存在であることです。イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストにより霊的な洗礼を受けた人々は、イエス・キリストの十字架と復活により、その存在そのものがまったく新しい人を着て、変わった存在になっていることです。それが信仰の力であり、パウロが伝えた福音なのです。喜びの知らせであり、救いのメッセージなのです。ですから信者は古い人を、その行いと一緒に脱ぎ捨てるべきです。不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺すべきです。怒り、憤り、悪意、そしり、そして恥ずべきことばを脱ぎ捨てるべきです。そして、新しい人を着ている自分を認識すべきです。キリストの臨在を体験すべきです。キリストに属する「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける」るために追い求めるべきです。キリストの品性を望むべきです。キリストの品性がすべての生き方、すべての言動、すべての考え方を支配するように、願い続けるべきです。私たちは古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着たからです。13-14節を見ると、また、信者は互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合うことが求められます。私たちは十字架と復活により赦された、新しい人を着たからです。私たちはすでに、神からの赦しをその身につけているからです。そして、これらすべての上に、愛を着けるべきであると、しています。愛はすべての上に存在する、最高傑作であり、キリスト、そのものであるからです。新しい人は「愛」の結晶です。

これを見ると、古い人とは「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、怒り、憤り、悪意、そしり、そして恥ずべきことば」などでその中心人物には「私」が存在しますが、新しい人とは「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、赦し合、そして愛」なので、その中心人物には「あなた」が存在します。私たち「信者」は、考え方の根本を「私」から「あなた」へと移されたものです。信者は私を中心に考える人ではなく、あなたを中心に考える人なのです。信者は主語に「あなた」が存在する、特別に区別されたものです。

そして最後に、15節「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」とあります。信者は常に、キリストが私たちを支配するよう、祈るべきです。キリストと一体となるよう祈るべきです。何よりもキリストの言葉が心に豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌うことができるように望むべきです。また、これらすべては「ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝すべき」です。信者はキリストにより新しい人を着ています。信者の喜びと生きがいはキリストにあります。私たちが正しい信者として、キリストにより生きるものとなりますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23