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2011年長崎UBF、コロサイ人への手紙、その2 --> 問題紙

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Messenger:MSN.David

御言葉:コロサイ人への手紙 1章15節~29節
要 節:コロサイ人への手紙、1章25節 「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」

先週から勉強しているコロサイ人への手紙はパウロが一度も訪ねたことがなく、お会いしたことがない人々に向けての手紙です。訪ねたこともなければ、お会いしたこともない人々に手紙が書けることすら、不思議ですが、パウロはまるで、彼らの問題や彼らの根本を見事に、鋭く見抜いていますし、勧めています。昨日、聖書勉強している時に、ある兄弟が質問をしていました。あったこともないのに、行ったこともないのに、不思議ですね。しかし、それは不思議なことではないのです。キリストにイエスにある人々の望みは同じで、喜びも、心の奥底からの願いも同じだからです。

今日の御言葉で、パウロはコロサイ人たちの愛への感謝の気持ちを伝えつつ、彼らがかつてはパウロの同僚であり、同じく、神様の御業に仕えるしもべであるエパフラスから聞いた信仰の核心である「イエス・キリスト」について記録しています。私たち信者は信じる人ですが、何を信じる人ですか。イエス・キリストです。イエス・キリストのどんなことを信じる人ですか。その神聖、その行い、その神秘、また、キリストにより与えられた希望と力を信じる人です。何より、その力を信じるだけでなく、その力に頼り生きる人のことを指して、キリスト教徒というのです。へブル人への手紙を見ると、信仰について次のように定義しています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」信仰は神様がおられることを信じることであり、神様は近づく者たちに必ず、報い、祝福、喜び、平和、プレゼントをたっぷり与えてくださる方であることを信じることです。それだけでなく、信者とは実際の人生の中で、これらの神様の動きを体験的に経験していく人のことを指します。信仰は理論ではありません。実際なのです。

今日の御言葉でパウロは私たち信者の信仰の対象である、イエス・キリストについて説明しています。イエス・キリストはどんな方ですか。

15節をご覧ください。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です、とあります。神様を見た人はいません。神様は私たち人間の目に見られる、目のセンサーで認識できる、そんな形を持つ方ではないからですが、パウロはこの神様の形を間接的に見せてくださった方がいると説明しています。イエス・キリストを見ると、神様の様子や姿をかすかながら見ることができるとしています。イエス・キリストは神の形を人間の体に表現した特別な存在であると、パウロは説明しています。

もう一つ、パウロはイエス・キリストが造られたすべてのものより先に生まれた方であると、説明しています。つまり、すべてのものづくりの根源には「キリスト・イエス」の作りが生かされているということです。ヨハネの福音書を見ると、ヨハネはこのことを次のように説明しています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」同じく、パウロはヨハネの説明に補足をしているかのように、次のように説明しています。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」万物はイエス・キリストのつくりが生かされ、イエス・キリストの神聖が生かされ、イエス・キリストの本性が生かされて、作られたのです。

美しき自然、不思議な命、四季の調和、宇宙の調和、生物の不思議な生きざまはすべて、キリスト・イエスをおつくりになられた神様の原理が生かされているのです。見えるもの、見えないもの、権威や権力、主権や王座までも、不思議な力関係も、神様がおつくりになられたのです。イエス・キリストが限りなく美しいように、すべての権威や権力、主権や王座、自然や命の不思議、宇宙の調和や命の動き、すべてが賛美の対象であり、美しき表現の対象なのです。それは神様を賛美する賛美の声であり、神様に向けた被造物の歌なのです。結果的にいえば、イエス・キリストはすべての芸術、すべての喜びの根源にながれる神様のお姿なのです。

これに付け加えて、パウロはイエス・キリストが教会のかしらであるとしています。教会のかしらとは信仰の対象であり、目標である、という意味です。その理由が何でしょうか。イエス・キリストはすべての創造の始めでありながら、死者の中から最初に生まれた方だからです。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、更にはその十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。和解は神様と被造物の間の課題であったのです。和解がない中で、被造物と神様との間には不和が存在していたのです。しかし、地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解が成立したのです。イエス・キリストはすべての被造物の根源であり、和解の根源であり、教会のかしらとして、信仰の目標となったのです。

私たち被造物は、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのです。コロサイの人々も、神から離れ、自分勝手な道を歩み、神様と不和の関係にあったのです。神様と不和の関係になった人々は美しき様子がなくなり、悲しみと暗闇の勢力に屈して生きていたのです。しかし、イエス・キリストへの信仰は彼らを、このような悲しみと暗闇から解放してくださったのです。それは、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、私たちをご自分と和解させてくださったことを信じる信仰によるものです。信仰は私たちの人生を、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためです。私たちは私たちの一回だけの人生が、清く、傷なく、非難されることのないものになることを願っています。どのようにすればそのような人生になりますか。もう、遅いと思われがちですが、イエス・キリストへの信仰は私たちを清く、傷なく、非難されることのないものに導かれます。どのような信仰でしょうか。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架につけられ死なれたことを信じることです。この信仰により、私たちは神様との和解が成立するのです。神様の美しき創造の力が私たちの人生を覆い、美しい人生をつくりかえてくださるのです。私もその祝福に預かられた、祝福された一人です。暗闇と悲しみに包まれ、生きるしかなかった私でしたが、聖書勉強を通して、信仰の世界に導いてくださったのです。イエス・キリストが私の過去の積み、現在の積み、未来の罪を背負い、十字架の苦しみに耐え、死なれ、復活により、私の人生を支配していた暗闇の勢力を完璧に追い出されたのです。その後の私の人生は、暗闇が支配できず、光と聖霊が主人となってくださったのです。イエス・キリストの死と復活を信じる信仰は、私たちの人生を美しい本来の被造物に戻らせる神様の力です。

ヨハネの福音書3章16節は次のイに言っています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」わたしたちが、しっかりとしたイエス・キリストの信仰の土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまるなら、祝福されるのです。

パウロはこの福音をつたえる人として選ばれたのです。23節で、パウロはそのために受ける苦しみを喜びとしている、と説明しています。福音を伝えるには苦しみがあるのですが、非難されたり、罵られたり、パウロのように監獄に入れられたりと、苦しみが絶えないのですが、パウロはそれを喜びとしているとしています。それは、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしていると確信していたからです。キリストが受ける苦しみを担っているのだと確信していたからです。福音をつたえる人々の受ける苦しみは、キリスト・イエスが受ける苦しみなのです。パウロはその苦しみをキリストの代わりに受ける苦しみであると信じ、その苦しみを代わりに受ける喜びを感じ取っていたのです。それでは、パウロが具体的にになった福音をつたえるものの仕事が何でしょうか。

25節「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」神の言葉を余すことなく伝えること、がパウロの具体的な仕事でした。神の言葉を伝える、神の奥義を伝える、ユダヤ人、ギリシャ人だけでなく、異邦の人々にも神の言葉を余すことなく伝えることがパウロの苦しみが伴う仕事でした。パウロが伝えた福音、奥義とは、キリストであり、キリストにある栄光の望みのことです。パウロはなぜ、こんなにも神の言葉を余すことなく伝え、神の奥義を伝えようとしたのでしょうか。28節「それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」パウロはすべての人々がキリストの中で、成人になることを願っていたのです。キリストの中で、神様と和解し、創造の本来の味をアピールしながら生きる、真の成人にならせるためだったのです。

大学のキャンパスには多くの青年、成人たちが通っています。しかし、神様と和解されてない成人はまだ成人ではないのです。暗闇と悲しみに包まれ、創造の本来の味を発揮できず、むしろしぼんでいるのです。神の言葉を余すことなく伝えること、神の奥義を伝えることは、大学のキャンパスの若者たちを本来の味を発揮させる、イエス・キリストの切なる願いなのです。私は先週の御言葉を準備しながら、パウロがツラノの講堂で二年間、聖書勉強に励んだ時、コロサイの教会が造られたように、聖書勉強グループを使命の地において増やせるべきであると悟りました。金曜日の夕方、そして火曜日の夕方、聖書勉強グループがキリスト・イエスの苦しみの一角を担う勉強会として、何より、キャンパスの若者たちを、本当の成人とならせるためのグループとして成長させていくことができますように祈ります。パウロは強い信念と粘り強さを持ってこれを実現したように思いますが、29節は次のように言っています。「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」パウロは自分のうちに力強く働くキリストの力を感じていたのです。力強く働くキリストのを望んでいたのです。求めていたのです。

私たちがキャンパスに福音をつたえることができますか。福音をつたえ、神の言葉を広め、神の奥義を広めるのは力強く働くキリストの力です。私たちからのものではないのです。神様が私たち一人一人に、力強く働くキリストの力を各々、与えてくださいますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23