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2011年クリスマス聖書勉強、その3 --> 問題紙

救いの角・日の出であるイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書、1:58-80
要 節:ルカの福音書、1:78-79「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

Merry Christmas !! クリスマスを教会の礼拝としてお祝いする皆さんは、本物のクリスマスを迎える人々です。おめでとうございます。その意味で、本物のクリスマスの意味を学ぶチャンスです。クリスマスとはイエス・キリストの来られたことをお祝いする日のことです。イエス・キリストのお誕生パーティですね。日本は天皇の誕生日が休日となってます。そのお誕生をお祝いしながら、休みましょう、という意味でしょう。ヨーロッパーやアメリカはクリスマスイブとクリスマスの日が連休となり、盛大なお祝いムードにつつまります。イエス・キリストのお誕生をお祝いしたいからです。ローマの植民地であったイスラエルの田舎、ベツレヘムでお生まれになったイエス・キリストを、人々はなぜ、こんなにも盛大にお祝いするようになったのでしょうか。

今日はイエス・キリストの弟子であった「ルカ」が伝えるクリスマスの意味を勉強して見たいと思います。ルカは、イエスの親せきであり、当時のの予言者「ザカリヤ」の口を通じて、クリスマスの意味を教えてくれます。しっかりと、クリスマスの意味を勉強しましょう。

I.彼の名はヨハネ(57-66)

本文の58節の御言葉みると「月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。」とあります。エリサベツはイスラエルがローマの植民地であった時、ローマの新しい文化より、昔ながらの伝統を守り、お叱りを恐れず日本の慣習から言えば伝統の神社の住職を務めていた人・ザカリヤの妻でした。ユダヤ教の祭司であったザカリヤとその妻は、聖書の戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた、と記録されているので、その時代でも珍しい人々でした。しかしながら、彼らには子どもがいませんでした。彼らはもう年を取っていて、子がないまま、住職を務め、後継ぎの無いお坊さんのような存在でした。

しかしある日、ザカリヤが祭司職の習慣によって、神殿で香をたくことになりました。そのとき、ザカリヤは神の声に接したのです。「ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」これを見ると、ザカリヤは神様に願い続けるものがあったこと、また、それが子どもを下さるように祈り続けていたことが分かります。ザカリヤはこの話があまりにも信じきれないので、「信じられない。家内はもう年を取っております。」という言葉が漏れていました。彼と妻エリサベツはもう年をとって、子供を授かることは絶対あり得ない状況でした。しかしその中でも、祈り続けていたのです。祈り続けたザカリヤとエリサベツに、驚きの知らせが訪れたのです。「ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」喜びのお知らせが訪れるまで、願いを諦めずに祈り続ける人はその願いを獲得します。しかも、神様を信じながら願い続ける人は、120%の確率で、願いがかなうのです。

人は誰でも夢があります。願いがあります。もし、切なる願いがあれば、その都度、人は神の声のような不思議な応えに出会います。切なる願いがあれば、道が開かれます。私たちが別に、神様を信じなくても、切なる願いがあれば、就職の道も獲得することができますし、恋人だって手にすることができます。忍耐力と諦めない精神状態を持ち続けるのなら、人は、世界一高いスカイタワーだって作り上げることもできるのです。勉強だって、就職試験だって、願い続ければ手にすることができます。40近くなって教師になった人がいます。60歳になって大学に合格した人もいます。問題は、願い続けられないことであり、夢を持ち続けられないことにあります。しかしもし、願い続ける人が天と地を創造し、今もなお、私たちとともにいます神様を信じながら、その神様の力を頼りに、願い続けるのなら、その願いは必ず聞かされます。実現します。

私が良く知っているある青年は大学入試に失敗し、衛生士になる専門学校に通っていました。しかしながら彼はその生活に満足できませんでした。彼は別に神様を信じたわけではありませんが、絶対、大学に入りたい夢がありました。彼は専門学校に通いながら大学受験にチャレンジしました。専門学校に通いながらの受験勉強は甘いものではありませんでした。しかし、彼は大学に入りたい夢を諦めませんでした。彼は一流大学には及ばない成績でしたが、夢であった大学に合格することができました。彼はその大学の面接時に、こう質問されました。「あなたがもし、運よく、この大学に合格しましたら、どんな夢を持って大学生活を送りますか?」彼は迷いなく、こう答えたそうです。「研究者になることです。」彼の夢は大学に合格もしてないのに、大学の先生たちのような、研究者になる夢を持っていたのです。彼は結局、どうなったのでしょうか。彼の夢のように、大学で勤める教員として生きているのです。

私は今年、推薦入試で大学合格を手にした一人の青年を知っています。彼は高校の成績からしてとてもじゃない、大学に合格することはできないものでした。先生は彼に成績に見合う大学を推薦し、合格率を上げようとしましたが、拒み続けました。何を信じているのかと、先生は怒りました。親ももちろん、彼の勉強の度合いに腹を立っていました。彼の成績は競争できないものでした。しかし、彼の夢は研究者になることでした。彼は今年度、不思議な縁で、東京のある私立大学の推薦入試に合格しました。彼の状況を見る限り、無事に大学を卒業することさえできるのかと、心配するしかありません。しかし、もし、彼が研究者になる夢をあきらめずに持ち続けるのなら、きっと彼はこの道にしっかり立つことができるはずです。もし、彼が天と地を創造し、彼の人生とともにする神様を信じるのなら、なおさらのことです。120%の確率で彼は研究者になることでしょう。

聖書の神様は私たちが神様を信じ、夢を持つことを願っています。祈り続けることを願っています。しかも、どんなに悪い状況の中でも、どんなに可能性が低い中でも、自分を信じ、さらには神様を信じ、夢を持ち続けることを願っています。奇跡を夢見ることを願っています。しかし、その夢を諦めようとするとき、神様は怒ります。神様が不信感を募り、ザカリヤの口を封じ、しばらくものが言えないようにしたのは、ザカリヤが「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」という不信の声を口にしていたからです。不信の声があると、もう、夢は遠ざかってしまいます。諦めがあるところに夢の実現はありません。

神様は私たちが現実的な状況や環境を乗り越える夢を、持ち続けることを求めています。特に、神様からの夢を持ち続ける人は、神様からのプレゼントを手にすることができます。「月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ」のです。奇跡が起きたのです。月が満ちたとは、神様の時期になって男の子が生まれたことを指します。神様の奇跡が実現したのです。私が尊敬する人で、加賀乙彦さんがいます。小説家ですが、精神医学者でもあります。是非、高校生にも読んでもらいたかったがために、大学の推薦入試の課題図書としても推薦していましたが、彼はこう話しています。「わたしの人生に何かを期待するのではなく、私の人生が私に何を期待するのかを考えよう。」と。これは簡単に言えば、私の願う夢よりも、神様の願う夢を持ち続けなさい、という意味です。私はこのような人生を生きたい、このようなところに就職したい、こんな大学に入りたい、こんな人と結婚したいという夢よりも、もっと美しい夢はまた、私たちを幸せにする夢は、神様がご用意した人生を見つめることです。神様がご用意した人生とは環境や状況が作り上げるもの、私の意志や計画が加わらないもの、突然訪れる不幸や幸せの中に存在します。その「わたし」という人生が私に何を求めるのかを考えるとき、また、その中にある夢を持ち続けるとき、私たちは神様からのプレゼントを受け取ることができるのです。自分の夢ではなく、一方進んで、神様の夢を持ち続ける幸せな人となりますように祈ります。

さて、58節の言葉が続きますが、月が満ちてエリサベツは男の子を産みました。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜びました。エリサベツが子どもを産んで、八日目に、人々は幼子にユダヤ教の習慣に従って割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしました。「ザカリヤ家」がたたされることなく、続いたことへの喜びを込めて、彼らは「ザカリヤ」と名付けようとしました。しかし、母エリサベツは答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言いだしました。家系の習慣と今までの習わしを無視する発言でした。町の長老はもちろん、家系の主な人々は彼女の発言に憤りを感じました。そこで、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねました。すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書きました。"His name is John." これは何を意味しますか。ザカリヤとエリサベツは、人間の夢よりも神様の夢を大事にしていたことを意味します。人間の幸せよりも、神様がよしとするのなら、その道を歩みたいという決心でもあります。すると、どうなりますか。

64節をご覧ください。「すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」口が解けました。ものが言えなくなったザカリヤの口が解け、神をほめ称えるようになりました。自己表現ができなかったザカリヤが、自己表現できるようになりました。人間の幸せよりも、神様の願いを重んじたザカリヤはますます神様の導きと祝福に包まれたのです。

II.救いの角、日の出(67-80)

さて、口が開いたザカリヤは聖零に満たされて、預言をしました。その預言はイエス・キリストの来ることを予言したのです。その内容が何でしょうか。68-69節「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」救いの角を立てられたことを、預言しています。救いの角とは何を意味するものでしょうか。救いは「われらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである」と71節は補足しています。角はそのための武器であり、誇りであり、自慢です。われらの敵からの救いをもたらす武器、私たちを憎むものの手からの救いの完璧な軍装です。

角は私たちの敵から私たちを守り、私たちを憎むものを倒す強烈な力が有ります。また、この角は武器としてだけでなく、栄光であり誇りです。角を持つだけで、敵は逃げ去ります。角が有るだけで、警戒されます。ザカリヤはその角、救いの角を、しもべダビデの家に立てられたのだと預言しています。

また、76-79節「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」ザカリヤはイエスキリストをさして、日の出、として表現しています。

日の出は「力ある強烈なものとして、軟弱さを十分に補える方」を意味します。日の出はイエス・キリストをさします。日の出は救いの角とともに、いと高き所から我々を訪れ、暗黒と死の陰に座るものたちを照らします。日の出が照らすとき、私たちを虜にしているすべての勢力は解けてしまいます。イエスキリストが私たちの心に光を照らすとき、救いの角の力を発揮するとき、その人生は祝福となります。その足は平和の道にたどり着きます。ザカリヤはイエスキリストを指し、救いの角、日の出として表現しています。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23