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2010年長崎UBF、テサロニケへの手紙第二、その3 --> 問題紙

たゆむことなく善を行ないなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:テサロニケへの手紙第二、3:1-18
要 節:テサロニケへの手紙第二、3:13「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。」

「働かざる者、食うべからず」という言葉を知っているでしょうか。これは働こうとしない者は食べることもしてはならない、という意味で、怠け者を戒める言葉です。戦後に生まれたことわざだそうです。戦後の日本では、支配階級・悪徳商人・怠け者などを批判し、労働者階級の闘争意欲を鼓舞(こぶ)するために使われた言葉ですが、実は今日、勉強する「新約聖書、テサロニケへの手紙」に由来する言葉なのです。「働きたくない者は食べるな」とパウロはテサロニケの人々に教えていた言葉なのです。パウロはなぜ、このような言葉をテサロニケの人々に残し、また、二回目の手紙を持って彼らに同じような言葉を思い出させているのでしょうか。今日の御言葉を通して、パウロがテサロニケの人々に教えようとしていたこと、福音について学びますよう祈ります。

1-2節の御言葉をご覧ください。パウロは手紙の最後の言葉を述べています。「終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。」パウロは最後に、テサロニケの人々に祈りの支援をお願いしています。祈りの支援をお願いしているとは、彼らの主な活動の一つが、祈りであることが分かります。また、その祈りには力が伴なっていることが分かります。祈れば私たちとしては到底できないことも、神様の力を借りて成し遂げることができるのです。信者はこのような神様の不思議な力を認める人々であり、実際、神様の不思議な力により生きている人々のことを指します。それで、信者が集まる教会のことを、イエス様は「祈り家」と名付けられたのです。私たちの教会は神様にお願いをする場所であり、神様のお願いが実現されていることを称えることろです。

パウロは三週間ほどとどまっていたテサロニケの人々に、主の御言葉があなた方のところでと同じように、早く広まることを祈って下さい、と祈りの支援を求めています。テサロニケの人々の間に、神様の御言葉がどんなに早く広まったのかがうかがえます。言葉が広まるだけでなく、崇められるようにと祈りの支援を求めています。神様の言葉は信頼して、従順するところに不思議な力が現れます。また、そこに主の御言葉を崇められる雰囲気が作られるのです。パウロはテサロニケの人々が体験したように、主の御言葉を素直に信頼し、従順することが、また、御言葉の力が発揮されていることが、他のところでも起きることを求めていたのです。私たちは年度初めに、神様に願いを託しています。願いを託するとき、私たちは一つの御言葉をつかんで託します。例えば、「神を信じなさい」という言葉を持って、博士の学位を求めたり、職場を求めたり、家庭の円満を求めたりします。私たちの祈りが真実に続く限り、この言葉は約束を守り、私たちの祈りの課題はいつの間にか実現されていることを体で感じるのです。言葉の真実さに驚き、神様の御言葉を崇めるようになります。パウロはこのように、テサロニケの人々の間に広まっている御言葉を崇めることが、他のところにおいても同じことが起こりますことを、祈っていたのです。また、そのような祈りをテサロニケの人々の間に求めていたのです。

また、パウロと一緒に活動していた人々がひねくれた悪人どもの手から救い出されますように、と祈りの支援を求めました。私たちはひねくれた悪人どもの手から救い出されるのは、私たち次第であると思ったりします。私たちがしっかりすれば、救い出され、私たちがしっかりしないと救い出されないと、すべてのことを自己中心に考えています。しかし、パウロはひねくれた悪人どもの手から救い出されるのはパウロの力ではなく、パウロの頑張りではなく、神様の手によるものであると、確信していたのです。人間は常に自己中心的です。世界を見る目も、自分の色を付けたメガネを持って診断します。人々を見る目も、自分の人生の未来についても、自己中心的に見ています。そのメガネを外さない限り、本当の姿を見つめることはできないのです。

信者は神様の目で世界を見る人です。神様の目を借りて将来を見つめる人です。そのためには、自分のみじめさを、自分の弱さを、神様の前にさらけ出し告白し、深く認めなければいけません。私たちの人生を神様にすべてお任せするとき、神様に完全に託するとき、私たちは神様の目を持って、自分の人生を見つめることができますし、設計することができます。まず第一に、神様を私たちの心の上席におかれるとき、私たちは自分の素直な姿を見つめ、働いておられる神様の力を体験することができます。マタイの福音書6章33節は次のように言っています。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

祈りを求めいたパウロは信仰告白をしています。3節、「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」パウロが信じた神様は、真実な方、でした。真実な方とは変わらない方、装うことのない方、変装することをしない方、であることです。一度選んだ人々への変わらない愛が続く方です。一度した約束を変えられない方です。聖書を見ると、神様の真実さがつづられています。アブラハムにした約束は、アブラハムが信じた通りに、約400年後、実現されたのです。聖書の言葉を持ってつかんだ神様の約束を、私たちがないがしろにしない限り、神様は必ず実現されます。神様を信じる信者は皆、一人の例外もなく、このような神様のお約束が実現されたことを体を持って、人生を持って経験している者です。ですから、信者のことを証人と言っているのです。神様は変わらない方です。神様は真実な方です。それだけではありません。パウロはこう言っています。「あなた方を強くし、悪いものから守って下さいます」と。神様は選んだ人々を強くされます。私たちは誰でも強い人になりたいと思います。神様は選ばれた人々、神様を信じる全ての人々を、本当の強さに染まる人としてくださいます。強そうな人にならせるのではなく、本当に強い人にしてくださるのです。私たちが強くなりたいのであれば、強くしてくださる神様に身を任せるべきです。神様は私たちを強くしてくださいます。また、私たちを悲しませる悪いものから守って下さいます。この世において勝利を飾らせ、『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』とお話しされるのです。

祈りの最後に、パウロはこう祈っています。5節、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」これがパウロの、テサロニケの人々のための究極的な祈り、祈りの最後を飾る目標であることが分かります。一つは神の愛を持つことです。コリント人への手紙には愛についてこう記録されています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」神様はその選んだ人々がこのような神の愛に満たされることを願っています。また、その愛を持つ人になるよう助けています。それだけではありません。神様はその選んだ人々が、キリストの忍耐を持たせるようにしてくださいます。キリストの忍耐とは悪魔の誘惑を乗り越え、完ぺきな勝利を飾られた十字架の忍耐を指します。神様はその選ばれた人々がイエス・キリストに与えられたその忍耐を、持たせるようにしてくださいます。祈る信者たちの最後の様子は、神の愛に包まれることであり、キリストの忍耐に色づいた人格です。神様が、私たち一人一人にも同じような願いがあることを感謝します。

パウロは続いて、彼らに一つ主イエス・キリストの御名によって命じています。6節、「締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。」ということです。しまりのない歩み方をしているとは、英語では怠ける人として表現しています。パウロはテサロニケを訪れたとき、特に怠ける人々のために、昼も夜も労苦うして働き続けました。御言葉を伝えるものとして、彼らから食べ物をもらう権利もありましたが、働き続けました。それは彼らに身を持って模範を示すためでした。そして、彼らに教えていました。「働きたくない者は食べる」と。ところが、彼らの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがありました。パウロは彼らに、言いました。

12節、「こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」その時代、人々はキリストの再臨の日が近いと信じていました。再臨のとき、人々の間には裁きが行われ、迫害する者は苦しみで報われ、迫害や苦難に耐えている人々は休息でもって報われると信じていました。当時のキリスト教徒たちは、じっと迫害に耐え、裁きの日に備えて愛と信仰の日々を送っていました。ところが、一方には、裁きの日が近いのであれば、こつこつまじめに働いても何にもならないと考えて、怠けな生活を送る人々がいました。何も仕事をせず、人々に大きなお世話ばかりして、怠けな生活をしている人たちがいました。パウロは彼らに命じました。「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」「働かざる者、食うべからず」口ばかりではなく、体を動きなさい、という意味です。

マタイの福音書6章34節には次のような言葉があります。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」明日のことを心配して、手足を動かない人々がいます。明日、終わりが来るのだから、してもしょうがないと考えることがあります。しかし、労苦はその日その日に、十分あります。その日、その日にやらなければいけない仕事は十分に与えられているのです。一生懸命働いても、実に負えない仕事が神様により与えられています。にもかかわらず、何も仕事をせず、人々に大きなお世話ばかりして、トラブルを起こし、怠けな生活をしている人たちにパウロは言ったのです。「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」その日、その日に十分ある十字架を負わないと、人に迷惑をかける人生を送るしかありません。自分で得たパンを食べること、これが全ての人に与えられた神様の使命です。その上、信者たちにはまた別の使命が与えられています。それが何でしょうか。

13節、「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。」信者たちは自分に任せられた十分にある仕事を全うし、自分の手で得たパンを食べることもちろん、たゆまなく善をおこなうべきです。たゆまなく善をおこなうとは、続けることがいやになって、努力を怠ることをせず、神への信頼を持ち続けることを意味します。信仰し続けること、これが信者に課せられた神様の願いです。そのような人々に与えられる神様の祝福があります。その祝福が何でしょうか。

16節、「どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」神様の祝福は、平和が与えられることです。たゆむことなく善を行ない、神様の祝福を身に受けるものとなりますよう祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23