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2010年長崎UBF、テサロニケへの手紙第二、その2 --> 問題紙

堅く立って

Messenger:MSN.David

御言葉:テサロニケへの手紙第二、2:1-17
要 節:テサロニケへの手紙第一、2:15「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」

テサロニケはパウロがたった三週間ほど滞在したところでした。しかし、パウロは彼らへの愛情が普通ではありませんでした。それは彼らのイエス・キリストに対する信仰のためでした。パウロが彼らに伝えた福音はイエス・キリストでした。全能な方であり、父なる神である方、しかしながら、信じる全ての人々とご一緒される方・聖霊様でした。十字架に付けられましたが、よみがえり、復活を持って救いを証明された方でした。このイエス・キリストの中で、私たちは真の平和と真の喜び、真の人生を見つけることができるのです。

テサロニケの人々はこのパウロの福音を耳にしてから、福音信仰が目に見えて成長しました。その証拠は相互の愛が増し加わっていたことでした。彼らは互いに反目していました。彼らは互いに批判し合っていました。彼らは互いに受け入れず、冷やかな関係にありました。しかし、イエス・キリストの福音が働くと、イエス・キリストを主として信じ、受け入れることになってから、彼らはお互いに理解を深める関係に変わりました。それだけではありませんでした。彼らが信じる福音について、ユダヤ人たちによる妨害と誘惑、迫害が始まりましたが、ユダヤ人たちの迫害に耐えながら、彼らは神様への従順と信仰とを保っていました。パウロはその姿を聞くたびごと、神様に感謝をしました。神様は生きておられ、彼らの信仰と従順を見守って下さったからでした。これがパウロの誇りでした。これが生きておられる神様の証拠でした。

しかし、パウロは彼らの間に広がる一つの懸念材料がありました。それはパウロが伝えたイエス・キリストの福音、特にその中でもイエス・キリストの再臨のことについてでした。イエスは十字架の上で苦しみを受け、死なれた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示されました。復活されたイエス様のお姿は変わった体をお持ちでした。壁を突き抜ける体であり、同時に10か所、20か所に現れるお姿に変わっておられました。復活後、40日間、このようなお姿で弟子に生きておられることを示されましたが、弟子たちの見ている目の前で、天に挙げられました。聖書は、「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」と記録されています。その時、弟子たちには次のような御使いの声が聞こえました「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

それでは、1節の御言葉をご覧ください。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。」パウロが伝えたイエス様の再臨について、テサロニケの信者たちに一つ、お願いがありました。それは、2節、「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」ということです。当時、テサロニケの人々には「私が断言しますが、」とか、「どこかに記録されていますが、」とか、「パウロからの手紙にこう記録されているよ、」とかの話を持って、イエスキリストがまた来られた、とのうわさを広めていました。彼らはこのことを聞くと、落着きを失い、心が騒ぎました。パウロはそのような彼らに確かな事実を記録して伝えました。

3節をご覧ください。「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」イエス・キリストが来られる前に、不法の人、滅びの子が現れることを教えています。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。不法の人、滅びの子は神様を否定します。礼拝を拒みます。また、自分が神であると宣言します。このような不法の人、滅びの子、「荒らす憎むべきもの」が現れない限り、まだイエス・キリストの再臨はないのです。

パウロはしかし、彼らの現れが今は引き留められているのだと説明しています。今は引き留められているのですが、イエス様はこのことが冬に起こらないように祈りなさい、と言われます。その日は必ず来ることが予定されているからです。神様がこの世の世界を審判をする日は予定されています。その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日です。9節と10節を見ると、「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。」と宣言します。引きとめられている力が緩められると、サタンは強烈に働きだします。あらゆる偽りの力を持って、不思議を持って、滅びる人たちを欺き、虜にします。

どのような人たちがとりこになりますか。10節の後半部を見ると、それは「真理への愛」を受け入れなかったからです。真理とはイエス・キリストを指します。福音であり、聖霊を指します。イエス・キリストによる救いを受け入れないのは、自分が罪深い人間であることを認めないことです。福音や聖霊を受け入れないのは神様の計画よりも、自分の計画と自分のスケジュールを大切にするからです。このような人々は誘惑されます。

11節、12節は言われます。「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」惑わす力、不法のものが送り込まれるのは、裁かれる人を選びだすためです。神様は裁かれる人を分別する作業があってからイエス・キリストの再臨があるのだと、パウロは説明します。しかし、それ以上にパウロは神に感謝していることがあります。それが何でしょうか。

13節を読んでみましょう。「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」誘惑の霊に惑わされることない人がいることを神に感謝しています。それは、御霊による聖めがある人です。神様の働きにより人間関係が変わり、心に平安があり、新しい人生を営む人たちのことです。イエス・キリストの福音を喜び、十字架の力を信頼し、イエス様の前に罪を素直に告白する人々のことです。神様に人生のスケジュールをを任せて、神様が導くすべての計画と道のりに、黙々と歩く人々のことです。そのような人々は信仰人であり、初めから救いにお選びになった人々です。神様が自ら、ご自分の働きを持って、福音によって私たちを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を、その輝きを、その愛を、その恵みを、その豊かさを、その力を得させてくださったのです。パウロの喜びは、彼らが裁きの対象ではなく、救いの対象として選べられ、区別されたことでした。

そこで、最後にパウロは彼らに真剣に提案しています。15節、「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」堅く立つとは、何でしょうか。動かないことを意味します。別のところに足を運ばないことを意味します。別の真理があるかのように誘惑する勢力に心が揺さぶらないことを意味します。神様の前に、自分がどんなに罪深い人間であるのか、悔い改めることであり、イエス・キリストを主として、救い主として、その御名を受け入れることです。何よりも、その御名を受け入れ、信じることにより近づく、聖霊様を体験することです。神様に信仰をささげ、心をささげ、時間をささげ、必ず答えてくださる細かい神様の声をつかむことです。生きておられることを肌で感じることです。

サラは大学入試のために、祈りをして挑戦をしました。祈りをして、求めて、神様に願いをして、チャレンジをしました。その時、細かい答えを出して下さる神様を体験しました。神様がおられなかったら、今のサラはないことを、私も体験して、神様の生きておられることを感じ取りました。サラもそれを否定できないほど、神様の働きがはっきりしていました。私たちはこのように、生活の中で神様を体験すべきです。忘れますが、恩知らずの私たちは感謝の気持ちが薄れますが、また、神様につかまり、時間と心をささげて祈り、神様の声を私のものにすべきです。神様はその栄光を、キリストの栄光を、私たちの人生に表します。わしたちの生活に染みつかせます。神様は私たちの人生の主人となられます。この私たちは最後の日、選びの人々と、主と賛美の声を上げることが決まっているんどエス。

パウロはこのようなテサロニケの人々のために祈ります。「どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」神様は私たちの人生を、あらゆる良い技で包ませようとしています。お呼びになった人々の人生を豊かにしようと訓練されます。信仰を固められます。信じて近づく人々を慰め、強くしてくださいます。この神様に祈るパウロは、祈りによってテサロニケの人々が豊かになる確信を持っていたのです。

イエス・キリストの兄弟であった使徒ヤコブは、次のように言っています。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」選びになられた私たちは、イエス・キリストによる保証書がついた人生の歩き方をしています。どこか壊れたら、連絡するだけで、走ってきて直してくださる方が付いている人生です。私たちは付いている人生を生きることが、委ねられています。神様に近づくだけで、その人生が豊かになる確証がある人生なのです。パウロのように神に祈り、神様に恵まれる信者となりますように祈ります。裁きや再臨を恐れる人ではなく、今の世界で、祝福される神様の恵みに満たされる人となりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23