Counter: 1122, today: 1, yesterday: 0

2010年長崎UBF、テサロニケへの手紙第二、その1 --> 問題紙

主にあって栄光

Messenger:MSN.David

御言葉:テサロニケへの手紙第二、1:1-12
要 節:テサロニケへの手紙第一、1:12「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

今日から三回に分けて、テサロニケへの手紙第二を勉強したいと思っています。テサロニケへの手紙第二は、第一の手紙があってから数カ月後であると、推定されています。パウロはテサロニケの信者たちのために、二回も手紙を書いて、彼らの信仰生活を助けていたのです。今日の御言葉で、パウロは彼らの信仰を称賛しつつ、イエス・キリストの再臨を予言しています。また、その時の下す神様の審判について語っています。今日の御言葉を通してパウロのテサロニケ人への深い愛を学びますよう祈ります。

I. 信仰の成長を神に感謝

この手紙はパウロ、シルワノ、テモテの三人から、テサロニケ人の教会へ挨拶しています。パウロは彼らが「私たちの父なる神および主イエス・キリストにある」と確信してこの手紙を書いています。パウロは私的な手紙ではなく、生きておられる神様の中で、彼らに手紙を書いているのです。

人々はこの世の動きや私たちの生き方の大半が、私の努力や私の周りの人々によって動いているものと考えたりします。ですから、金持ちや権力のある人の知り合いになっていることを誇りとします。それを大切に守っていこうとします。パウロの手紙を見ると、パウロにとって大切なものがあります。それは「私たちの父なる神であり、主イエス・キリスト」この二つであります。金持ちや権力のある人が世を動かしているように見えても、実際は神様が関与されないことは起こらないのです。パウロはその事実を、誰よりも切実に感じていましたし、体験しましたし、それをどうしても人々に伝えようと、心に決めていた人でした。それで当然のことながら、パウロはこの手紙を書く相手が、父なる神と主イエス・キリストにある、と宣言してこの手紙を書いています。

この世を動かし、今もなお、私たちの周りで私たちの人生を動かす方、父なる神と主イエス・キリストから来るものは、恵みと平安です。恵みと平安はこの方に属しています。それを知っているパウロは切なる心を持って、こう祈っています。「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」これはパウロの手紙にうたい文句のように登場する文言ですが、それを見ても、パウロにとってこれほど大切なものはなかったことが分かります。

パウロは恵みのない人間でした。また、パウロは平安のない日々を暮らしてきました。なぜなら、パウロは律法学者であり、パリサイ人でした。律法学者とは神様が人間に守ってほしい法律について詳しい人、それを専門とする学者のことを意味します。パリサイ人とは生まれてから聖書を丸暗記し、見えないところではそうでもないのに、少なくとも見える範囲では神様の法律をしっかり守ることを誇りとする人間です。ですから彼は人々の過ちを見逃せませんでした。しかしながら心の中では自分も同じことをしていることへの不安だらけでした。彼は人の問題点を指摘はしても、過ちだらけの姿を愛することができませんでした。同じように、過ちだらけの自分を誰から裁くことを恐れて、心の不安を抑えることができませんでした。しかし、イエス・キリストに出会って、彼は不思議な体験をしました。心から湧き出る恵みと愛、心の奥底から自分の人生は守られていることへの平安が訪れたのでした。彼はこの体験を誰にも知らせず、アラビヤ砂漠に行き、一人で考えました。三年間、イエス・キリストと一緒に生活をしていたとする弟子たちと相談せず、この体験を口にしませんでした。パウロは自分の心の中にこの事実を深く深くしまって置いていました。

バプテスマのヨハネを産んだ父、ザカリヤのように、彼は自ら口止めをした三年間の間、神様の恵みと神様の平安を確信しました。ドイツの神学者であるBlumhardt(1805-1880)はこう言っています。「恵みがあることを、神様と自分との秘密事項にしなさい。宗教的な展示物にしてはいけません。その恵みは神様にだけ栄光が帰すべきものです。」パウロは沈黙の三年後、ケパつまりペテロをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。その間、主の兄弟ヤコブに出会っただけでした。十四年後、バルナバと一緒にエルサレムに上るまで、彼は主の主だった弟子たちとは顔を合わせませんでした。しかし、彼の心はイエス・キリストの恵みと平安に満ちた生活をしました。だれから教えられたものではなく、イエス・キリスト自ら、パウロとご一緒されました。すべてを教える方をその身に体験したのです。イエス・キリストの中で、彼は、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びました。その中で彼は恵みと平安を所有するものとなりました。そのため全ての彼の手紙に登場する彼の口癖、彼の挨拶は、「恵みと平安があなた方の上にありますように」となりました。パウロはこの恵みと平安を、自分だけにとどまらず、全ての人に伝える使命を受け取ったのでした。パウロはテサロニケの人々の上にも、同じような恵みと平安が訪れること祈っています。これがパウロの彼らへの手紙の一番の目的なのです。

パウロがテサロニケの人々を考えるとき、いつも神に感謝しなければならないことがあるしています。しかも、そうするのが当然だと、言っています。パウロはなぜ、彼らに感謝すると言わず、いつも神に感謝しなければならない、と言っているのでしょうか。「あなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっている」ことへの感謝を、なぜ、テサロニケの人々に感謝せず、神にしていますか。こけることなく信じ続け、お互いに愛を増し加えた彼らを褒めることより、なぜ、神に感謝しなければならないとしているのでしょうか。それが当然のことだとしているのでしょうか。

ここで、私たちは「信仰が神様により得られる秘訣であり、神様からのプレゼントである」という、大事な信仰の世界について学びます。神様を認め、神様に祈り、神様の言葉を喜ぶ心も、神様からのプレゼントなのです。私たちは皆、神様からのプレゼントをいただいたものなのです。しかも、この神様は私たちの弱さも知っており、私たちの軟弱さも克服できる知恵をお持ちです。生きておられる神様、今もなお、私たちたちの隣で私たちを見守る聖霊は、神を信じる私たちの願いと私たちの将来を計画しておられるのです。テサロニケの人々の信仰を、また、彼らの愛を、増し加えてくださったこの神様に、パウロは心から感謝しています。しかし、この感謝はパウロの誇りであり、教会の誇りでもあります。また、それは彼らが神の国にふさわしいものである証拠であり、神様の正しい裁きのときに、証拠として出せるものです。彼らは迫害と艱難を耐えながら、従順と信仰を守ったからです。

今は、当時のようなテサロニケの人々に加えられた迫害や艱難はありません。しかし、私たちの心には様々の悩みや悲しみがあります。この世の中に生きるための苦しみがあります。人に言えない悩みや悲しみもあります。そのとき、私たちは神様を信頼し、従順と信仰を守るべきです。神様がおつくりになられた全てを認め、神様に信頼を置くべきです。私たちが神様にささげた信頼を覆さないとき、神様はそれを証拠として、私たちを神の国に招待してくださるのです。全てを作り、すべてを計画し、すべてを関与する神様を信頼し、報復したい気持ちを抑え、言い返さず耐え忍ぶ人を、つまり、従順と信仰を守った人々を、主はご自分の国に招待することを喜ばれます。

II. 主にあって栄光を

10節をご覧ください。パウロはその時、審判と裁き、祝福とリベンジのとき、を次のように説明します。「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。」その日とはこの世の最後の整理をする時を意味します。一人一人、私たちは整理される時が訪れるのです。私たちの人生は死んでしまえば終わるものではないのです。聖書は全ての人は最終的に正しい裁きが訪れることを教えています。その日、裁きの主が来られて、裁かれます。まるで罪びとが裁判官の前に立つことと同じように、私たちはすべて、誰一人残さず、裁判官も、裁判長も、大統領も、総理大臣も、天皇も、教皇も、すべて、裁き主の前に立たされます。

そのときの裁きの基準がなんでしょうか。そうです。信仰です。行いによれば、誰一人救われないのです。行いによれば誰一人裁きをまぬかれる人がいないのです。信仰により、全ての者の感嘆の的が裁判長として、私たちの前に現れるのです。イエス・キリストの御名が、天に高く上げられ、厳しい裁きが始まるのです。その時、自分が行いでは罪びとであり、罪深い人間であることを認めた全ての心の謙遜な人々に救いが用意されるのです。行いによっては失敗するしかない、信仰による救いが実現されるのです。パウロが伝えた福音は、キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたことです。ヨハネは次のようにその福音を説明しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス・キリストの御名を信じ、その救いを受け止める人に、永遠の命が下されるのです。 11節をご覧ください。パウロはそのためにも、いつも、テサロニケの人々のたのために祈っています。「どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」善を慕うあらゆる願いとは何でしょうか。良いことをしようとする願いを指します。信仰の働きとは信仰し続けようとする心を指します。信者に必要なのはこの二つです。しかし、これらは私たちの結審や力によるものではないのです。神の御力によってのみ、守り続けられるものなのです。神様の助けなしには私たちには良いことを実施することすらできない存在なのです。ましてや信仰はなおさらのことです。

パウロがこのように祈っていることの理由を12節で説明しています。「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」主イエス・キリストの恵みによって、私たちの間に良いことが、信仰の忍耐と従順が、恵みと平安が、喜びと救いが全うされることを祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23