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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第二、その3 --> 問題紙

新しい天と新しい地

Messenger:MSN.David

御言葉:ペテロの手紙第二 3章1節~18節
要 節:ペテロの手紙第二、3章13節 「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

今日はペテロの手紙第2の最後の部分です。ペテロは1章で、旧約聖書が神様の御言葉であることを強調しました。2章ではこのような神様の御言葉に頼り生きている人々を、誘惑する人々が現れること、しかしながら、神様は神様の権威と神様の存在を、人生の中心に置く人々を祝してくださることを、説明しました。

聖書は神様がおられることを教えています。聖書は神様が世の始まりから、世の終わりまで、すべての物事に関与していられることを教えています。聖書には神様は私の人生をおつくりになられたことも教えていますし、神様の存在を認め、素直に受け入れるだけで、私の人生にも深く関与しておられることを教えています。信者は神様の存在を認め、その前にひざまずいている人々であり、神様はその人々の人生に深く関与していることを、明らかにする人々です。神様の証人です。

預言者により記録された旧約聖書は神様の存在を認め、生きておられる神様の働きを見抜き、神様とともに歩む人々を探しておられる方であることを教えています。また、その声に応えた人々、その声に従おうと努力してきた人々を、神様は子どものように見守り、この世においてもその人生が祝福されるようにされたことを教えています。アブラハムが、イサクが、ヤコブが、ヨセフが、そのことを証明しています。信仰の先祖たちは、二つを信じて守った人々です。「神様がおられることを確信していましたし、神様は必ず報いてくださる方であること」です。

ペテロはこれらの預言の言葉に加え、自分の手紙を通して、旧約聖書のお御約束通り、救い主・イエス・キリストが来られらことを説明しています。この方、イエス・キリストは、新しい約束です。新約聖書の登場です。主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるてくださいます。私たちとしては得られなかった永遠の命を得させる力であり、私たちができなかった敬虔な姿をもたらす方です。イエス・キリストを知ることにより、また受け入れることにより、私たち一人一人が神様の国に相応しい人と変わるのです。

1節をご覧ください。「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」ペテロがこの手紙を二回目に書いて送るのは、預言者たちのことばを思い起こさせるためなのです。思い起こさせたいのは具体的に何でしょうか。

第一に、終わりの日にわがままな者の出現です。

3節をご覧ください。「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、」とあります。この言葉からわかるように、終わりの日が近づくと人々は「自分たちの欲望に従って生活」する人々が増えます。欲望のままとは思いのままであり、体がほしがるままのことを意味します。つまり体のほしがるまま寝て、体がほしがるまま食べて、体がほしがるまま遊ぶことを意味します。人はどう思うか、どう見るかは関係なく、私が好きなまま、思う存分に勝手に気のまま、生きる人々が生まれるのです。彼らは自由に考え、自由に動き、気楽に生きているように見えますが、彼らは罪の勢力にとらわれ、罪の勢力にさいなまれるのです。神様の裁きを招いているのです。

第二に、キリストの約束を批判する人々の出現です。

4節をご覧ください。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と言い出す人々の出現です。ペテロの目の前で、イエス・キリストは十字架につけられ死なれました。ペテロは衝撃でした。しかし、それがペテロの罪のためであることを知ったとき、ペテロは新しく生まれました。しかも、それがペテロだけでなく、私たち一人一人のすべての罪、失敗、不安、弱さのためであることを知ったとき、ペテロは自分に対する神様の願いを悟るようになりました。ペテロだけでなく、イエス・キリストの十字架の事件を信じるすべての人々に赦しとあわれみが訪れることを確認したとき、ペテロはこの記録を残す使命を感じ取りました。イエス・キリストの十字架の死、そして復活はイエス・キリストの中での罪の赦しであり、蘇りの約束であり、新しい天と新しい地への約束の始まりであることを悟るようになりました。しかし、中にはイエス・キリストの来臨がないこと、この世の動きは神様なしに動いてきたことを言い出す人々が現れました。彼らは聖書を見落としていますし、神様の関与を見落としていたのです。聖書は神様がすべての宇宙や世界の動きに関与してられることを、また、今もなお、私たちの人生に関与しておられること、この神様の存在を認め、その前にひざまずいている人々を祝福に導いていることを教えています。

第三に、この世は火に焼かれるために保たれているのです。

7節をご覧ください。「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」聖書ははっきりと、この世の最後は火によって裁かれることを教えています。この世はいつまでも続くかのように考える人々がいます。人間の知恵は大したものだ、と信じ込む人々がいます。永遠と続いてきたこの世の歴史は、これからも永遠に続くものだと思う人々がいます。混乱があっても、人間の知恵により乗り越えられるものだと信じる人もいます。しかし、聖書ははっきりと教えています。この世は火に焼きつくされる日を迎えること、その時は不敬虔なもの裁きの日であり、聖書の言葉を信じ続けた人々への約束の実現の日である約束です。

ペテロは信者たちに警告しています。8-9節をご覧ください。「愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」聖書の約束、火の焼かれる審判の兆候が見えないのは、約束を遅らせているのではなく、忍耐部会神様が、最後の最後まで、悔い改めて、戻ってくる人々を待ちに待っておられるためなのです。

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。マルコはイエス・キリストの言葉を引用して、その時のことを次のように記録しています。「人に惑わされないように気をつけるべきです。キリストの名を名のる者が大ぜい現われます。また、戦争のことや戦争のうわさが多発します。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こります。しかし、これらのことは、産みの苦しみの初めです。最後の審判の予告です。信者はこのような時期に、気をつけるべきです。人々は、信者を国を滅ぼすものと断定し、議会に引き渡し、また、鞭打たれるものが現れます。総理や総督や大統領や王たちの前に立たされる人も現れます。それはイエス・キリストの証しのためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられます。そして、最後がきます。最後の審判が火に焼きつくされると同時に現れるのです。

近年、特に、異常気象や戦争、紛争、地震や災害の多発を直面するたびごと、このような神様の言葉と警告が思い出されます。「2009年、太陽の活動が活発化し、地球の核が熱せられた結果、3年後に世界は終わりを迎える」という映画2012が人気を誇るのもこのような時代を背景にしている気がします。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、わたしたちは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。聖書ははっきりと、火に焼きつくされる最後の日が予告されています。信者はその日を備えるべきです。信者はその日を待ち望む人です。

信者にとってその日はどんな日でしょうか。

13節をご覧ください。「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」最後の審判の日は、裁きの日ですが、それと同時に、信者にとっては神様の約束が実現される日です。また、その約束通り、正義の住む、神様がすべての関与を明らかにする、新しい天、新しい地が訪れる日です。その姿を想像するには私たちには知恵が足りません。その様子を描くには私たちには知識が不足しています。しかし、確実なものは神様のお約束は実現すること、正義が現れること、新しい天と新しい地が用意されていることです。すべてが確実に露出される、すべてが確実に判断される、すべてが確実に区別される日が来るのです。神様の国です。信者にとって迎え入れる最後の究極地点です。

ペテロは最後に、言います。14節、「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」シミも傷もないものとして、神様の御前に出られるよう、努力するように勧めています。はげみなさい、英語では make every effort とあります。すべての努力、すべての力、すべての知恵を使って、神様の前で染みがないよう、傷がないよう努力することを勧めています。

これは一言でいえば、神様の存在を、すべての物事に認める生活をすることです。すべての言動とすべての行い、すべての計画を神様を意識しながら行うようにすることです。言葉にも行動にも、神様の前に言い出し、行うことことです。時代が厳しくなればなるほど、私たちはもっと積極的に神様に頼り、神様に近づき、神様の言葉を思い起こすべきです。それが信者です。それが最後を迎える、神様の審判を迎える正しい信者の姿です。

また、ペテロは15節で言っています。「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。」すぐに審判が訪れてないことは私への忍耐と救いのチャンスであると考えるべきです。現在,神様が求めることが何であるのか,なぜ、救いをもとらす努力をされているのかを考えるべきです。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23