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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第二、その2 --> 問題紙

誘惑から救い出す主

Messenger:MSN.David

御言葉:ペテロの手紙第二 2章1節~22節
要 節:ペテロの手紙第二、2章9節 「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」

ペテロは今日の御言葉で、にせ教師を注意するようにと警告しています。にせ教師とは教師の形をしていますが、実は教師ではない人々のことを指します。牧師の形をしていながら、実は牧師でない人々のことを指します。聖書先生の形をしていながら、聖書先生でない人々のことを指します。にせ教師は私たちを様々な形で誘惑します。しかし、ペテロは彼らの誘惑から逃れる秘訣を教えています。

1.誘惑から救い出す主

1節をご覧ください。イスラエルの中には、にせ預言者も出ましたように、ペテロの時代、信者の間にはにせ教師が現われるようになります。彼らには、いくつかの特徴がありました。その特徴が事前に分かれば警戒できますし、彼らの誘惑を逃れることができます。ペテロはここに、信者たちを誘惑するにせ教師の特徴について記録しています。それが何でしょうか。

第一に、異端です。

異端を持ち込むとは、間違った教えを教えることを意味します。ペテロはそれを指して、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ことだと記録しています。信者にとって一番の警戒は、イエス・キリストを否定することです。これは自分たちの身にすみやかな滅びを招いているものです。その教えは滅びる教えだからです。キリスト教の信者にとってイエス・キリストは信仰の根源であり、基本です。救いのもとです。教会はイエス・キリストを教えるところであり、イエス・キリストの御言葉により恵みを受けるところです。イエス・キリストよりも大事に扱われることがもしあれば、それは滅びに至る道です。イエス・キリストより強調されるものがあれば、それはにせ教師の教えに近いものです。イエス・キリストの名はいくら強調されても足りることのないものです。

第二に、好色です。

好色とは英語ではShamful waysとあります。恥ずかしい行動を意味します。公には恥ずかしい行動を指します。好色は色が好きと記録しますが、男には女を指し、女には男を指すことも含まれます。これらのことは「真理の道がそしりを受ける」原因となります。神様の教えが妨げられるものです。それはキリストの教えではなく、にせ教師の教えであるからです。好色は警戒すべきにせ教師の特徴です。

第三に、貪欲です。

にせ教師は、貪欲です。貪欲とは次々と欲を出し満足しないことです。非常に欲張りであることなので、何事も満足することがないことです。次から次へと欲を張り続けることを指します。その具体的な姿について、ペテロは、にせ教師が作り事のことばをもって信者を食い物にしている、と言っています。つまり、にせ教師は人々をキリストの言葉や教えに導くことより、自分たちの哲学や考え方、やり方に誘い込みます。その始まりは聖書であり、キリストの言葉からスタートしますが、途中から、自分たちの考え方や思想が主な議論の対象となります。その目的は羊たちを自分たちの食い物にすることです。満腹するための食材にすることです。キリストは自分の人生と体を、羊たちの満足の対象とされたのです。貪欲はにせ教師の特徴です。貪欲は警戒すべきものです。

3節で、ペテロはこのにせ教師に対して、はっきりと結論を出しています。「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」にせ教師は滅ぼされます。キリストを否定する教えは滅ぼされます。好色は滅びの近道です。貪欲はかならずさばかれます。滅ぼされずにのこることはまずないです。かならずさばかれます。信者はたまに、キリスト以外にも大事なことはある、とか、好色だって神様が与えられたのだから楽しむべきものではないかとか、貪欲だってそれがなければ何も人生を通して得るものはない、とか言い訳をしながら、異端を、好色を、貪欲を心のあるところにひそかに受け入れている場合があります。このメッセージを伝える私も同じ人間ですが、しかし、ペテロは今日の手紙で、はっきりと、この三つのことを警戒すべきものとして取り上げています。そして、異端、好色、貪欲は必ず滅び失せるものであることを、記録しています。そのようなものを体に赦している人は、その存在が御使いであっても神様の赦しを受けることができないのです。神様がおつくりになった美しい世界であっても、異端、好色、貪欲な姿のため、切り捨てることを惜しまないのです。ソドムとゴモラの町が破滅に定めて灰にされ、以後の不敬虔な者へのみせしめとされたことから、私たちは気付くべきです。ソドムとゴモラの町は淫乱な町を代表するものです。無節操な者たちの好色なふるまいを誇る町だったのです。神様のさばきは、異端、好色、貪欲に対して厳しく下されるものです。

しかし、神様の救いはどのような人々に与えられますか。神様はそのような人々のことを注意深く見ておられますし、味方になられますか。神様がお好きな人間像は何ですか。7節を見ると、「悩まされていた義人ロト」です。この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。神様の救いは彼らに訪れます。神様はロトのような人間に味方されます。悩みのある義人ロト、日々心を痛めている義人ロト、神様の教えを手元に置いておき、そのために悲しみと心の痛みを感じ取る義人ロト、のような人間の味方となられます。ペテロは9節で、結論を言い渡しています。9節をご覧ください。「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」

信者には一つ、確かなものがあります。不義なものども、異端、好色、貪欲な人々を懲罰の対象にしていることであり、悩みのある義人ロト、日々心を痛めている義人ロト、を誘惑から救い出される方であることです。一言でいえば、不義は滅び、義人は生きる、ことです。異端、好色、貪欲なものは滅び、イエス・キリストの御名に頼る人、信仰の人は救われることです。信者にこの確信がなければ、もう信者ではないのです。

2.主であり救い主であるイエス・キリスト

信者の確信のひとつに、不義が滅ばれることへの確信であると、言っていましたが、神様は特に、どのような不義に対して厳しいでしょうか。10節をご覧ください。「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。」汚れた情欲とは男が男に対して、女が女に対して情欲を燃やすことを意味します。結婚をせずに男女の関係を結ぶことを意味します。肉に従った歩むことも、厳しくさばかれます。肉に従って歩むとは、神様の御言葉の教えではなく、私の感情に従って生きることを指します。体の願うままに生きることを指します。寝たい時に寝て、置きたい時に起きて、仕事したい時にして、休みたい時に休むことを指します。体の本性に従って歩む人は、神様の厳しいさばきがあります。私たちは自分の体に逆境してすすむ人になるべきです。体が休みたいときにも、やらなければいけないことをやり、体がほしくなるものがあっても、節制する人になるべきです。神様はそのような生き方を祝福されます。また、神様の厳しいさばきは権威を侮るものに対して行われます。権威を侮るとは、権威を無視することを指します。神様の権威を無視する人は当然のことながらさばかれますが、神様によって与えられた様々な権威に対しても、侮る態度をとってはいけません。ローマ人への手紙3章1-2節は次のように言っています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」すべての権威は見下して軽んじる対象ではありません。神様が与えられたものとして、大事に扱うべきです。上司や目上の人も、神様の定められた権威として受け入れるべきです。そのような人々を神様は喜びます。権威を侮るものは厳しいさばきがあります。

彼らは知恵あるようにみえたり、勇気あるように見えても、「大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」権威に逆らい、侮る人々を見るとき、私達はたまに彼らが立派に見えたり、偉大に見えたりしますが、ペテロは次のようにその過ちを指摘します。11節、「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。」権威ある人々の過ちや間違いは、御使いたちによく見えるものです。しっかり見えて、彼らの過ちを指摘することができるのです。しかしながら、主の御前に彼らをそしって訴えることがありません。それは権威を定められた神様への配慮であり、神様の行いに対する従順の心のためです。モーセの十戒には、親に逆らうものを厳しいさばきのひとつとして取り上げています。それは親は神様が定めた権威だからです。親が正しいからではなく、親が正しい姿を持たなくても、神様が定められた権威だからそれに従順すること、これが求められているのです。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

12節をご覧ください。「ところが権威に逆らい、侮る者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」権威に逆らうものは滅びます。神様が定めた権威に従うこと、従順すること、これが知恵であり、知恵ある人の行動です。権威に逆らい、淫乱に満ち、肉に従って歩む人は、13節で説明しているように、「不義の報いとして損害を受けるのです。」彼らはいろんな面で損する人生を送ります。彼らの楽しみは、昼のうちから飲み騒ぐことです。また、「しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しみます。」信者のことを、「アーメン、ソーメン、皿うどん」といじめます。信者のことを、弱虫だと非難したりします。しかし、彼らは呪いの子です。事実、彼らは14節で説明しているように、「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がない」のです。

彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従っているようなものです。民数記22章をみると、バラムは神の声を耳にする預言者でした。しかし、金銀と名誉に目が暗くなり、ロバにも叱られる人となりました。神様の声がしっかり聞こえているのにもかかわらず、神様が、ほかの言葉をくださらないのかと、のぞきこむようなものになりました。そのような人は、「水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。」神様の言葉を聞いて、別の言葉を望むものはロバからしかりを受けるべきものです。

私たちは心に響く神様の声があります。はっきり聞こえる声があります。しかし、神様の声に背き、別の声に望みをかける人はバラムのようになります。そのような人は犬のように、豚のように、悲しい運命に処せられます。イエス・キリストは救い主です。神様が約束されたメシアです。その中にすべての渇きを取り除く泉があり解決があります。そのほかの名前をのぞきこもうとするのは、バラムのようなものです。ロバから叱られるべきです。犬や豚に等しいものです。救い主、イエス・キリストを賛美します。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23