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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第二、その1 --> 問題紙

神からの言葉、預言

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:ペテロの手紙第二 1章1節~21節
要 節:ペテロの手紙第二、1章21節 「なぜなら、予言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

今週からペテロの手紙第二を用意してくださった神様に感謝します。この手紙はAD66~67年頃、ペテロが殉教する直前にローマで書いたものです。ペテロの手紙第一は、教会の外部から受ける迫害について、信者がどう対処すべきかについて述べていました。それに対してペテロの手紙第二は、教会内部に侵入した偽の信仰や思想を警戒し、福音の真理の上に堅く立たせる目的で書かれています。

今日の本文では、信者が備えるべき内面のキャラクターについて語っています。また、私たちが目を留め、従うべき予言のみことばについて教えています。今日の御言葉をとおして私達が成熟した信仰人として成長することができますように祈ります。また、神様から召されたこと、選ばれたことを確かなものとし、ますます主の御わざに励むことができますように祈ります。

1. 尊いすばらしい約束(1-4)

1、2節は挨拶です。ペテロは自分を「イエス・キリストのしもべであり使徒である」と紹介しています。世の中では偉くなりたがる人はいますが、自称しもべであると自分を紹介し、それに誇りをもっている人はいません。しかし、だれのしもべであるかによってその意味は大きく変わります。ペテロは「イエス・キリストのしもべ」であると自分を紹介しています。厳密に言えば人はみな誰かの、あるいは何かの僕として生きています。金を愛する人は金の僕です。権力に執着する人は権力のしもべです。情欲のとりこになっている人は情欲のしもべです。しかし、ペテロはイエス・キリストに従い、イエス・キリストに属している「イエス・キリスト」のしもべでした。このペテロが自分と同じ尊い信仰を受けた聖徒達に、この手紙を書いています。そして、主イエスを知ることによって、恵みと平安がますます豊かにされるように、彼らを祝福しています。

ペテロは続いて、神様が私達にくださった霊的な祝福について述べています。

第一に、神様はいのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えてくださいました。

3節をご覧ください。「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」私たちは、どう考えても変わらないだろうと思っていた人が変わり、信仰生活をしているのを見ると、神の力によるものであると考えます。(指導教官、義理の母)しかし、よく考えて見ると、ここに座っている私たち全員が神様の御力によって新しい被造物として生まれ変わったのです。子供達は、「親はそうかもしれないけど、僕らは違うよ」というかもしれません。  

しかし、この地球には万有引力が存在するように、見えない神様の御力がしっかり私たちを信仰の世界に導いておられるのです。キリストからいのちと敬虔に関するすべてのことが与えられたことをペテロが強調しているのには理由がありました。当時、聖徒たちの信仰を揺らし、広がっていた思想に、グノーシスと呼ばれる霊知主義がありました。霊知主義とは、霊的なことだけが善であり、物質的なこと、肉に属するものはすべて悪であると考える思想でした。そのため、人間の姿として来られたイエス・キリストを否定していました。また、体を虐待する禁欲主義や肉は元々悪いからどうでも良いという考え方を元に道徳的な堕落が万延していました。ペテロはこのような異端に対抗して、キリストがくださったいのちと敬虔に関するすべてのことを思い出させ、聖なる生活をするように勧めています。

第二に、尊い、すばらしい約束を与えてくださいました。

4節をご覧ください。「その栄光を徳によって、尊い、すばらしい約束が私達に与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」私たちに与えられた神様の約束はなんですか。まず、永遠のいのちが与えられました。また、朽ちることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。また、世界宣教の使命を担うとき、世の終わりまで、いつも私たちとともにおられるという約束をしてくださいました。聖書にはこのような約束の御言葉がたくさんあります。信仰生活とは、具体的に神様の約束の御言葉を掴んで生きることです。

さて、どうして尊い、すばらしい約束であると言われましたか。それは世の中での約束とは違い、神様が親しく与えてくださったもので、それによって私たちがいただく恵みがあまりにも大きいからです。それでは、この約束による祝福がなんですか。一つ目に、世にある欲のもたらす滅びを免れたことです。使途ヨハネはこのように言いました。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(ヨハネ第一2:16、17)

世の中にあるものは結局、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という言葉で集約できます。これらのものは永遠に続くように見えますが、結局朽ちるもので消え去ります。テレビでは毎日、肉の欲、目の欲を刺激する番組を放送しています。大人も子供もそれを見てすぐ影響を受けたり欲しがるようになったりします。金持ちの芸能人は自分の家の中を見せて、暮らし向きの自慢をします。それを見ている人たちはそのような暮らしぶりをうらやましく思います。しかし、世の中のすべてのものはいつか滅びます。この青い地球も永遠に存続するものではありません。神様の言葉だけが永遠に残るものであり、神のみこころを行う者だけが、いつまでもながらえるのです。私たちが朽ちることのない神様の約束の言葉を堅くつかみ、信仰によって生きることができますように祈ります。

2. クリスチャンに備わるべきキャラクター(5-11)

5-7節までは、クリスチャンに備わるべきキャラクターが記されており、8-11節は、このようなキャラクターを備えている人と備えていない人との違いについて記されています。神様は私たちにいのちを与え、霊的な生活ができる良い環境を作ってくださいました。それでは、この基礎の上で私たちが力を注いで行うべきことがなんですか。

5-7節をご覧ください。「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」信仰というのは、神様からの賜物ですが、信仰の成長というのは私たちの役目になります。予定論を主張する者は、人がいくら努力しても神様が定めたことは変えることができないと言い、運命主義に陥って何の努力もしない場合があります。そして天から必要なものが勝手に落ちることを願っています。これはテストの前日に勉強もせず、良い成績をくださるように祈るものと同じです。

しかし、神様はイスラエルの民たちに乳と蜜の流れるカナンの地を与えると約束されましたが、それを信仰によって勝ち取るように導いてくださいました。イエス様も「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と言われました。ですから、私たちは聖霊に頼り、私たちの知性と情熱と才能を生かして信仰の成長のために努力するべきです。それでは、私たちが努力して備えるべきキャラクターは何ですか。

以上、8つのキャラクターは、信仰から始まって愛で完成されます。これは信仰のオーケストラーと呼ばれています。オーケストラーは、一つひとつの楽器がそれぞれの役割を持っており、そのすべてが合わさって人を感動させるのです。私たちにこれらのキャラクターが備わっているとき、霊的に成長するようになり、それに伴い、私たちの人生に豊かな実が結ばれます。しかし、これらを備えていない者は、近視眼であり、以前として罪の中にとどまり、実を結ぶことも、信仰の香りを発することもできず、役に立たない者になってしまいます。私たちの信仰が成長しなければ、後退してしまいます。ですから、信仰の上に堅くたち、これらのキャラクターを備えるために日々努力すべきです。

10節をご覧ください。「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたことを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」ペテロの手紙第一2章9節で神様は次のように言われます。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それはあなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが述べ伝えるためなのです。」滅びの中から召されたこと、選ばれたことは大きな神様の御めぐみです。これは救いの根源になるものですから、私たちはどんな状況のなかでも確かなものにするべきです。この確信があれば私たちはつまづかず、イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。

3. 真理の上に堅く立って(12-21)

ペテロは引き続き、現に持っている真理に堅く立つことを勧めています。当時は神秘的なことを求める霊知主義者による影響を受けている人がいました。そのため、新しい真理があるのではないかと福音を疑う人がいました。しかし、イエス・キリストが私たちの罪の購うためにこの世に生まれ、十字架に付けられ死なれたこと、3日目に死者の中から蘇られたこと、信じる人に神の国が用意されていること、これが聖書に書いてある真理であり、その他はありません。ペテロはこの世を去る時が近づいていることを知って、聖徒たちに思い起こさせたいことがありました。

16節をご覧ください。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」ペテロは変貌山の上で、キリストが神様から誉れと栄光をお受けになったとき、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」という神様の御声を聞きました。また、さらに確かな証拠は、予言の御言葉を持っていることです。

旧約聖書の至るところにはイエス・キリストについて証しています。予言の御言葉は暗い所を照らすともしびのようなものです。しかし、それは夜明けになって、明けの明星が上るまでです。明けの明星はイエス・キリストを指します。私たちはイエス・キリストについて証している予言のみことばに目を留めてよく読むべきです。しかし、注意事項があります。一つ目に、御言葉は聖書全体の文脈から理解すべきです。聖書には例え話もたくさんあるし、旧約聖書の場合は、今の私たちには時代も文化も異なる背景をもっていますので、単に1節のことばをもって全体を判断してはいけません。ですから、聖書全体の流れをよく把握し、新約聖書は旧約時代の背景をよく理解した上で読むべきであり、旧約聖書は新約聖書とどうつながっているかに注目して読むべきです。

二つ目に、聖書は人の私的解釈を施してはいけません。そのために、私たちは日ごとの糧を食べる時や聖書を読むとき、さとる力をくださるように切に祈るべきです。なぜでしょうか。21節をご覧ください。「なぜなら、予言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」予言のみことばは決して人間の意志によってもたらされたのではありません。聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。ですから、聖書は頭で読むのではなく、心で読むべきです。実際、哲学の博士であっても心を開かなければ聖書を理解することができません。一方、小さい子供であっても年寄りのおばあさんであっても、謙遜に受け入れる人には喜びと感動が与えられるのです。聖霊様が私たちの一番良い聖書先生です。

私は今日の御言葉を準備しながら、神様に召されたこと、選ばれたことについて改めて感謝することができました。また、主の御めぐみによって世界宣教の使命を頂いたものの信仰の成長がなく備わるべきキャラクターに欠けていることに気付きました。ルデヤ宣教師の母は、体が不自由であっても赤ちゃんが乳を慕い求めるように、神様の言葉を求めています。これも神様の御力によるものですが、私にはそれぐらいの熱心さがなく、自分の身の回りのことばかり考えているのが現状で、神様に申し訳ない心でいっぱいになりました。神様は私に、宝のような御言葉をたくさんくださいました。今年は「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ということばを約束の御言葉としてくださいました。私が将来に対する不安が生じるたびに、この御言葉を思い出し勝利することができますように祈ります。宣教師というすばらいい使命に相応しい実を結ぶ生活ができますように祈ります。

結論的に、神様は私たちに尊い、すばらしい約束の御言葉をたくさん与えてくださいました。私たちはうれしい時も、悲しいときも、これらの御言葉を思い出し、信仰の上に堅くたつべきです。そして信仰のオーケストラーを備えて主に仕え、豊かな実を結ぶべきです。今も生きておられ、ともしびのように私たちを導いてくださる神様を讃美いたします。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23